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ついに生産中止!日産「GT-R」の果たした役割

日産自動車のスポーツカー「GT-R」はレースに勝つために生まれたクルマだった。いったん製造中止になるが、ゴーン時代に復活。日本の技術の集大成とも言えるクルマは自動車ファンの羨望の的だった。そのGT-Rが再び生産中止となった。これは何を意味するのか。文=ジャーナリスト/伊藤賢二(雑誌『経済界』2025年11月号より)

鉄壁の意思なくしてスポーツカーは不可能

 2024年に巨額の最終赤字を計上、経営再建に向けて悪戦苦闘が続く日産自動車は8月26日、世界トップクラスとの評価を受け続けてきた高性能スポーツモデル「GT-R」の生産を終了した。最後の1台のロールアウトには多数の報道陣が詰めかけ、世界中のファンから惜別の声が聞かれた。

 CO2排出に加え、排気管やタイヤが発する騒音、粉塵など、環境負荷に対するペナルティが年々増加している今日、自動車メーカーがスポーツモデルを作り続けることも加速度的に困難さを増している。

 極端な事例として挙げられるのはフランスで、CO2を大量に排出するクルマを購入する場合、新車の代金とは別に最大で1200万円(7万ユーロ)もの税金を支払わなければならない。トランプ政権下の米国のように環境規制が緩められる国もあるが、それもいつまで続くかは不透明である。

 そのような状況の中でスポーツカー、なかんずくGT-Rのような超高性能車、いわゆるスーパースポーツを作り続けるのは難しい。CO2排出量削減と高性能を両立させる技術力の高さだけでなく、スポーツカーを作ることへの鉄壁の意思が必須だ。現実にスポーツカーを作らなくても十分に生きていけるメーカーは続々と手を引いている。

 このような状況にかんがみれば、経営難に陥っている日産がGT-Rの生産を終了するのもやむなしと言えなくもない。が、日産にとって難しいのはGT-Rが日産スピリット、ひいては日本の自動車工学の高さを示す象徴として世界で名声を博しすぎたことだ。

 「GT-Rのブランド認知度は世界できわめて高い。日本、米国、欧州、中国、大洋州などの主要市場だけでなく、南アジアやアフリカなどですらクルマへの関心が高めの人であれば大抵知っているというくらいです。本当に扱いが難しいところでしょうが、日本の自動車業界の財産であることは間違いない」

 トヨタ自動車のある幹部はGT-R生産終了の報に接し、このように語った。

 単にスピードの出る高性能車というだけのモデルであれば、切り捨てても大きな影響はなかったであろう。近似する性能を持つモデルとしてはトヨタが「レクサスLFA」、ホンダが「NSX」を発売していたが、それらが消滅してもさしたる注目を集めることはなかった。

 GT-Rは違った。ユーザーは日産が単に技術力を誇示するために資金力と人的資源に任せて作ったとは受け取っておらず、技術とアイデア、そして情熱でスポーツカーの時代を切り拓くモデルとみていた。前述のようにエンジンを使ってスーパースポーツと呼ばれるクルマを作り続けるのは困難な時代だが、日産がそれを何らかの形で突破して次のGT-Rを世に問い、今の閉塞感を吹き飛ばしてくれるのではないかという期待感が少なからずあった。

 その具体的なアナウンスなしにGT-Rの火が消えたことが「日産がきっと何かやってくれる」という幻想を少なからず毀損したことは間違いないだろう。

 今年社長に就任したイヴァン・エスピノーサ社長はそういう世間のマインドを察してか、「これで終わりではない。いつか復活させることがわれわれの目標」と語った。

 日産にとってこの宣言は両刃の剣。実現させられなかったら日産のイメージは余計に落ちる。といって、単にEVでスピードが出るクルマを作るだけではGT-Rの意味がないと言われる可能性が高い。GT-Rは目前に立ちはだかる大きな壁を突破することで神話を作り上げてきた。次のGT-Rが日産のシンボルとなるには、同じような〝物語〟を作ることが必須だ。

レースでの勝利を目的に開発された

 世に初めてGT-Rのネーミングが登場したのは1969年の「スカイラインGT-R」。スカイラインは1966年に日産に吸収合併されたプリンス自動車が作っていた高性能セダンである。

 吸収合併された企業のご多分に漏れず、プリンス自動車もまた日産社内での立場は弱いものだった。そんな状況の中、スカイラインの開発は「ミスタースカイライン」こと桜井眞一郎氏の指揮のもと、旧プリンス自動車の技術陣を主体に進められた。

 スカイラインGT-Rは日産となってから発売された。第3世代スカイラインに当時はまだ世界的にも珍しかったDOHCという形式の高性能エンジンを組み合わせた。開発の目的は日本で始まった自動車レースで勝利することだった。

 そのスカイラインGT-Rが世間の注目を集めたのは第2回日本グランプリ。そのレースで自動車先進国ドイツのスポーツカーメーカー、ポルシェが作った生粋のレーシングカー「カレラGTS」を抜き、一周だけではあったが先頭を走ったのだ。

 日本の自動車メーカーの技術水準がまだ低く、先進国メーカーに追い付け、追い越せを合言葉にしていた時代である。その日本メーカーである日産のマシンがポルシェの前を走ったことは、日本の自動車ファンを歓喜させ、日本は世界に勝てるのだという勇気を与えた。GT-R伝説の始まりだった。

 その後、スカイラインGT-Rは一度フルモデルチェンジされたが、排出ガス規制の影響もあって1973年に一度幕を閉じる。次に登場したのは16年後、バブル景気真っ只中の1989年。

 8代目スカイラインを基本とする新しいスカイラインGT-Rは最初のモデルと同様、レースで勝つために作られた。狙いは世界で流行していた市販車を改造して速さを競う「ツーリングカーレース」の制覇だった。

 新スカイラインGT-Rの成り立ちは独創的なものだった。サーキットでのレースでは後輪駆動が有利というのが常識だったが、開発責任者を務めたプリンス自動車出身の伊藤修令氏はその常識に抗って4WDを採用したのだ。果たして新スカイラインGT-Rは世界各地のツーリングカーレースで前年までの優勝モデルを周回遅れにする圧倒的な速さを示した。

 当時、GT-Rを含むスカイラインは右ハンドル車のみでほとんど輸出されていなかったが、レースにおける圧倒的な強さから「ゴジラ」とあだ名され、GT-Rの名が世界に広く知れわたることとなった。

 しかし、スカイラインGT-Rはその後、不遇な命運を辿る。あまりの強さに世界からツーリングカーレースのカテゴリーが消滅してしまい、活躍の場は徐々に狭まっていった。一方で日産は90年代に深刻な経営危機に陥り、利益の出ないスカイラインや「フェアレディZ」のようなスポーツカーへの風当たりが強くなった。ある上級役員が「もうスカイラインGT-Rや(フェアレディ)Zの時代じゃありませんよ」と、外部に向けて平然と言い放つほどだった。

 自力再建を諦めた日産は1999年、ルノーの傘下に入った。2002年、スカイラインGT-Rは排出ガス規制の強化にともなって生産中止となった。が、日産のプロパー役員が愛情を示さなくなっていたスカイラインGT-Rに注目したキーマンがいた。誰あろう、ルノーから経営再建役として送り込まれたカルロス・ゴーン氏である。

ゴーンが復活させたGT-Rは技術の集大成

 ゴーン氏は来日から日を置かずして、自ら日産のクルマを片っ端からテストした。その結果、ルノー傘下入りする前の日産経営陣が関心を失っていたスカイラインGT-RやフェアレディZのようなクルマこそ日産に必要だという決断を下した。

 スカイラインGT-Rの生産中止前年の東京モーターショーに「GT-Rコンセプト」を出品。その時はまだ開発が始まったばかりだが、GT-Rの系譜が途絶えたわけではないことを示すためだった。

 開発責任者は水野和敏氏。日産とプリンス自動車が合併した後に入社した世代だったが、スカイラインの開発を手がけてきた〝プリンス閥〟の人材だった。

 水野氏はGT-Rをスカイラインから独立させ、フェラーリやポルシェといった世界のスーパースポーツと伍するクルマに仕立てるプランを立案。車体、電子制御4WDシステム、排気量3・8リットルのターボエンジンなど、車両のすべての要素を日産の他の商品とは異なる専用設計とすることで開発が進められ、最初のコンセプトモデル提示から6年後の2007年に発売にこぎつけた。

 GT-Rがリリースされると、世界が驚愕することとなった。当初の日本での販売価格777万円のモデルが世界の名だたるスーパースポーツを軒並み倒すほどの速さを見せたのだ。

 速いばかりでなく、誰もが安心して高性能の恩恵を享受でき、運転フィールが他のスーパースポーツと異なる独特なもので、かつそれが楽しいという点が世界的に評価された。

 GT-Rは継続的に性能向上を受けながら今年の生産中止まで18年にわたって製造されてきた。日進月歩の高性能車でそれだけ長い年月をフルモデルチェンジなしで乗り切ったのは他に類例を見ない。クルマの構造が高性能車として理想的な作りになっており、商品として旧態化しなかったのだ。

 日産がそんなGT-Rを作り上げることができたのは、経営のトップがそれを作るという強い意思を示したことが大きい。次のGT-RをGT-Rの名に相応しい日本の自動車技術の集大成という形で世に問えるかは、技術力、アイデア、強固な意思の3点を再び結集できるかどうかがカギを握る。経営危機の中、信念を貫くのは非常に難しいことだが、それは間違いなく日産が負う使命である。