経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

「給料アップ」は不満を減らすがリスクも 活躍促すには「働きがい」を重視せよ

FeelWorks代表取締役/青山学院大学兼任講師 前川孝雄

人手不足の中、空前の初任給アップが起きている。企業にとっては負担だが、人材確保のためには仕方がない。だからといって、社員が定着するとは限らない。企業側にしてみれば「これだけの好待遇なのに?」という思いだが、社員の気持ちは違うという。なぜか? 人材育成のプロである前川孝雄氏が解説する。(雑誌『経済界』2026年1月号より)

前川孝雄 FeelWorks代表取締役/青山学院大学兼任講師のプロフィール

FeelWorks代表取締役/青山学院大学兼任講師 前川孝雄
FeelWorks代表取締役/青山学院大学兼任講師 前川孝雄
まえかわ・たかお 兵庫県出身。大阪府立大学、早稲田大学ビジネススクール卒業。1989年リクルート入社。「リクナビ」「ケイコとマナブ」などの編集長を歴任。2008年にFeelWorksを設立。「上司力®研修」などで500社以上を支援。著書は『本物の「上司力」』など約40冊。

新卒でも年収1千万円 賃上げ競争はラットレース

 いまや、空前の初任給引き上げラッシュ。帝国データバンクによると、2025年4月入社の初任給を引き上げる企業の割合は71%。引き上げ額の平均は9114円で、20万~25万円未満が62・1%でトップだ。

 ただ、これは人手不足から労働分配率の限界を超えた中小企業も含む平均値。ある大手金融企業は、高度な専門知識を持つ人材の初任給を48万円以上に引き上げると発表。ある大手IT企業は新卒一括採用を取りやめ、通年採用に切り替え職種別に都度採用を行い、新卒でも年収550万円から700万円程度を想定。職種によっては1千万円も可能とした。

 いずれも、従来のメンバーシップ型からジョブ型へと雇用慣行を転換する動きだ。新卒者をポテンシャルで採用し、年功序列の組織の中で一から育て上げる日本型雇用を脱して、即戦力人材獲得にシフトする潮流といえるだろう。

 優秀人材獲得のための企業間の賃上げ競争は激しさを増しているが、他社以上の厚遇を維持するのは体力勝負。上位であり続けるにはラットレースに参加するしかなく、消耗戦を強いられるのは明白だ。

 政府が物価上昇を上回る賃上げを企業に求めるなか、全体平均でも5%以上の賃上げが続くが国民に高揚感は広がらない。賃金が上がっても可処分所得が増えないからだ。つまり政府や一般報道が喧伝する物価上昇や賃上げのみならず、税と社会保険料負担の激増に大衆が気づいたのだ。先の国政選挙では、手取りを増やすことや税や社会保険料を減らすとした政党に現役世代が票を投じた。与党・政府への強い不満の表れだ。新体制の自民党高市政権も財源不足を唱えるのみでは国民は納得しないとみて、手取りを増やす方向へ舵を切らざるを得なくなっている。

 会社経営に携わる私も負担の重さはもちろん、事業主負担分など働く個人に自己負担分が分かりにくい税と社会保険料の仕組みには憤りを感じる。何より1975年に25%ほどだった国民負担率は、今や5割に届く勢い。現代は、農民が一揆や逃散行動に出た江戸時代の〝五公五民〟並みの重税社会なのだ。ちなみに、北欧諸国は日本より重税ながら医療費がほぼかからず、失業時のサポートも手厚い。大学までの教育も原則授業料ゼロの国も。75年に3万6千円だった国立大学の年間授業料が、15倍の54万円弱に激増した日本とは対照的だ。

 事態の打開には、国民一人一人の自己負担とリターンを明瞭にすることが大前提。そのうえで、可処分所得が増え続ける希望が求められるのではないだろうか。

 政治空白や迷走もあいまって、企業は人件費高騰に苦しんでいる。見直しの動きが出てきたものの労働時間規制も厳しいなか、待遇で見劣りすれば人材確保に窮して持続成長もままならない。しかし賃上げ等の待遇は、人材確保はもちろん定着や活躍に向けた絶対解なのだろうか。

「物理的な待遇」効果よりも「パーパス」と「成長の機会」

 ここで注目したいのが、マーク・モーテンセン・INSEAD教授と、エイミー C.エドモンドソン・ハーバード・ビジネス・スクール教授らの研究だ。氏らは人材の獲得とつなぎ留めには、短期と長期、個人と組織で整理した4象限のバランスある施策を必要とする。このうち個人の「物理的な待遇」(報酬や勤務条件)や組織内の「つながり・連帯」は、短期的には有効だが持続性は限定的。これに対し個人の「能力開発・成長」や組織の「意義・パーパス」は、醸成に時間はかかるが長期的に有効。目先の待遇ばかりではなく、4象限の施策にバランスよく取り組むべきというのだ(『ハーバード・ビジネス・レビュー』23年5月号)。

 こと「物理的待遇」について留意すべきは、損失回避バイアスだ。人は得た利益を失うことに抵抗する。かつ「もっともっと」と既得権益意識は肥大化する。社員が待遇ばかり気にするとモチベーション維持は困難に陥り、人材育成の障壁にもなる。

 他社と見劣りしない程度の待遇は必要だが、真に人を活かすには「何のために働くのか」を腹落ちさせることだ。つまり組織の意義・パーパスを共有し合い、社員の能力開発・成長の機会を拡充する中長期対策こそが重要ではないだろうか。

 上記の研究は、臨床心理学者フレデリック・ハーズバーグが提唱した古典的理論「二要因理論(衛生要因・動機づけ要因)」にも通じる。2要因のうちの1つが「衛生要因」で、働く環境や労働条件、職場の人間関係や給与など、いわば「働きやすさ」の改善。働き手を増やすために国を挙げて進めてきた働き方改革が重視したものだ。しかしハーズバーグの主張では、衛生要因が改善されることで働く人の不満足は減るものの、満足の増大にはつながりにくいとする。もう1つの要因が「動機づけ要因」だ。自分が担う仕事そのものや、チームの中で持つ責任、自分の持ち味や働きに対する上司や同僚、顧客からの承認、仕事の達成感などが該当。これらが満たされることで、人は「働きがい」を得て仕事に打ち込めるのだ。

 終身雇用の安定を求めつつも現実には難しいと考える若者は、就職と同時に転職サイトに登録することが一般化。常に自分の市場価値を確かめ、社外でも通用するプロへのスキルアップを求め続けているからだ。人材流動化も進む中、企業は社員が転職する自信があっても働き続けたいと思える会社を目指すしかない。

 500社以上の人材育成に携わる会社を営む私は、人を育て活かす本質は、「働きやすさ」ではなく「働きがい」だと確信している。実際、この信念のもと支援する金融機関では、中期経営計画や採用広報でも「働きがい」を打ち出し、10年以上にわたり管理職を中心に全階層別研修でも働きがい啓蒙を続けることで、地域内就職人気企業トップクラスとなり、早期離職も激減した。経営層には「働きがい改革」推進で社員の意識を変革し、現場上司には社員に働きがいをもたらすマネジメントが求められているのだ。

品川駅通勤
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