運命の招待と中身を分析する
早ければ先週末から、私の新刊『運命転換思考』(経済界)が本屋さんの店頭に置かれているはずである。「その人はなぜ、運命を変えられたのか?」と帯に書かれているが、運命を変えた人たちの「なぜ?」に迫る本だ。
この手の本はとかく、オカルティックな内容を、さもったらしく書きがちだが、本書は全く異なる。
まず、運命を変えるために、運命の正体、中身を分析し、運命がどのような要素によって成り立つかを明らかにする。その上で、その要素の一つ一つを、いかに、また、どのような方向に変えていけば、運命が好転するかを、あくまで具体的に紹介している。
年収が億を超える、私のメンターにも、今のところはまだそこまでは至っていない身近な人たちにも登場していただいて、それぞれのエピソードが人間関係の上でも、仕事でも、生活にも、生きる上でもすべてに役立つように構成している。
FPを生業としている私が、なぜ「運命」の解明に乗り出したかといえば、これまで多くの人と交わってきて、一つの疑問が大きく胸に影さしていたからだ。それは、この世の中には、「うまくいく」人もいるが、「うまくいかない」人もいる、それはどこが違うために逆の結果を招いたのか、という疑問である。
努力だけではうまくいかない
答えは簡単ではないか、努力した人が「うまくいき」、努力を怠った人が「うまくいかない」のだ、という読者も多いに違いない。
だが、賢明な読者なら、世の中それほど単純にできてはいないことを、よくご存じのはずだ。
学校の受験勉強と、世の中の動きは違う。ガリガリと寝ずに努力すれば、成績が確実に上がっていく世界とは、まったく異なるのが、この社会である。
あんなに一所懸命に努力したのに、契約が一つも取れない、夜も寝ずに頑張っているのに、店の売れ行きがじり貧だ、ちゃらちゃらしている後輩が、自分を追い抜いて出世した、……そういう「理不尽な」ことが山ほどあるのが、この世の中だ。
そこで自分には、才能がないのだ、いや運がないのだ、と嘆く人もいる。人生そのものを、あきらめてしまう人さえ出てくる。中には自裁する人さえ現れる。
こうしたことが、FPという、お金や財産に真っ向から取り組んでいる仕事で人と接していると、日常茶飯で周りに起こってくるのである。
「運」について稀代の聖人の箴言に出会う
「なぜだ?」と私が、FPゆえに考え込んだとしても不思議ではない、と理解してもらえるかもしれない。
この疑問の答えとして、実は、私もまず初めに「運」ということを考えた。あの松下幸之助氏さえも、成功したり失敗したりという人間の結果について「やはり90%が運やろな」と言っている。
ところが、運のせいと考えると、では運とは何だ、という次の疑問が生まれてくる。考え始めると、とことん理詰めで突き詰めていくのが、私の性分なのだが、この「運とは何か」は厄介な設問だった。
それでも考えたり、書籍に当たったりしていたが、何を読んでも、運というものは何とも硬直していて、人間の意志では変えられないものとなっている。
これではつまらない。もっとダイナミックに、しかも合理的に、運というものを考えられないものか、と模索している中で、私は稀代の聖人マザー・テレサの箴言に出合ったのである。
わりと普通に知られている箴言なのだが、内容は実に深い。しかも運を好転する鍵まで隠されていたのだ。
今号の流儀
奈落に沈んでいても、運の正体を知れば好転させることができる。
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