日本を代表するファッションデザイナーの一人であり、イベントプロデューサーの寛斎さん。「ファッションで人を幸せにしたい」という思いは、プロのデザイナーとして活動を始めた1971年から一貫している。当初は大胆な色遣いと前衛的なデザインが「奇抜すぎる」と揶揄されたが、「これまで出会って優秀だと思う人は皆変わっていた」とくじけなかった。寛斎さんが作品をデザインするときには、自らが日本人だということを強烈に打ち出すという。
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山本寛斎が重視する日本人としての個性
「デザイナーの中でも、私は日本人だということを非常に強く意識しています。西洋の人と日本人のものの考え方には差がある。欧米人は個性イコール素晴らしいという考えがありますが、日本は抜きん出た風体をすることはあまり感心しないという文化圏に属している。だから私に対する評価は、欧米の方が高かったのだと思います」
そう言って寛斎さんは、2冊の「LIFE」の表紙を飾った写真を広げた。
1枚は25歳でロンドンの格好良い男10人に選ばれた時のもので、茶髪にしたアフロヘア︱の無国籍風。「LIFE」の表紙を飾るだけでもすごいことだが、寛斎さんは「これでは1番になれない」と思い、2年後の27歳の時には坊主にヒントを得て、丸刈り頭で真っ赤な衣装に身を包み、見事1位になった。
「日本人は昔から無個性かというと、そんなことはなくて、信長、秀吉の時代は色使いもすごく奔放でした。それが徳川時代になって士農工商の身分制度が定着するにつれて、没個性になっていった。しかし、婆娑羅という言葉もあるように、日本人はもっと自由奔放に近かったと思います。私はそのDNAを色濃く受け継いでいるのです」
婆娑羅とは、南北朝の動乱期の美意識や価値観を端的に表す流行語で、華美な服装で飾り立てた伊達な風体や、勝手気ままな遠慮のないふるまいなどのことだ。27歳の時にロンドンでファッションショーを開催し、一気に世界へ羽ばたいて行った寛斎さん。その時に知り合ったデヴィッド・ボウイには何点も衣装を提供した。
「日本には四季があり、季節ごとに草花の色も、海の色さえも変わって見える。これは世界の中でも稀有なことです。デザイナーとして世界と戦うには、西洋の物まねでは勝てません。よって立つものは何かと考えると、日本人を前面に打ち出すことが一番です。だから私は日本というものを発信し続けている」
日本が元気でいるために
寛斎さんの活動の場は、今やファッションにとどまらない。観光立国懇談会の委員に選ばれ、「観光立国」というネーミングも寛斎さんが考えたものだ。京成スカイライナーの内装・外装デザイン、93年以降は「KANSAI SUPER SHOW」や「日本元気プロジェクト」といったスペクタクルなライブイベントのプロデューサーとしても活躍している。
「基本的な考え方は一緒で、日本をどう見せるかということ。人生の7割は葛藤でしたが、危機に直面しても、どう乗り越えようかと遮二無二走ってきました。だからこそ、私は人の持つ力を信じています」
日本が元気でいるためには、日本のソフトパワーが常に活力を持ち、それを世界に向けて発信することが不可欠と活動を続ける寛斎さんだ。
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