民間振興による農業を重視した前田正名
加来耕三氏が「もう一つの明治維新の方法論」と指摘するのが、「地方が強くなり連携して国を強くする」という考え方だ。本稿では、この考え方を提唱した前田正名(まえだ・まさな)のについて述べる。
前田正名は1850年、薩摩藩の漢方医の子どもとして生まれた。西郷隆盛(1828年生)や大久保利通(1830年生)の世代と比べるとかなり若く、薩摩藩の討幕運動で主要な役割を果たしたとは言えないが、66年の薩長同盟の密使には加わっており、坂本龍馬から短刀を貰った逸話も残っている。
一方で、65年に出発した薩摩藩の英国留学生のメンバーからは漏れており、戊辰戦争の最中、正名は上海に渡った。そして上海で、高橋新吉、兄の前田献吉と「薩摩辞書」と呼ばれる『和訳英辞書』をつくった。わざわざ上海で辞書をつくったのは、印刷技術が日本になかったからだが、その辞書の売り上げで、正名は69年からフランスへ私費留学を果たした。
当時のフランスは、ナポレオン3世による第二帝政の時代で、正名が渡仏した1年後に普仏戦争が起こった。この普仏戦争でフランスが敗北し、パリが開城され、混乱の中からパリ・コミューンが成立し、その後の第三共和制でフランスが再興するまでの様子を正名は現地で見ていた。
この時のフランス再興の鍵は農業だった。農業を保護し、特産物をつくって輸出することで、国力を蓄えていったという。正名は76年に帰国するが、日本でフランスの再興と同じことをやろうとした。
帰国後、農商務省の要職を歴任。殖産興業のガイドラインとして『興業意見』を作成したことから、「殖産興業の父」と呼ばれるが、その手法は中央からのトップダウンというよりは民間振興や、農業をはじめとする地域振興に軸足を置いたものだった。
『興業意見』を元に日本勧業銀行が設立されたが、当初は養蚕、紡織、食品など農業と密接した軽工業が融資の対象となっていた。また、7カ月というわずかな期間だが、山梨県知事を務めた際には、甲州葡萄の普及を進め、ワインの生産の基になっている。
現代の地方振興に生かすべき前田正名の精神
正名は、最後は農商務次官となるが、90年に農商務相の陸奥宗光と対立して下野する。その後は、「布衣の宰相」「無官の農相」として全国を行脚。
「村力おこらざれば郡力たらず、郡力たらざれば県力たらず、県力たらざれば国力到底たらず」との信念で、地方在来産業の振興を追求した。
全国遊説の際の所信は「今日の急務は、国是、県是、群是、村是を定むるにあり」であった。京都の何鹿郡(現京都府綾部市)で正名の演説を聞き、この所信に感動した波田野鶴吉は農家に養蚕を奨励することが「郡是」であると考え、郡是製糸(現グンゼ)を設立、日本を代表する繊維メーカーの礎を築いた。
晩年は、北海道釧路市に前田製紙や釧路銀行を設立するなど、北海道東部の開発に貢献。一方で、自然保護も進めており、現在の阿寒摩周国立公園は、正名の保有地を遺族が寄贈したものである。
地方の時代が叫ばれて久しいが、地方振興が急務となる中、前田正名の精神を生かすべき時代が来ているのではないだろうか。
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