賃上げは容易ではない。特に地方では難しい。少子化・市場縮小・物価高・重税・金利高の悪条件がそろう中、知恵と工夫で懸命に必死に賃上げに挑む中小企業がある。今回は失敗した事例、成功しつつある事例を取り上げた。文=ジャーナリスト・吉田典史(雑誌『経済界』2026年1月号より)
賃上げをしても しなくても潰れる
「廃業3年程前から無報酬だった。2人娘の結婚資金や貯金、資産を切り崩し、経営を維持したが、売り上げ減少で資金繰りが急激に悪化し、力尽きた。正社員やパートの賃上げをしたくとも、最後はそれどころじゃなかった」
山梨県韮崎市を拠点とする「スーパーやまと」の元社長の小林久氏が語る。創業105年の老舗スーパーを運営するやまとの3代目だ。最盛期の2008年に売り上げは64億円、店舗数は16、正社員は80人、パート310人に拡大したが、急速に業績難となる。17年に売上高27億円、店舗9にまで減少し、廃業した。負債額は16億7千万円で、オーナーである小林氏は自己破産した。
「地方の中小スーパーは少子高齢化の影響が深刻。市場は小さくなる。買い物難民が増え、売り上げは伸び悩む。最低賃金や社会保険料、物価は上がる。価格転嫁は難しい。大手が中堅、中小を傘下に収め、勢いを増す。パートは時給が高い大手に流れる。人手不足はひどいが、少人数化も容易ではない」
スーパーは、典型的な労働集約と言われる。同社の全従業員の約7割がパートで、3割が正社員。パート200人程の時期に、特に優れていた約15人に「スーパーパート」として時給を1千円以上(当時は県内のスーパーの相場が800円前後)にした。優れた正社員を「スーパー社員」として店長など幹部に抜擢し、年収(額面)は平均550万~650万円に据えた。一般職(非管理職)は350万~550万円。
「これでも、当時の県内同業他社と比べるとやや高い。時給を50円上げると月300万円前後、年間で3600万円程人件費が増える。払うだけの原資が乏しく、頭が痛かった」
人口減のため、採用時にエントリー者が少なく、パートを増やせない。総額人件費を厳密に管理し、一定額に抑え込むためにも少人数で対処するしかない。政府や自治体の補助金や助成金を使い、ITデジタル化やDXを進めた。
「タイミングが遅かった。補助金や助成金の数百万円はすぐに消える。危機になった後では砂漠に水を注ぐようなもの。私には、そんなものは使いたくないといった思いがあった。見栄を捨て早くからセルフレジに切り替えたり、惣菜や刺身の機械によるパッケージ化をして手料理にこそ力を注ぐべきだった。経営資源の分配やメリハリがものすごく大切」
現在は妻の実家に居候し、講演活動と並行し、オンラインを使い、全国の小売業のコンサルティングをする。大半は、経営が苦しい経営者からの相談だ。
「政府から毎年、賃上げを求められるから上げざるを得ない。そうでないと、人が辞めていく。賃上げしなくとも、しても潰れると嘆く社長が多い。今後20年程で全国の中小スーパーの約9割は廃業もしくは大手の傘下に入る可能性が高い。売り上げ100億円前後でも、大手の傘下に入るケースが増えるはず」
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“賃上げ圧力”と深刻な人手不足
賃上げをする時、まず問題になるのは原資の有無だ。理想を言えば売り上げを拡大することで捻出すべきだが、市場が縮小する中では難しい。特に人口減少が激しい地方では困難だ。
名古屋市を拠点に30年以上前から労務コンサルティングを行う社会保険労務士の大津章敬氏は地方の中小企業から賃上げの相談が相次ぐと話す。「増えているのが、賞与や退職金を毎月の給与に振り替えることでベースアップするケース。例えば月額2万円のベアならば1万円は通常の定昇、1万円は賞与や退職金からとする」。
主な理由の1つは最低賃金や初任給が急騰する中、原資が十分になくともベアせざるを得ないため。もう1つは新卒、中途共に求職者は退職金や賞与額よりは月給に関心が強い。
「賞与や退職金の比率が高い企業は採用時にある意味で損をする可能性が高くなってきた。それを避けるためにも、分配の調整をして月給に振り替える事例が増えている。賞与や退職金を支給できない企業は難しい。それでも非正規、正社員とも賃上げをしないと、人材確保や定着の面で大きなリスクになる」
背景には、政府や社会の強力な“賃上げ圧力”と深刻な人手不足がある。中小企業は売り上げが伸びても、物価高や税負担の増額で原資をなかなか捻出できない。とはいえ、最低賃金が頻繁に上がると、正社員も短い期間で次々と上げざるを得ない。
非正規、正社員の賃金相場は上昇し続ける。正社員の20代後半~30代の転職では地方の中小企業でも、年収50万〜100万円の増額が可能だ。大津氏が相談を受ける経営者は「自社の20代社員は400万円台だから大丈夫」と話すことがある。「地方でもこの世代で実際には500万円台も珍しくない。この意識が採用難や離職の一因になる」
賃上げはコストではなく企業の成長戦略
新たな問題も生じる。かつては賃金を決める時、社員間の公平性を重視した。役割が大きい社員に相応の昇給を、そうでない社員には適切な水準を割り当て社内の納得感を高めた。だが、最低賃金の上昇により、役割の小さい社員や非正規の賃金も上げられる。役割の大きい社員との差が以前よりも小さくなるケースがある。内部公平性の確保はより難しく、重要になる。
「転職者が増え、社外の労働市場との公平性も無視できない。例えば、30代前半の中途入社の社員が同年齢で同じキャリアの既存の社員よりも入社時から月給が数万円高いケースは少なくない。そのため、中小企業でも昇格昇給中心の制度にシフトする傾向が見られる。役割や職責が上がると昇給する制度だ。ただし、多くの中小企業では依然として定期昇給が主流であり、役割や職種に応じたメリハリのある制度設計が求められる」
政府が推し進める「三位一体の労働市場改革」の1つの狙いは労働移動を促進し、成長産業への転職を通じて構造的な賃上げを図ること。それが着実に形となって現れている。だが、業績や生産性の向上が伴わないと続かない。
原資はどうすべきか。大津氏はまず可能な範囲での価格転嫁、つまり値上げを挙げる。商品や製品に競合優位性がない中小企業にとっては怖いかもしれないが、値上げなくして賃上げが難しい一面はある。「賃上げを継続するためには原資を増やすだけでは不十分で、IT化やDXを通じて生産性を向上させることが不可欠」。
価格転嫁で売上単価を上げ、効率化でコストを下げる。この2つがそろって持続できうる。一方だけでは社員らに負担がかかる。職場が疲弊し、生産性が下がったり、離職につながったりする。
大津氏が知る小売業の中小企業は限られた人員でも成果を上げる体制を作ってきた。例えばベテランの正社員がする業務をパート社員でもできるように細分化、標準化した。この業務設計とDXの組み合わせで社員、パート合わせて20人の職場が今は15人で動く。5人分の浮いた人件費が賃上げの原資になる。「賃上げに直結しうる業務改善助成金など公的支援も活用可能だが、賃上げの主役は経営改善努力による収益だ」と強調する。
その着実な試みが商品・サービス・製品の付加価値をさらに高める。顧客が対価を支払う理由が生まれ、継続的な利益が持続的な賃上げの原資となる。賃上げはコストではなく、企業の成長戦略の一部とも言える。
高利益率を上げ 賃上げの原資に
「売り上げが増えず、利益が出ない。物価や金利は上がる。税負担が重い。これで上げたら会社がすっ飛ぶ。これが、地方の中小企業の共通認識」
人口1万5千人程の愛媛県喜多郡内子町で空き家物件に関する相談を手掛ける、たんぽぽ不動産の代表取締役社長の松岡秀夫氏がつぶやく。社員700人程の総合建設会社の役員、社員約20人の不動産会社社長を経て22年からは地元で不動産会社を経営する一方、中小企業のコンサルティングを手掛ける。
「市場が小さくなる地方では値上げによる価格転嫁は難しい。したとしても物価上昇に追いつかず、実質賃金は増えず、社員や会社が疲弊する。そもそも全員一律のベースアップは地方の小さな会社では現実的でない」
悪条件の中、コンサルティングする栗田工務店(正社員約20人)とアカマツハウジング(正社員9人)は賃上げをしている。栗田工務店ではベースアップも行うが、基本は昇格昇給だ。年2回の評価(上期・下期)を実施し、昇格・昇級に伴い、賃上げを行う。例えば店長になった時点で大幅に上がる。17年に中途入社した店長は昇格時の年収が入社時の1・7倍となった。逆に評価が下がれば減額もあり得るが、現在までそのような社員はいない。
同社は地場で住宅、不動産、介護を手掛ける「みのりグループ」が09年、社員3人の会社をM&Aで傘下に収め、リフォーム専門としてスタート。現在3店舗、社員約20人で売り上げ約6億円。利益率は非公開ながら、毎年高水準を維持する。「地方のリフォーム会社として極めて高い水準にある利益率は、賃上げや社員モチベーション向上の原資になっている」
秘訣は、社員1人が営業、設計、施工、管理、引き渡しまで一貫して担当することにある。多くの会社は営業担当が受注してきた案件を施工担当に引き継ぐ分業制のため、そこでの齟齬が生まれやすい。1人が最初から最後までワンストップで関わることで顧客との関係が密になり、再発注(リピート率)は累計1820件中、1390件と76%に及ぶ。
「同業の中小では驚異的に高い。多額の宣伝広告費や販売促進費をかけることなく受注できるため、浮いた費用を顧客サービスに投じ、さらにリピートを呼ぶ。この循環が利益を生み出し、賃上げの原資となる」
評価制度と業界の常識を破る仕事の仕方でリピート率の向上――。地方の中小企業では苦しみ抜いた末の知恵と工夫で賃上げができるのかもしれない。
