九州には地域に密着したユニークな企業が多い。共通点は、先を読む眼を持ち新たなチャレンジしていること。そんな九州の注目企業の経営者たちにインタビューを敢行した。
第一交通産業・田中亮一郎社長「全国34都道府県で営業する日本一タクシー会社の役割」
日本最大のタクシー会社、第一交通産業は北九州市に本社を構える。1960年にわずか5台でスタートしたタクシー会社は、全国34都道府県で営業するまでになった。創業からまもなく60年。田中亮一郎社長が語る第一交通産業の足跡と、果たすべき役割とは――。
田中亮一郎社長プロフィール
乗合タクシーを運営し「白タク」上陸に歯止め
── 第一交通産業は、M&Aによって規模を拡大し、現在では全国34都道府県に拠点を持ち、保有台数約8千台と、日本最大のタクシー会社となりました。
田中 今ではタクシー会社やバス会社、不動産なども含めると全国に170社からなるグループとなりました。最初のM&Aは創業者(黒土始氏)が社長だった1960年代に遡ります。
私が社長になって(2001年)からでも、200社近くのM&Aを行ってきました。タクシー業界は規制が厳しく、保有台数を決められていました。その中で規模を追求しようとすると、M&A以外に方法はありませんでした。
ただし、私たちの場合、自分たちから買いにいった会社は1社もありません。すべて、頼まれて買ったものばかりです。タクシー業界は長期にわたり利用者が減り続けており、経営が悪化している会社が多く、後継者がいなく、事業と社員を守りたい。そういう会社から話がくるのです。
── 過疎地域で乗合タクシーを展開するなど、従来のタクシー会社がやってこなかったことも始めています。その狙いはどこにあるのでしょうか。
田中 自分の力で地域のお客さんをつくろうというのが基本的な考え方です。地方自治体の財政も厳しく、多くのバス路線が廃止されました。この地区の住民は交通手段を持ちません。そこでタクシーが公共交通としての役割を担えば、その地区の方々に喜んでもらえます。
── 採算は合うんですか。
田中 もしこれをやらなかったらどうなるか。アメリカのUberのようにライドシェアのサービスが始まっています。しかしこれは日本では禁じられている「白タク行為」にほかなりません。安全面などへの懸念もあります。
しかし私たちが白タクに反対したところで、交通過疎地をそのままにしていれば、白タクの参入を許すことになってしまいます。そして地方で参入を許せば、やがては都市部にも広がっていきます。これを阻止するためにも、われわれが地域の足にならなければならないのです。
以前は乗合タクシー自体が簡単には認められていませんでしたが、2010年の交通基本法改正でタクシーが公共交通機関と明記されました。これにより、自治体や住民と地域公共交通会議を開き、そこで認められれば乗合タクシーを運行することができるようになりました。
採算的には厳しいところもありますが、赤字の7割は自治体から補填されます。それに、乗合タクシーを通じて地域の人と密接な関係を構築できる。そのため乗合タクシーを利用されている方が、普通にタクシーに乗る時、第一交通を指名してくれるほか、利用率自体も上がっています。この効果も無視できません。
── 同業他社から反発を受けませんでしたか。
田中 乗合タクシーを始めるにあたり、私は他社に対しても一緒にやりませんかと呼び掛けてきました。また乗合タクシー事例集をつくり、そのノウハウをすべての事業者に公開しています。こうした地道な努力を続けてきた結果、乗合タクシーを行う事業者も増えてきました。その結果、一時は全国に6千の交通過疎地がありましたが、現在は1500にまで減っています。
地域の毛細血管として住民の足を提供する
── 乗合タクシーだけではなく、沖縄などでバス事業も展開しています。
田中 沖縄にはバス会社が4社ありましたが、3社が民事再生となりました。そのうち2社を当社が引き受けました。引き受けるにあたっては、徹底的にお客さまの声を聞くことを心掛けました。運営を始めて15年がたちますが、今でも3カ月に一度モニター会議を開いており、私も毎回参加して、利用者の方々の声を聞いています。
そうした要望の中から始まったサービスに、バスの到着時間のメール連絡があります。沖縄は鉄路がなく交通渋滞が激しいため、バスも時刻表どおりに運行できるとはかぎりません。そこでバスにGPSを装着し、「バス停到着まであと〇分」というメールを受けられるようにしたのです。こうした取り組みを行った結果、今では沖縄最大のバス会社となり、単年度利益も出ています。
── 自動運転の開発が進んでいます。これとライドシェアが結び付けば、タクシーの存在意義がなくなる可能性があります。
田中 けっしてネガティブにはとらえていません。自動運転になれば人件費がかからないというメリットもあります。
それに、仮に5年後に自動運転が始まるとして、現在70歳の人たちが抵抗なく利用できるかどうかは疑問です。ですからまだ時間はある。その間にわれわれがどう対応するかを決めていきます。
そのために、DeNAや日産自動車、SBドライブなどと提携し、研究を続けています。重要なのは、われわれは車両という足を持っているということ。さらには乗合タクシーなどで培ってきた自治体との連携がある。これを活用することで、自動運転時代になっても、地域の方々のお役に立てると信じています。
われわれが目指すのは、地域の毛細血管で点を面でカバーする私鉄のような存在です。「何かあったら第一交通に頼もう」。そう言われることが目標です。
霧島酒造・江夏順行社長「『黒霧島』の大ヒットでつかんだ本格焼酎メーカー日本一の座」
人口減少、地場企業の衰退、若者の都市への流失……、地方を取り巻く環境が厳しい中、「地域創生のモデル」(政府関係者)と注目を集める企業が宮崎県都城市にある。本格焼酎のトップメーカーの霧島酒造だ。成長を続けることで、地元若者の雇用や地方自治体への税収面で大きな貢献を果たす一方、サツマイモや米といった原材料を地元産にこだわり、約1800軒の農家の経営安定にもつなげている。霧島連山を仰ぐ都城盆地で、世界市場をも視野に入れながらも「地域と運命共同体」と江夏順行社長は言い切る。
江夏順行社長プロフィール
スーパードライ研究が生んだ「黒霧島」
── 宮崎、鹿児島といった南九州には長い歴史を誇りながらも中小の焼酎メーカーが多い。なぜ、霧島酒造は小規模な「川東江夏商店」から国内トップに成長できたのですか。
江夏 私が3代目社長に就任して22年。以前は焼酎といえば鹿児島産、なかでも「白波」(薩摩酒造)が圧倒的でした。このままではジリ貧。なんとしても「白波」に追い付き、負けたくない。この強い気持ちで全社一丸となれたことが成長につながったと考えます。
── 成長には営業、ブランド、生産能力、さらには品質が欠かせませんが、簡単ではないですよね。
江夏 営業ではまず、地元都城で地盤を固めた上で、九州の食処「福岡」にターゲットを定めました。当初は卸問屋、小売店にしても相手にされず壁が厚かった。営業マンが飲食店を一軒一軒回りました。まさにどぶ板営業ですよ。
県人会の方々の名簿も頼りにしながら売り込みを続けました。テレビ等の宣伝という「空中戦」も利用しましたが、泥臭い営業が功を奏しました。消費者や飲食店に飛び込んでグラスを交わし、アピールする。このスタイルは今も変わりません。弊社の強みと誇りでもあります。
── その営業力を基礎にして1998年から発売を始めた「黒霧島」の大ヒットにつながるわけですね。
江夏 アサヒビールの「スーパードライ」の成功を徹底的に研究、分析しました。消費者が感心を持ち、一度飲んでみようと手に取りたくなるようなキャッチフレーズやデザイン、学ぶべきことばかりでした。
そのころ黒豚や黒酢、黒ゴマといった商品がヒットし始めていた。時代の関心は「黒」にあるのではないかと考え、黒麹を使った食を引きたてる「黒霧島」が生まれました。先発で「黒」の名称を使う鹿児島県の焼酎メーカーにも話を聞きに行ったこともあります。
雇用を生み税金を納める地方創生のモデル企業
── 本格焼酎ブームもあり、販売は順調でしたが、生産量の増大に伴ない品質管理も大きな課題となったと思いますが。
江夏 品質はなにより重要です。2代目社長で父の順吉は1949年に「杜氏(とうじ)制度」を廃止しています。現場の最高責任者で、杜氏によって焼酎の出来が左右される時代ですから画期的なことでした。東京帝国大学(現東大)の工学部応用化学科を出た順吉は社員教育と設備の改善に力を入れ、カンや経験に頼らない生産システムを築き上げました。よりよい品質の焼酎を安定的にという意識は、今も受け継がれています。
また以前はサツマイモの収穫時期(約100日)しか、工場が稼働できませんでしたが、冷凍技術を自社で確立させ、年間を通じて生産できる体制を整えました。売上高が年に2桁増の販売拡大にも対応できる体制ができました。
── 一方で、生産量が増えると味、品質の均一化を行うブレンダーの役割が重要だとか。
江夏 現在、焼酎を貯蔵するタンクは約250本ありますが、それぞれ個性があり微妙に味が異なります。その違いを把握し、タンクごとの焼酎の組み合わせを指示するのがブレンダーです。味覚は人間しか分からない。この分野に限れば省力化、機械化は難しいのではないでしょうか。
── ところで、原料は地元にこだわっていますね。
江夏 主な原料となるサツマイモは約1800軒の農家に生産してもらっています。それぞれの成分や農薬散布の履歴を提出してもらい、米についても放射能の測定をすることで安心、安全の確保を最優先しています。
もちろんサツマイモを一個一個チェックするわけにはいきません。各農家が「不良品を入れたら焼酎がまずくなる。そうなれば自らの、地域の損失になる」と自覚してもらっています。信頼関係は強固で年2回ほど「甘藷会議」(情報交換会)をしています。工場の増設に当たっても地元建設業者にお願いしました。「地域全体が運命共同体」ですよ。
── 雇用だけでなく、地元自治体への税金の貢献も大きい。
江夏 2017年度の売り上げは約650億円。そのうち酒税は3分の1で、この半分が宮崎県や都城市の税収となります。100億円以上ですね。
また、従業員は566人、サツマイモの収穫時期は、臨時社員や有期社員などを含めると約800人になります。宮崎を訪れた政府関係者から「雇用でも税収でも驚くほど。まさに地域創生のモデル企業」と評価してもらいました。より良い品質のためには革新を続けていなければなりませんが、地域に根差した泥臭い企業、社員の社風は守り続けます。
── 今後の展開についてどのようなお考えですか。
江夏 本格焼酎のおいしさは世界に通用すると自信を持っています。例えばアルコール度数が30度くらいの商品は、もっと香りが豊かで海外、特に欧米でも受け入れてもらえる商品になるはずです。輸出拡大はさまざまな問題があり一朝一夕には解決しないでしょうが、本格焼酎の可能性は十分だと考えます。
ふくや・川原武浩社長「品質追求と挑戦にこだわる明太子のパイオニア」
ごはんのお供に欠かせない辛子明太子。今年はその明太子をふくやが開発して70年。今では多くの明太子メーカーがあるが、「ふくやブランド」は頭ひとつ抜け出ている。
川原武浩社長プロフィール
素材や製法、流通にもこだわり品質を追求
── 最近の辛子明太子市場の動向はいかがですか。
川原 家計調査のデータでは縮小しているとなっていますが、私はそうは見ていません。単価が下がっているのは事実ですが、消費量は減っていない。むしろ最近では明太子マヨネーズや、当社も力を入れている明太子入りツナ缶などの派生商品も出てきていますし、中食や外食での消費は家計調査の「たらこ」に含まれていません。トータルでは横這いか微増だと考えています。
── ふくやの業績はいかがですか。
川原 当社の過去最高売り上げは、2003年の184億円です。それが最近では150億円です。経営戦略を薄利多売から高付加価値型へ変更したことで売上高は減っていますが、利益を確保しています。
── 明太子はふくやがパイオニアですが、数多くの同業者がいます。ふくやの強みは何ですか。
川原 明太子は、私の祖父で創業者の川原俊夫が開発したものです。創業者は、若い頃暮らしていた釜山で食べたスケトウダラの卵巣を塩と唐辛子やニンニクなどと発酵させた「明卵漬」を日本人の舌にあうように工夫したものを「味の明太子」として1949年に売り出しました。
創業者はその製法をほかにも教えたため、明太子をつくる業者がいくつも生まれ、それが明太子が全国に広まっていった理由のひとつです。
当社の特徴は、一にも二にも品質です。当社で使うたらこは、未成熟でも完熟しすぎたものでもない、ちょうどいい状態のものを使っています。この素材を秘伝のたれにつけることで、よそとは違うシンプルで味わい深い明太子ができあがります。
また流通にもこだわっており、生の明太子は基本的には直営店で扱い、スーパーなどでは販売していません。それも品質に責任を持つためです。
── 最近は中元・歳暮も減っています。さらには低糖質ブームもあり、コメの消費量も落ちています。環境的には厳しくなる一方です。
川原 中元・歳暮といったフォーマルな贈答は減っていますが、ギフト需要そのものはむしろ増加しています。とはいえ、今後とも明太子が今までのような形で消費されるとも思っていません。今では魚を丸ごとではなく、切り身や刺身で買うのと同じように、もっと使いやすい形になっていくと考えています。
そこでチューブ入りの明太子など、新しいタイプの商品を開発しています。チューブなら、トーストなどにも手軽に塗ることができますし、新しい需要につながります。
忘れてはならない社会や地域への貢献
── 販路は拡大していきますか。
川原 贈答から土産・自家消費需要へという構造転換に伴い、福岡空港内に直営店をオープンしましたし、観光地や交通立地にアプローチしていきます。高速道路のパーキングエリアへの出店にも、もう一度、挑戦しようと考えています。
また、缶詰など常温流通できる加工品に関しては、卸を通じての販売も始めました。直営以外の販売は社内でも驚かれましたが、これまでやってこなかったのは、体制が整っていなかったためです。しかしその状態が長く続くと、タブーのようになってしまいます。こういうものを今後打破していこうと考えています。
── 今後も川原家による経営は続くのでしょうか。
川原 創業者以来、私が5代目の社長ですが、5人全員が川原家の人間です。でも、これは私の代で終わりです。次からは川原家以外の人にも経営を託します。だからこそ、私の代のうちに変えるべきことは変えていこうと考えています。新しいことを始めるには創業家のほうがやりやすいところもありますから。
── 逆に、いつの時代になっても変えてはいけないものとは何でしょう。
川原 創業者はふくやを、社会や地域に貢献するために始めました。これは今も当社の経営理念になっています。これだけはどんな時代でも守っていくべきことだと考えています。もしこれが守れないようであれば、会社を存続させる意味がありません。
それと、ものづくりへのこだわりです。創業者が明太子のつくりかたをオープンにしたのは、味・品質に絶対的な自信を持っていたからです。ですからものづくりに妥協はありません。それでいて時代に合わせて新しい商品もつくっていく。それだけはこれからも変わりません。
関家具・関文彦社長「見栄を張らずに持たざる経営を貫徹し50年間赤字なし」
福岡県南西部に位置する大川市は、日本最大の家具の町として知られている。しかしビルトインタイプの収納家具が増えていることもあり、日本の家庭用家具市場は、以前に比べはるかに小さくなった。そうした中、1968年に大川市に誕生した関家具は、50年間、一度も赤字を出していない。縮小する市場の中で、なぜ好調を維持できるのか。
関文彦社長プロフィール
米国視察で決断した「箱物」から「脚物」へ
── 関家具は昨年、創業50周年を迎えました。改めて、その歴史を振り返ってください。
関 ここ大川市(福岡県)は日本一の家具製造の町で、私の父も家具職人でした。私も小さい頃から材木を運ぶなどして働きながら、いずれは家具の仕事をしようと考えていましたが、大川には作る人はたくさんいる。それなら自分は売る側になろうと考え、関家具を立ち上げ、家具卸を始めました。
ゼロからのスタートですから最初は苦労しました。信用もありません。そこで始めたのが、朝仕入れた商品を昼間に売って、仕入代金を夕方には支払うというものでした。
通常は月末締めの翌月末の手形払いです。そのため家具職人が現金を手にするまでに数カ月が必要でした。でも当社なら、その日のうちに現金が手に入る。その後、資金的に回るようになると、朝仕入れて朝支払うようにし、さらには前払いで商品を仕入れることができるようになりました。
家具メーカーにしてみれば、他の問屋より支払条件がいいので、よそより安く売ってくれる。それが当社の競争力になったのです。おかげで創業から50年間、一度も赤字になったことがありません。
── とはいえ家具業界は、市場が縮小しています。その中で好調を維持している理由は何でしょう。
関 創業した当時は、家具市場が拡大していて、婚礼家具として、タンスなどがよく売れていました。しかし、最盛期に全国に520あった家具問屋は、今では30以下に激減しています。その中で生き残ることができたのは、時代の変化に合わせて扱う商品を変えてきたからです。
創業時は、タンスなど、いわゆる「箱物」全盛の時代でしたが、1974年から75年にかけて米国市場を視察して分かったのは、タンスなどの収納家具は、すべてビルトインになっているということでした。家具屋に行っても売っているのはベッドやソファ、テーブル、椅子などの「脚物」ばかりです。これを見て、日本でも箱物にこだわっていてはいけないと、脚物への転換を決意しました。
最初に扱ったのは、台湾製のロッキングチェアで、仕入れて卸したところ、非常によく売れた。その後、籐製品や二段ベッドへと、脚物を拡大していきましたが、その転換がうまくいったのです。今では当社の売り上げの8割が、テーブル、ソファ、ベッドの3つで占められます。
また、当初はホームユース家具ばかりを扱っていましたが、その後、オフィス家具、ホテル・レストランなど業務用へと拡大しています。その結果、今ではホームユースは50%にまで減っています。
── 時代の変化をいち早くつかんだわけですね。
関 もう一つは人材に恵まれたことです。4月に26人の新卒社員が入社しますが、応募者は120人を超えました、地元だけでなく、全国から希望者が来ています。彼らが、商品開発をし、新しい提案をしてくれる。それが成長につながっています。
社長はハードワークし社員の失敗は怒らない
── 何が若い人をひきつけるのでしょうか。
関 当社には「経営の心得13ヶ条」があります。第1条は「経営者は1年365日ハードワーク」で、実際、私は50年間、毎日休むことなく働いています。全国を駆け回り、土日も小売りの現場などに顔を出します。この心得の第10条は、「社員への言葉『楽しくなければ仕事じゃない、やりたい事を任す、失敗しても文句は言わぬ、責任は全て社長が取るから思い切ってやってください』」というものです。
今、当社は卸だけでなく小売りもやっていますが、これは社員の提案によるものです。もともとベッドの卸ショールームがあったのですが、そこに一般の人も買いに来ていた。それを見て、小売りをやろうと言ったのです。
東京・青山には「アトリエ木馬」というショールームがありますが、これも社員発です。青山ですから家賃も高い。でも社員がやりたいというのであれば、チャレンジするのもいいと思い、ゴーサインを出しました。 このほか、新宿や名古屋、大阪の店舗も、すべて社員が見つけてきたものです。私から言い出したのは、福岡・天神の店ぐらいのものです。
── 新しいことを始める時、あるいは撤退する時、その線引きはどうしているのですか。
関 まずは「やってみろ」です。やってみて赤字になることもあります。でも私は、事業の20%は赤字でかまわないと思っています。その代わり20%の事業で稼ぎ、残りの60%はとんとんでいい。そうやって経営していると、20%の赤字事業の中から、次の収益の柱が育ってきます。
青山のショールームにしても赤字続きでした。でも今では収益に大きく貢献してくれるまでになりました。ですから赤字事業も大切にしています。
── けっこう大胆ですね。
関 そんなことはありません。私はむしろ小心者です。最初、資産も何もないところから始めたので、固く固く、見栄を張らずにやってきましたし、基本的に持たざる経営です。
家具製造は、一部、自社工場でつくっていますが、大半はファブレス製造です。これを貫いてきたからこそ、50年間、一度も赤字にならずにすんだのです。
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