(雑誌『経済界』2025年11月号より)
田原総一朗 ジャーナリストのプロフィール

約60年前に私がテレビの世界に飛び込んだ時、それは「ニューメディア」と呼ばれていた。新聞が権威を持つ時代に、テレビは挑戦者だった。ところが今では逆にテレビが「オールドメディア」となり、SNSやネット配信が新しい時代の主役を担っている。そうした変化を前にして、私はどうテレビを見ているのかとよく聞かれる。
テレビが免許事業である以上、規制やコンプライアンスの縛りは年々厳しくなっている。そのため昔のような自由な番組づくりができなくなったという話をよく聞く。だけど私は「縛りがあるから面白い」と思っている。それをどう乗り越えるかが勝負なのだ。SNSは自由だが、縛りがない分、逆に挑戦のしがいがない。
若い世代の中にはテレビを持たない人も増えていると聞く。それは悲しい現実だ。メディアを志す若者でさえ、家にテレビがないという時代だ。正直、テレビが再び彼らを取り戻せるかと言われれば難しいだろう。それでも、私は「復権したい」という思いを持っている。テレビが衰退していくのを黙って見ているわけにはいかない。
昔のテレビは「二流の人間」が集まって作っていた。新聞や商社に行けない人間がテレビに来て、そこで型破りな発想をぶつけ合った。その「ゲリラ性」こそテレビの面白さだった。ところがいつしかテレビ局は一流企業と見なされ、優等生ばかりが入るようになった。優秀であるがゆえに、みんな守りに入り、面白さが失われた。私は今でも、テレビが再び「攻め」に転じなければならないと思っている。
攻めるとは何か。テレビの世界で「これはダメだ」と言われたことを、あえてやることだ。正義を装って人を叩くだけではつまらない。過去には許されていたことが、急に「不正義」として断罪される風潮があるが、私はそれに違和感を覚える。テレビは本来、正義を振りかざすものではなく、喧嘩を仕掛ける存在だ。時代の価値観に挑み、タブーに切り込む。それがテレビの役割だ。
今、各局の経営者も「このまま守りではダメだ」と気づき始めている。参院選の報道でも、これまでの公平・中立に縛られすぎた姿勢を反省し、少しずつ変化が見えてきた。フジテレビの新社長は「楽しくなければテレビじゃない」という看板を下ろしてしまったが、テレビはやはり楽しくなければならない。ジャーナリズムだってエンターテインメントであるべきだ。面白くなければ誰も見ない。
茶の間に一台のテレビがあり、家族全員が同じ番組を見ていた時代は過ぎ去った。今は一人一台のスマホで、それぞれが異なるコンテンツを楽しんでいる。そんな時代だからこそ、テレビは規制と喧嘩し、権力と喧嘩し、それでも笑いや驚きを届けなければならない。私はそうしたテレビをまだ信じている。
だからこそ、私はあえて「オールドメディア」で戦い続けたい。SNSではできない挑戦が、テレビにはまだ残っているからだ。テレビが生き残る道は、守りではなく攻めにある。私はそう信じている。
これが、私の考えるテレビの未来である。

