日本は「老舗企業大国」だ。世界の100年企業のうち、日本企業が約6割を占める。なぜ日本では企業が長年にわたり存続し、繁栄し続けることができるのか。先人たちの知恵を探るとともに、それが今、どのように継承されているのかを検証した。文=経営評論家・ジャーナリスト、岡山商科大学大学客員教授/長田貴仁(雑誌『経済界』2024年12月号巻頭特集「老舗とイノベーション」より)
東京遷都がきっかけの「とらや」の決断
帝国データバンクの『全国「老舗企業」分析調査(2023年)』によると、毎年およそ2千社が業歴100周年を迎えるが、昨年初めて4万社を突破し、業歴100年以上の老舗企業は4万3631社になった。今後もこれまでと同様の傾向で増加すると見込んでいる。海外機関の調査によると、世界で創業・設立から100年以上経過した企業の数は約7万5千社(2022年時点)であることから、まさに日本は「老舗大国」である。全国トップはイメージ通り京都府で5・26%を占める。
老舗の最優先課題は「持続」である。成長は緩やかでもいい。とにかく持続しなくては意味がないのだ。このことを物語る面白いエピソードがある。『京都ぎらい』(朝日新書)の筆者である井上章一氏(国際日本文化研究センター所長)が1970年代に洛中の旦那から聞いた話を紹介している。
《君は京大生か。うちらのところではな、近所の家で息子が京大にかよいだしたら、同情されるんや。気の毒に、もうあの子は家の跡をつがへんわ。あの家は、こまるやろな、と。
同志社ぐらいが、ちょうどええんや。そこそこ、かしこいし、いずれは店をひきうけるボンも、ぎょうさんかようてる。あそこやったら、次の京都をになう世代が、たがいにつきあえるやろ。京大では、それができひん。あんなとこ、あかん……。》(京都人の京大観と同志社観「文春オンライン」2018/04/02)
この「京都(なら)あるある話」は、今でも通じる京商人の「日常の経営学」だ。ばかげた話のようで、なるほど、とうなずいてしまうご説である。しかし、この話を表層的に聞いていると、単に世襲を押し付けているだけではないかと受け取られるかもしれない。しかし、京言葉には裏がある。幾多の苦難も乗り越え生き延びてきた企業、商店には、見えざる叡智が隠れている。そして、老舗のボンボン、お嬢ちゃんは、先々代、先代が培った資産を引き継ぐだけではなく、成長させていかなくてはならない。それには革新、変革が求められる。場合によっては、業態転換も考えなくてはならない時代である。そのためにはオープンイノベーション、海外展開も考えなくてはならないだろう。
京都から出ていった企業にも、その叡智が根付いている。羊羹の老舗、虎屋(ブランドは「とらや」)である。虎屋は室町時代後期に京都で創業し、五世紀にわたり和菓子屋を営んできた。後陽成天皇の御在位中(1586〜1611年)より御所の御用を勤め、1869年(明治2年)の東京遷都にともない、天皇にお供して、京都の店はそのままにして東京にも進出した。市井の人々ではなく皇室が主要顧客であったため、遷都は屋台骨を揺るがしかねなかった。東京進出は存亡の危機を脱するための思い切った戦略転換だった。その後は、東京人には京都の店ではなく、東京を代表する高級羊羹店と認識され、確固たるブランドを構築した。変革の遺伝子は後世に受け継がれた。
2020年6月に、虎屋17代・黒川光博氏が代表取締役社長を退任し、18代・黒川光晴が就任した。虎屋も新型コロナウイルスの影響を受け、20年4月から5月にかけて、売上高が前年比で7割減少し、新社長にとっては厳しい状況下でのスタートとなった。21年頃から業績が回復し始めたが国内の市場環境は厳しい。スイーツ志向による若者の和菓子離れ、公私とも中元・歳暮離れが顕著である。餡が苦手、という若者も少なくない。こうした逆風に立ち向かうため、先代から若者に話題になるような商品や店舗をつくり、SNSで積極的に発信しているが、急激な人口減少が見込まれ、その中でも絶対的に少なくなるZ世代以下の若者を狙ったところで日本市場復活の切り札にはならない。どのような変革を果たすかが見どころである。
そこで、虎屋が拡大を模索しているのが海外市場での成長だ。明治時代に京都の和菓子店が東京へ進出するというのは、今でいうところの海外進出に等しい。先代は1980年にパリ店をオープンした。ところが、羊羹が黒い石鹸と間違われるなど、思いのほか異文化の障壁は高かった。フランスの素材を使った商品を開発するなどの工夫を重ね、徐々に現地の人々にも受け入れられるようになった。
このような息の長い戦略を実践できたのも、創業家自体が「500年物語」に支えられた「とらや」というブランドをフル活用し、改革型持続的成長を実践し続けてきたからだろう。虎屋は、パリからさらなる海外市場拡大により、完全復活どころか一皮むけるかもしれない。
花札屋が世界の任天堂に脱皮できた理由
皇室御用達を看板にする京都発の「品の良い老舗」が虎屋であるとすれば、京都からグローバル化を果たし大企業になった任天堂は「やんちゃな老舗」である。1889年に山内房治郎氏が、かつて「五条楽園」と呼ばれていた遊郭と賭場で栄えた街で創業した。製造、販売した商品は花札。主要な顧客は賭場関係者だった。1902年には、日本初のトランプ製造にも挑戦し成功を収めた。
やんちゃな任天堂でやんちゃな社長が中興の祖となる。山内溥(ひろし)氏だ。83年7月に家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売して以来、「ゲームの任天堂」に業態転換した。早稲田大学在学中に2代目社長だった祖父・積良氏が死去、家業だった丸福かるた販売(現任天堂)を突如継ぐことになった。その後、50年間陣頭指揮を執り、2013年に亡くなるまで大きな影響力を持ち続けた。
筆者が会ってきた経営者の中ではかなりユニークな存在だった。京都を代表する会社でありながら、京都の財界人とは一切付き合おうとはしなかった。その理由を尋ねると、「外ではパンツ一枚で飲めんからね」とにこりともせず真顔で答えた。
ニヒルな表情を見せることが多かった山内溥氏。その顔にはどこか憂いが隠されているように見えた。
少年期、青年期の悪しき思い出を一生引きずりながらも、それをパワーの源泉にする人がいる。山内溥氏の場合、幼少時に、父・山内鹿之丞氏(婿養子)が近所の女性と駆け落ちして失踪した。その後、祖父母に富裕な環境で育てられた。だが、働き者の母を泣かせた父への怒りは収まらなかった。社長に就任したての頃、父がふらっと会社を訪れた。山内溥氏は「出て行け」と追い返したのだ。
山内溥氏は闘争心が強い人だった。「(当時、ハード志向の)ソニーはゲームが分かっていない」が口癖だった。闘争心は憂いの変形だったのかもしれない。裏社会の賭場とつながる花札屋がルーツであったことを気にしていたようだ。
祖父の代では、トランプやかるたも手掛けたが家業の範囲にとどまり、大きな事業拡大が見込めなった。そこで、プラスチック製のキャラクター・トランプ「ディズニー・トランプ」を発売し1960年代に大ヒットする。だが、そのバブルはすぐにはじけ、食いぶちを失う。それから、山内溥氏はインスタントライスやタクシー事業など、さまざまな新規事業に手を出したが、ことごとく失敗。頭を抱えていたところ、救世主となったのが「ファミリーコンピュータ」だった。これにより、復活を遂げ持続的成長を可能にするビジネスモデルを構築できたのだった。
虎屋のような老舗のファミリービジネスでは、持続的成長をはかるために創業家の世襲を重んじているトップがほとんどである。その絶対条件は「家族(親子)仲が良いこと」である。ところが、実際にはそうならないケースも散見される。父娘間の経営を巡る激闘がテレビのワイドショーネタにまでなり世の中を騒がせた大塚家具問題がその典型である。紆余曲折を経て結果的に大塚家具の業績は回復せず、2019年12月、ヤマダ電機(現・ヤマダホールディングス)の傘下に入った。
任天堂の場合も家庭不和が山内溥氏に憂いの影を落としている。そもそも、社長になる予定の父が失跡してしまったのだから、この時点で「家族(親子)仲が良いこと」という絶対条件が消滅している。父さえ信じることができなかったのが山内溥氏の胸の内である。
家族の崩壊を前向きに捉え、ファミリービジネスから脱却しようとした。このことが、2000年に外部から42歳の岩田聡氏をスカウトし、その2年後に社長に据えた。就任後、少し業績が低迷した時期があったが、相次いで画期的なゲーム機器を発売し、新しい活用方法を提案することで、見事、低迷期から脱した。
山内溥氏は、社長候補と見られていた長男や娘婿に継がせなかった。上場企業ということもあったが、京都財界と付き合わないのと同様、京老舗の慣行には従わなかった。
岩田氏は胆管腫瘍を患い55歳で早逝。アップルを立て直したスティーブ・ジョブズ氏も膵臓がんに侵され56歳で亡くなった。山内溥氏は山内家にはいない「日本のジョブズ」を任天堂に連れて来たのだった。ジョブズと同様、岩田氏は創造力だけでなく、復活する上で必須条件となるチームをまとめる力に長けていた。
企業を永続させるに世襲は是か非か
親族に社長職を後継させなかったことにより危機を免れたもう一つの事例としては、スーパーのライフコーポレーションがある。1982年2月、大阪証券取引所(大証)2部に上場したのを機に、同社の創業者である清水信次氏(元会長)は、後継社長として実弟・三夫氏を任命し、代表取締役会長になった。
三夫氏は業容が急拡大すると、清水氏に業務報告することもなくなり、本業の店舗経営よりも財テクにうつつを抜かすようになった。「こんなバカ騒ぎが長く続くわけがない」とバブルの崩壊を予見していた清水氏は、社長の更迭を決断した。1988年3月15日、6年ぶりに会長として出席した役員会の冒頭で清水氏は、社長を解任し自ら会長兼務の社長に返り咲く特別決議を動議したのだった。そして、後継者として迎え入れたのが、三菱商事にいた岩崎高治氏(現社長)である。結果から言うと、このトップ人事は大成功。ライフはバブルの崩壊の煽りを受けることなく、食品スーパー首位の座を占めるようになった。
サントリーホールディングスのように、世の中でよく知られている大企業でも上場していないところは少なくない。はんぺん、ちくわなどの練り物で国内首位の紀文食品もその一社だった。1947年に設立された同社が東証プライム(当時は東証一部)に上場したのは2021年4月。資金調達の最大の目的はグローバル化だった。同社は1970年代から海外進出を積極的に進めてきた。アメリカに2つ、イギリスに1つ、ハワイに1つ、そして、タイにも1つ、工場を相次いで建設し現地生産を開始した。しかし当時は、練り物製品が外国の消費者になかなか受け入れてもらえなかった。そこで、法人だけを残し、生産もタイを除いて撤退した。この結果、大きな打撃を受け存亡の機に立たされた。
だが、堤裕社長は、再び海外へ、という思いを強めるようになった。その背景についてこう語る。
「海外における日本の食品に対する消費者ニーズは大きく変わりました。かつて海外でギャップを感じられていた和風が、今、逆に新鮮さを持って受け入れられるようになってきました。カリフォルニア・ロールと呼ばれる寿司のネタやサラダの具材として使われているカニ足かまぼこ(カニ風味かまぼこ=カニカマ)は、日本市場を大きく上回る勢いで海外市場において急拡大しました。グローバル展開することで業績を拡大できると判断しました」
紀文食品の堤社長は、過去の失敗は現在でも繰り返す、という先入観を捨て、市場の変化を現実的に直視したことにより、海外事業復活が成し遂げられた。
業績の短期的回復を意味する「V字回復」という言葉はすっかり定着した。人員削減や事業売却、工場閉鎖などを実施すれば利益は急回復するが、「その後」が芳しくないケースが多々見られる。
有名な話としては、パナソニックの中村邦夫氏(元社長)による「中村改革」がある。一時期は絶賛されたが、V字回復後に実施したプラズマテレビパネル工場への巨額投資が裏目に出て、2011年度には7721億円 、12年度に7542億円と、2年続けて巨額の最終赤字を計上した。「V字回復」の代名詞にもなった日産自動車のカルロス・ゴーンの失態はもはや知らない人はいない。カリスマもこければ、ただの人である。
「V字回復」を果たした後は、往々にして社員もこれで完全によみがえったと思い込み平和ボケになる。その結果、継続的な改善を怠るようになるだけでなく、新しい事業に早急に取り組まなければならない、という危機意識が欠如する。
企業をよみがえらせる、には一時的回復にとどまるのではなく、好転できるビジネスモデルを策定し、持続的成長を果たさなくてはならない。現事業からの建設的転換である。短期的成功が株主に評価されるだけでなく、改革とともに、長期的に成長できる下地をつくることが大切だ。
ソニーグループの改革功労者は、人心掌握術と国際性に長けた平井一夫氏(元CEO)と見られている。しかし、元を辿れば、出井伸之氏(元CEO)がインターネットとAV機器との結合を予見、エンターテインメントの重要性を強調し布石を打っていたことを見逃してはならない。
一時、業績が低迷し「ソニーショック」と呼ばれる株価の急落を招いたことで、出井氏は長い間低く評価されてきた。だが、エンターテインメント分野に強くハリウッド人脈にも通じているハワード・ストリンガー氏(元CEO)を後継者に据え、ストリンガー氏が後任として強く推したのが、部下であったゲーム・エンターテインメント畑出身の平井氏である。
この流れからも分かるように、持続的成長を前提としたビジネスモデルの転換を図るためには、歴代CEOがスムーズにバトンを渡すことでゴールに到着できる。