リーダーは、フォロワーの支持を得て初めてリーダーになる。つまり実力も必要だが、それ以上に優しさや気配りも求められる。では、そのバランスを兼ね備え、参考にすべき存在はないか。そのひとつの答えがゴリラだ。圧倒的な力を持つゴリラだが、その力を行使することはほとんどない。その上、群れには序列がなく、オスのリーダーは子育ても担う。ゴリラ研究の第一人者で、京都大学総長を務める山極壽一先生に、理想のリーダーともいえるゴリラと、京大での自らのリーダーシップについて聞いた。文=古賀寛明 Photo=北田正明
リーダー型のゴリラの社会から学ぶ人間社会の実態
私はゴリラ研究をする前に、ニホンザルの研究をしていたのですが、ニホンザルの世界はパワーシステムで順位の高いオスが力を示していないと、自分の地位は保てない序列型の世界なのです。だから自分の権威をおかしそうなサルが現れれば罰を与えます。
一方、ゴリラの群れには序列がありません。体の大きさに応じた優劣が生じず、子どもやメスでも、オスが自分の期待に応えてくれなければ敢然と抗議します。だから、パワーだけではなく優しさ、つまり群れのメンバーへの期待に応えるように振る舞わなければならない。
これは、リーダーとボスの違いで、リーダーというのは、自分で力を示すのではなくて、下から支えられた存在なんですね。ゴリラはまさにリーダー型で、ボス型のニホンザルとは全く違うのです。
さて、力で群れを押さえつけないゴリラですが、力があることは一目瞭然ですね。でも、力を行使することはほとんどありません。それが素晴らしい。能あるタカは爪を隠すと言う言葉そのままに、力はあるけれども行使しないのが優しさです。それが分かるからこそ、群れのみんなが慕ってついて来るのです。
私は人間を知るために、ゴリラやサルの研究を始めたのですが、今危惧しているのは、人間社会がサル化していることです。
人間だけが持つ能力ですが、人間はいろんな動物に学ぶことができます。例えば、あの人はオオカミのように残忍だ、キツネのように狡い、なんて言葉があるでしょう。言葉がそうした能力を助長したのです。
言葉は違うものを一緒に、比喩することを可能にしました。ゴリラはゴリラにしかなれませんが、人間はサルにでもゴリラにもなれちゃう。でも、人間はサルのように生まれてきたわけではありません。ゴリラのように対等や平等を愛するように生まれたはずなのに、今の社会は、共感能力や同情する能力を失いかけているのです。
人間は一人では生きていけません。社会的な動物なのですから、ほかの人の期待に応えながら、人に喜ばれながら、自分というものをつくっていくことが本当は幸せなはずです。だから、サルの社会よりもゴリラの社会が豊かに見えるのです。
態度で語るゴリラのリーダーシップ
私は、リーダーの素質というのは、「えこひいきをしない」ことだと考えています。松下幸之助さんが、若い社員を面接する時に、将来的にリーダーに育つなと思える人間には、3つの条件があると言っていたそうです。 一つは、「愛嬌がある」こと。次に、「運が良さそうに見える」こと。それは、運が良かったという過去ではありません、運が良さそうに見える雰囲気です。そして、最後に、「後ろ姿で語れる」こと。これは、全部ゴリラに当てはまります。特に、ゴリラのオスのリーダーに当てはまる。
ゴリラのオスは力があります。だけど、小さな子どもに優しく接することができる、愛嬌があるんですね。優しさを兼ね備えていないと、子どもたちはついてきてくれません。
それから、運が良さそうに見えるというのも、おいしい食べ物を知っている、安全な場所を知っている、危険がせまっても自分たちを助けてくれる。そんなことは、オスと出会ったばかりのメスには分かりません、過去は確かめようがないですからね。だから運が良さそうな雰囲気が大事になる。
後は、後ろ姿で語れる。それは、ゴリラの場合、振り向いてしまうのは、自信のなさの現れだからです。だから後ろを振り向かない。オレは後ろを振り向かなくてもお前たちがついて来ることは分かっている、というのがリーダーの態度なのです。もちろん、障害がある子どものゴリラがいた場合は、後ろを振り向いて来るのを待ってあげます。でも、普通は後ろを振り向かず、じっと背中を見せて佇んでいる。そして、ついてきている気配がしたら、また歩き出す。背中で語るんですよ。それがゴリラのリーダーなのです。
だから、われわれ人間が見ても疑いなくリーダーに見えるわけです。言葉で語るリーダーでなくて、態度で語るリーダーなんですね。
それを人間に当てはめると、誰に対しても同じ態度でいないといけない。誰かを特別かわいがることは他の人の嫉妬をかうからです。だから、リーダーは他の人と距離を置かねばならないのです。そういう修業をしなくちゃいけません。人間というのは、何にでもなれるのですから、そういうリーダーを見て、学ばなくちゃいけませんね。
私もフィールドワークでそれを学びました。私の研究室では「捨て子教育」というのですが20代前半の学生や若い研究者をフィールドに連れて行って1年間現地に放り出すのです。はじめは言葉も通じません。
でも、一人じゃ研究はできませんから、周囲の人に自分のやりたいことを伝え、便宜を図ってもらい調査をやり遂げなきゃならない。そのために、村の行事に参加し、村の人たちの悩みを聞き、村の様子を把握しなくちゃいけない。その際に、「敵をつくらず、味方をつくるな」ということを伝えています。味方をつくると味方の敵は自分の敵になってしまうからです。要は、えこひいきをするな、そのためには、みんなと距離を置きなさい、ということです。
距離を置くというのは、孤独になることを意味します。その孤独に耐えないと、いろんな事情が分からないわけです。いろんな人たちが、いろんな目的で自分に近づいてくる。だから、距離が必要になるわけです。ある人たちを味方にして、親密な関係を結んでしまうと、かえってそれが仇となる場合もありますからね。
「おもろい」と支持されることはリーダーになりうる一歩
大学経営も同じです。以前は、総長室という特別な部署があったのですが、私はそれを廃止しました。そして、執行部の7人の理事や部局長と対等に付き合い、割と距離を置いた体制をつくっています。
大学のリーダーというのは、自分の理念を持ちながら、6千人以上の教職員の実力を発揮させなければなりません。私は、自分のことを「猛獣使い」と言っているのですが、猛獣である教職員に実力を発揮してもらうために、手綱をつくるのでもなく、餌を与えるのでもなく、みんながやりたいようにやれる環境をつくらねばならないのです。
その時に、ある特定の部局なり、人を支援していたら、あいつはえこひいきすると思われてしまう。だから、そういう意味では、私は孤独なんです。でも、それをゴリラから学んだのです。背中で語らなきゃならないのです。
私は、よく大学はジャングルだ、というんですけど、ジャングルというのは象もいればオカピもいる、いろんな動物がいます。普段は会わないから、互いに何をしているか知りません。でも、共存しているのです。
その生態系は大学も一緒です。文学者もいれば、科学者もいるし、医者もいる。多様な人たちが自分のやりたいことを互いに出会わずに暮らしている。そして、たまにゴリラとチンパンジーが接触して新しいものが生まれるように、ジャングルというのは植物も動物もどんどん新たな種が生まれてくる場所なのです。それだけの包容力があるし、違った者同士が出会える場所だからです。
言い換えれば、もっともイノベーションが起きやすい場所なんですね。大学も、自分の学問だけではなく、違った分野の世界に出合うことができる。これこそが大学の意義なのです。
総合大学というのは多様性と先端性が重要で、京都大学は、どの先生も自分は世界最先端とつながっている自負がある。ちょっと教室を変えれば、違う世界がある。大学は「窓」ですから、窓を常に開けましょう、と先生方には言っているんですよ。
私も提言だけではなく、自ら「京大おもろトーク」というイベントや捨て子教育に似た海外渡航支援制度「おもろチャレンジ」といったものを始めています。「おもろい」とは、自分が言う言葉ではなく、他人が言う言葉です。「おもろいやんけ」と、言ってもらえることは、相手から認められ支持されることです。
だから、これらの取り組みに参加した学生が将来リーダーになるかは分かりませんが、その資質は学んでくれると思います。自分とは違う社会と接し、自分をプレゼンし、人との付き合い方を学ぶ。みな一皮むけて帰ってきます。
リーダーというのは、画一的なステータスでも、画一的なパーソナリティでもありません。いろんな場所に、いろんなリーダーがいる。ある時先頭に立っても、次はしんがりという場合もある。そういうことを肌で学ばなければ真のリーダーシップは取れないと思いますね。(談)
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