30年間にわたりフジテレビに君臨した日枝久会長が、ついにその座を降りる。鹿内家の追放やライブドアの株式買い占めなど、数々の修羅場をくぐりぬけてきた男の30年はどのようなものだったのか。そしてかつては視聴率三冠王に輝いたフジテレビは、栄光の日を取り戻すことができるのか。文=関 慎夫
テレビ東京にも視聴率で抜かれたフジテレビ
日枝久――今年大晦日で80歳になるフジテレビのドンが、ついにその座を去ることになった。
5月11日、フジテレビジョンは亀山千広社長がBSフジ社長に、宮内正喜・BSフジ社長がフジテレビ社長となる人事を内定した(6月28日付)。
フジテレビ、BSフジともにフジ・メディア・ホールディングス(FMH)の100%子会社であり兄弟会社だ。しかし事業規模はフジテレビがBSフジの20倍近くもあることからも分かるように、フジテレビが主であり、BSフジが従の関係だ。その主従のトップが入れ替わるのだから異例中の異例だ。しかも亀山氏が60歳に対して宮内氏は73歳。常識的に考えれば宮内氏はとっくに「上がった」人間。それを社長にしなければならないところにフジテレビの苦悩がある。
亀山氏が社長に就任したのは2013年。当時、亀山氏は「視聴率を上げることが自分の仕事」と、自らの役割を明確に語っていた。
視聴率には全日、プライムタイム、ゴールデンタイムの3種類がある。全日は6~24時、プライムは19~23時、ゴールデンは19~22時のそれぞれの時間帯の平均視聴率を指しており、その全部門でトップに立つことを三冠王という。かつてフジテレビは長らく三冠王に君臨していたが、亀山氏が社長に就任する前年の12年には、全部門でライバルの日本テレビはおろか、テレビ朝日にまで抜かれて3位に転落していた。
亀山氏は「ロングバケーション」や「踊る大捜査線」などのプロデューサーを務めたヒットメーカー。その手腕を期待されての抜擢人事だった。
ところが、次ページのグラフを見ても分かるように、視聴率は低迷を続ける。昨年はついに全日視聴率でTBSに抜かれて4位に転落。下を見ればテレビ東京だけ、となった。そのテレビ東京にも、瞬間風速的には抜かれ最下位に転落する屈辱も味わっている(15年第1週のプライムおよびゴールデン)。
亀山氏も手を拱いていたわけではない。14年3月には、お昼の看板番組だった「笑っていいとも」を打ち切り、同年4月には全社員の3分の2にあたる1千人の人事異動を行うなど大鉈を振るう。しかし視聴率は上向かない。今回の社長交代はその責任をとってのものだ。亀山氏の前任者は2代にわたり社長を6年間務めているが、亀山氏は4年間で降板せざるを得なかった。視聴率男が視聴率を取れなかったのだからやむを得まい。
しかし今回の人事のもう一つの目玉は、会長人事である。長年にわたりフジテレビを率いた日枝会長がその座を去ることになったのだ。
鹿内春雄氏とつくったフジテレビ黄金期
日枝氏がフジテレビに入社したのは1961年。労働組合の結成に奔走したこともあり、出世コースからは完全にはずれていた。しかしフジテレビ開局の立役者の一人でもある鹿内信隆氏の長男・春雄氏が80年にフジテレビ副社長に就任したことで風向きが変わる。
日枝氏は編成局長となり、春雄、日枝の両氏は二人三脚でフジテレビの「軽チャー路線」を引っ張っていく。それまでのフジテレビは日本テレビ、TBSに次いで三番手という位置付けだったが、「楽しくなければテレビじゃない」という若者にターゲットを合わせた路線が当たり、82年には年間視聴率三冠王に輝き、93年まで12年にわたり続いた。フジテレビの第一期黄金時代である。
2001年には社長の座を村上光一氏に譲り会長に就任。その後、社長の座は豊田晧氏、亀山氏と引き継がれるが、会長ポストは不動だった。この間、04年から10年まで三冠王に返り咲き、第二期黄金期を築く。しかし、その後、大きく視聴率を下げたのは前述のとおりである。
当然その責任は日枝氏にもある。最近では、株主総会のたびに会長の責任を問う声が株主から出ていた。それでも日枝氏は、ドンの座に君臨し続けてきた。
なぜここまで権力を持つことができたかというと、社長、会長29年の間に何度となく修羅場をくぐり、それを乗り越えるたびに存在感を増していったからだ。
最初の「事件」は日枝氏が社長に就任する直前、88年4月16日に起きた。フジサンケイグループ議長としてグループに君臨していた鹿内春雄・フジテレビ会長が劇症肝炎で急逝する。まだ43歳の若さだった。春雄時代はしばらく続くと誰もが信じて疑わなかっただけにグループ内は混乱する。これを鎮めるため、父・信隆氏がグループ議長にカムバックする。そして2カ月後、春雄氏とともにフジテレビを牽引してきた日枝氏が社長に就任した。
しかし同時に信隆氏は、女婿で日本興業銀行に勤めていた鹿内宏明氏を養子縁組したうえでグループ議長代行に据えた。フジサンケイグループは鹿内家が支配するとの強い意思表示だったが、これが次の事件を生む。
90年信隆氏が亡くなると宏明氏はグループ議長に就任、さらにはフジテレビ、ニッポン放送、産経新聞社などの会長を兼務し全権を掌握。東大時代の友人を側近として使い、ワンマンぶりを発揮する。しかし春雄氏と違い何の実績もない宏明氏の横暴ぶりは周囲との軋轢を生む。そして92年、宏明氏は産経新聞社の会長を解任され、その後グループすべての役職を辞任した。日枝氏はこのクーデターの中心人物の1人であり、これ以降、グループ内での実権を握っていく。
ライブドア事件で完成した「日枝体制」
2005年、堀江貴文氏率いるライブドアがニッポン放送株を買い占める。当時、ニッポン放送はフジテレビの筆頭株主であり、ニッポン放送を通じてフジテレビを支配しようともくろんだ。この時、日枝氏は先頭に立って堀江氏と対決、結果的に和解に持ち込み、フジサンケイグループを守ることに成功した。そしてこれをきっかけに日枝氏は、資本のねじれ解消に向け動き始める。
こうして08年に誕生したのが持ち株会社、FMHで、フジテレビもニッポン放送も産経新聞社も、すべてFMHの完全子会社となった。日枝氏はFMHおよびフジテレビの会長に就任、フジサンケイグループ代表も務めるなど、名実ともに同グループに君臨する形となった。日枝氏のグループ支配の完成形だ。しかも当時は視聴率三冠王も継続中。業績的にもFMHは民放各局の中で売り上げ、利益ともにトップにあった。これが日枝氏の絶頂期だ。
しかしそれも長くは続かなかった。前述のように11年に日本テレビが三冠王を奪還すると、そこからはつるべ落とし。視聴率、業績とも低迷するようになる。
どんな優れた経営者であっても、権力の座に長くい続けると、さまざまな弊害、歪みが生じるのは避けられない。絶対的権力者がいることで、社員の目は、ユーザーではなく権力者に向いてしまう、というのもよくある話だ。フジテレビも例外ではなかった。
民放三番手だったフジテレビが三冠王の常連となったのは、鹿内春雄氏の号令のもと、俗悪と言われようとも徹底して視聴者受けする番組づくりを貫いたからだ。深夜に実験的な番組づくりをするなど、とにかく挑戦的だった。フジテレビなら面白いことができると、若い放送作家や制作会社が集まり、それがさらなる刺激的な番組につながった。
今はその対極にある。過去の成功体験が大き過ぎるためか、焼き直しのような番組ばかりが並んでいる。「フジテレビに企画を持っていっても採用されない。だから面白い企画であればあるほど、まずは他局にもっていく」という放送作家の言葉が、今のフジテレビの状況を何より雄弁に物語っている。
今回、日枝氏が会長を降りたことでフジテレビが活性化するかどうか。会長ではなくなったとはいえ、取締役には残り、グループ代表を続けることから「日枝院政に過ぎない」との見方も強い。新社長も73歳と高齢なため、本格的な再建はさらに次の社長に託されることになりそうだ。視聴率を上げるには下がる時よりはるかに長い時間と労力がいる。復活への道は容易ではない。
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