「マグロ大王」のニックネームで親しまれる、喜代村社長・木村清氏。今でこそ「すしざんまい」といえば木村氏、と広く認知される存在だが、かつては戦闘機パイロット、弁護士を目指すも挫折。数々の事業を経てようやく喜代村創業にたどり着いた経歴がある。そんな木村氏の経験や、挫折に陥りそうな時の心構えを聞いた。聞き手=小林千華 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2024年3月号「夢やぶれて経営者」特集より)
木村 清 喜代村社長のプロフィール
交通事故でついえた戦闘機パイロットへの夢
―― 戦闘機パイロットになろうと思ったきっかけは何ですか。
木村 4歳になる直前、父親が亡くなった。葬式の時、みんなが涙を流してあんまり悲しそうだったから、自分だけ外に出て空を見ていたんです。そうすると頭の上を、何台ものF-86セイバー(ジェット戦闘機)が飛んで行った。これはすごいなと思って。その時に「よし、あの戦闘機に乗ろう」と決めました。
―― そんなに早くからの夢だったのですね。
木村 その後、地元の中学校を卒業してすぐ、航空自衛隊第4術科学校の航空生徒隊に入隊しました。中学校の先生に、そこでなら給料をもらいながらパイロットを目指せると教わったからです。それで入ったらものすごい訓練。腕立て伏せも普通20回くらいしかできないんだけど、訓練では500回、1千回。普通は1500メートルを7分くらいで走るところを、みんな5分で走れるようになる。
だけど肝心の飛行訓練がいつまでたっても始まらないから、夏休みに入る頃、先輩に尋ねたんです。そうしたら「ばか者、お前らはトンツーだ」と。つまりそこでいくら訓練を積んでも、無線電信しかさせてもらえない。「航空」生徒隊というから、もちろんパイロットになれると思ったのに! それで同級生は8割方「夏休みが明けたらもう来ない」と言っていました。
その後すぐに夏休みがあって、春に入隊してから初めて外出ができた。私も田舎へ帰りましたが、そこで大歓迎を受けたんです。「清さん、すごいところへ入ったね」と。町長までわざわざ自宅を訪ねてきてくれた。だから自衛隊を辞めるなんておふくろに言えなくて、とぼとぼ熊谷の駅へ戻りました。夕方まで基地の周りで同期と「戻ろうか、どうしようか」と悩んでね。中には夢を諦めてしまう人もいたけれど、私は「どうしたらパイロットになれるのか」と考えることにしました。
―― その後どうしたのでしょうか。
木村 高卒資格を取り、航空機の操縦学生になれば、戦闘機パイロットを目指せると分かったので、2年間猛勉強して大検に合格しました。そして空曹候補生の資格を得ましたが、前例がないからと1年待つことになり、その間に今度は交通事故に遭ってしまった。体力づくりのために山道を走っていたら後ろからトラックがやってきて、積んでいた荷物が落ちてきたんです。とっさに近くの溝に滑り込んだけれど、鉄管が頭に当たって、目の調整力に影響が出てしまいました。2年間治療を受けましたが、戦闘機パイロットになれる基準までは戻らなかった。
戦闘機は駄目でも、輸送機やヘリコプターの操縦ならできると言われました。でもあくまで戦闘機のパイロットになりたかったので、それができないなら仕方ないと思って自衛隊を辞めたんです。
―― それでパイロットへの道は絶たれてしまったのですね。
木村 はい。自衛隊にいる間、中央大学法学部の通信課程に入学していたんですが、自衛隊を辞めた後は弁護士を目指し、さまざまなアルバイトをしながら学費を稼ぎました。
印象深いのは百科事典のセールスです。とにかくなかなか売れない。最初は1日60軒回ったが売れない。今度は120軒回ったがやはり売れない。240軒、360軒、640軒と回っても売れないんです。売れないから、月の半分が過ぎると生活費がなくなる。朝晩はインスタントラーメンを食べ、昼は営業の合間にパンをかじる毎日でしたが、途中からその金さえなくなるほどでした。営業のためのバス代もないから、青梅街道、甲州街道へ向かうトラックに乗せてもらって、途中から歩いたりして640軒回る。なんでこんなに売れないんだろうと悩みました。
1カ月半が過ぎたある日の夕方、もう辞めようと思って公園のベンチに座って百科事典をぱらぱら読んでいたら、遊んでいた小学校帰りの子どもたちが近づいてきて、「それ何?」と聞くんです。少し読んであげていたら、その様子を見ていた母親が「その本を買います」と言う。驚いて「いや、これは売れない本で。私がここで読んであげますから買わなくてもいいですよ」と返したんですが「それでも買います」と。その時持っていたのは1週間売れずに持ち歩いたものだったので、新品を用意してその日の夜、お宅に伺いました。すると6、7人の奥さんたちが集まっていて、みんな「うちにも売ってください」と言うんですよ。これはすごいと思い、「会社に戻って取ってきます」と言って戻ると、会社にも電話注文が入っていた。そこから毎日毎日車で百科事典を届け回る日々が始まり、1カ月半で500セット以上売れたのです。
しかし結局いくら売っても給料に反映されず、辞めることを決めました。その後水産会社に入ったことが、結果的に今の事業につながります。
それは挫折じゃない、課題だ。次どうするかをいつも考えろ
―― 戦闘機パイロット、司法試験など挫折は数多くあるようですが、落ち込みませんでしたか。
木村 そりゃあ人には言えないけれど、1晩くらいは苦しい時もあります。でもいつまで悩んだって結論なんか出ないんだから、次どうするかをすぐに考える。駄目なら次、また駄目なら次とすぐに切り替えるから、どんどん新しい考えが浮かぶのかな。
でも、事業にしても何にしても、やってる時は苦労だとも何とも思わないですよ。大変なことが生じるのは当たり前なんだから。同じ場所を目指すとして、車で行こうとすれば通行止めの道があるかもしれないし、電車で行こうとすれば遅延したり運休になったりするかもしれない。どんな交通手段を使ってもリスクはある。それと同じです。挫折があることは予期しているんだから、「それがどうした」ですよ。
おふくろがそういう考えの人だったんです。「ないものはない。上を見ればきりがないが、下を見れば希望がたくさんある。水が飲めるだけでもありがたいんだ」とね。
―― もし今、何らかの挫折に苦しんでいる人が目の前にいたら、何と言葉をかけてあげたいですか。
木村 それは挫折じゃない、課題なんです。どうやったらその課題を破れるか。きっとその本人だけが悪いんじゃなくて他にも原因があるはずだから、周りの人にでも尋ねてみればいいんです。何か解決策はある。一生懸命やっていればね。
諦めたら終わり、失敗です。諦めなければ失敗ではない。