緊急事態宣言が解除となったものの、新型コロナウイルスの特効薬は今だ登場していない。その最有力候補とも言われるアビガンは、富士フイルムの子会社が開発、現在、臨床試験が行われている。なぜフィルムメーカーが専門外の医薬品を手掛けるのか。そしてその実力は。文=ジャーナリスト/大竹史朗 『経済界』2020年7・8月合併号より加筆の上転載】
製薬企業としての存在感を高める富士フイルム
新型コロナへの有効性が期待されるアビガン
中国・武漢発の新型コロナウイルス感染症の世界的危機は、なお収束の兆しが見えない。米ハーバード大学の研究チームは4月に発表した論文で、新型コロナに対するワクチンの開発が来年までに間に合わなかった場合、世界各地で実施している隔離政策(ソーシャル・ディスタンシング)を2022年まで続ける必要があるかもしれないと指摘している。
こうした未曽有の状況下で、世界中が切望しているのが、新型コロナウイルス感染を予防するためのワクチンと、感染しても重症化や死亡を免れるための治療薬だ。
製薬企業への期待は高まっているが、日本でいま最も注目されているのは大手製薬企業ではなく、写真フィルムを祖業とする富士フイルムホールディングスである。同社の医薬品子会社である富士フイルム富山化学が開発したインフルエンザウイルス治療薬「アビガン」が、新型コロナに対する有効性を期待されているためだ。世界中に拡散した新型コロナ禍に収束の兆しが見えない現在、アビガンの名前をメディアで見ない日はないと言っても過言ではない。
既存のウイルス薬とは異なり、RNAポリメラーゼ阻害作用と呼ばれる新しいメカニズムを持つアビガンは、富士フイルムが08年に買収した中堅製薬企業・富山化学(現・富士フイルム富山化学)が創製したもので、富士フイルムが自社研究所で生み出した新薬ではない。
再生医療やiPS細胞ビジネスなどを含め、同社が手広く手掛けるヘルスケア事業は、自社保有のフィルム用化合物を基に開発した化粧品「アスタリフト」などを除けばほとんどすべて、00年に古森重隆社長(現会長)が就任して以降の買収成果だ。
富山化学の買収から加速した富士フイルムの医薬品事業
かつては使い捨てカメラ(レンズ付きフィルム)の代名詞『写ルンです』を生み出し、写真フィルム事業の営業利益が3分の2程度を占めた富士フイルムだが、アビガンが脚光を浴びたことで、「製薬企業」としてのプレゼンスを急速に高めつつある。一方で、18年に米ゼロックスの買収に失敗し、半世紀以上にわたる同社との提携は来年3月末をもって解消。グループ営業利益の実に4割を稼ぎ出してきた主力の事務機器事業は端境期を迎えている。その姿は、かつてデジタル化の大波に抗えず、12年に経営破綻した同業の米イーストマン・コダックの紆余曲折を彷彿させる。
08年に富山化学を買収した富士フイルムの「異業種参入」は、製薬業界を騒然とさせた。20年の現時点で振り返ると、08年はスマートフォン市場の黎明期であり、デジタルカメラ市場が衰退に転じるターニングポイントでもあった。
当時の富山化学は、既に02年から大正製薬の資本を20%受け入れ、販路も同社との合弁会社に一本化するという強固な関係を築いていた(18年に提携解消)。それだけに、大正との資本関係に割って入った当時の古森社長の剛腕ぶりも耳目を集めたが、このとき富士フイルムが開発パイプラインとして取り込んだ新薬候補のひとつがアビガンだった。
医薬品事業への投資は総額7千億円以上
アビガンの新型コロナウイルス治療薬としてのポテンシャルについては後述するとして、とにかく富士フイルムのヘルスケア領域に対する貪欲な投資姿勢はその後10年以上にわたって続き、現在に至っている。
富山化学買収の前後を振り返ると、06年、第一製薬から放射性医薬品事業を買収(富士フイルムRIファーマを経て、現・富士フイルム富山化学)、10年には重度の熱傷治療向け人工皮膚の製品化に成功していた再生医療事業のジャパン・ティッシュ・エンジニアリング(J-TEC)に出資(14年に連結子会社化)している。
これらはまだ序の口で、東日本大震災で未曽有の円高となった11年には、米製薬大手のメルクから工場を買い取り、バイオ医薬品の開発製造受託(CDMO)事業に乗り出す。翌12年には協和発酵キリン(現・協和キリン)と合弁企業を設立し、特許切れバイオ医薬品(バイオシミラー)の製造事業に参入した。
その後も米ケイロン・セラピューティクス買収によるバイオ医薬品CDMO事業の強化(14年)、米セルラー・ダイナミクス買収によるiPS細胞を用いた創薬支援事業への参入(15年)と旺盛な投資意欲は一向に衰えず、17年には1500億円を投じ、国内製薬最大手の武田薬品から研究用試薬子会社の和光純薬(現・富士フイルム和光純薬)を買い取った。
昨年も米バイオジェンから製造設備ごとバイオCDMO事業を譲り受けており、これら一連の買収に費やした総投資額は、少なく見積もっても7千億円以上にのぼる。
富士フイルムが医薬品事業に参入した経緯と現状
富士フイルムのライバルも試みた医薬品事業への参入
一方で00年当時、3千億円近くあった富士フイルムのフィルム事業売上高はその後の10年間で10分の1に縮小した。
古森会長の強力なリーダーシップの下、デジタルイメージングや事務機器事業などに軸足を移し、この劇的な環境変化を乗り切った富士フイルムだが、同社を語るうえで欠くことのできない企業が、フィルム市場の巨人・コダックだ。同社は1934年に大日本セルロイド(現ダイセル)から分離独立して誕生した富士写真フイルムにとって、常にその背中を追いかける存在だった。
写真フィルム市場で圧倒的なシェアを誇ったコダックだったが、80年代初頭に始まったデジタルシフトへの対応策のひとつとして選んだのが、医薬品市場への参入だった。同社は88年に米スターリング・ウィンスロップという中堅医薬品メーカーを買収し、創薬研究に乗り出す。フィルム事業の新製品開発を通じて医薬品に転用可能なさまざまな化合物を保有していたことが、経営多角化の判断を後押ししたとされる。
だが、コダックは94年に医療用医薬品部門、臨床検査部門、大衆薬部門をそれぞれ切り売りするかたちで別々の製薬企業に売却し、わずか7年で医薬品ビジネスから完全撤退する。デジタル化の潮流に乗り遅れたことによる本業の利益先細りで赤字が膨らみ、多額の研究開発投資と新製品投入まで10年単位の時間を要する医薬品事業の継続に耐えられる状況ではなくなってしまったからだ。
一度は撤退した医薬品事業に再参入した理由
実は、富士フイルムが畑違いの医薬品事業に挑戦したのは、08年が最初ではない。コダックに遅れること6年、抗がん剤などの医薬品開発を模索するための子会社を1992年にボストンに設立したことがある。ただし、95年に完全撤退したコダックを追うように、97年に子会社を解散し、富士フイルムも医薬品事業から一度は手を引いた経緯があるのだ。
富山化学の買収は、富士フイルムにとって製薬分野への事業再参入を意味する。経営戦略上は「下手」として忌避される、一度撤退した事業分野に再び足を踏み入れる大胆な決断の背後にあったのは、90年代以降のデジタルシフトを予見して会社の生き残りを主導した、古森会長のトップダウンの判断だった。
「次の中核事業はバイオ医薬品」――2014年の創立80周年式典で、古森会長はこう明言している。富山化学の黒字化にメドを付けたこの年、自著で「本業消失」のワースト・シナリオを乗り越えたとの一定の自信がうかがえるまでになった。
ただし現状、定量的には「第2の創業」と位置付ける医薬品などのヘルスケア事業への集中投資も、まだ十分なリターンを回収していない。医薬品事業に限っても、富山化学の買収以降に発売した新薬は、新型インフルエンザ対策で国や自治体の備蓄需要があるアビガンのほかは、関節リウマチ治療薬「コルベット」程度しかない。アビガンやコルベットと並んで、富山化学の買収価値を占めていたと考えられるアルツハイマー病治療薬「T-817MA」は、依然として臨床開発段階にとどまっており、パイプラインには複数の抗がん剤も並んでいるが、いずれも開発早期段階だ。
かつてのライバル、コダックの轍を踏む懸念
新薬事業に診断薬やバイオ医薬品CDMO、iPS細胞を使った創薬支援などを加えたヘルスケア事業の19年3月期の売上高は4843億円、営業利益は333億円。着実に稼ぐ力を伸ばしているが、売上高2兆4315億円、営業利益2098億円というグループ全体での立ち位置、なにより古森会長自身が大風呂敷を広げていた「売上高1兆円」という目標からすると、蒔いた種が大輪の花を咲かせたとは言い難い。
一方、売上高、利益とも4割を超える大黒柱であるドキュメント事業に目を転じると、18年に打った乾坤一擲のゼロックス買収は、著名アクティビストの介入もあり失敗に終わった。これに伴い、1年後に迫ったゼロックスの提携解消が、グループの屋台骨を揺さぶろうとしているなかで、まだ揺籃期にあるヘルスケア事業の成長をいつまで見守ることができるのか、予断を許さない。コダックの背中を追いかけてきた富士フイルムだが、巨人の轍を完全に脱したとは言えない状況だ。
アビガンは富士フイルムのヘルスケア事業の集大成
さて、目下、世界を席巻している新型コロナ禍に対する切り札として注目を集めるアビガンは、富士フイルムのヘルスケア事業にとっても「ブロックバスター」のポテンシャルを秘めていることは事実である。新型コロナウイルスに対する治療薬の創製・実用化には、どれだけ急いでも5年程度の時間はかかると考えられており、既に別の適応症で開発済みの医薬品を転用する方法が現実的だからだ。ただし、最低限の有効性と安全性を検証する臨床試験の実施は必須で、この結果が分かっていない現状では、アビガンが大化けするかどうか、確度の高い評価は難しい。
まず、ウイルスが取り付いた細胞の増殖を阻害するアビガンに、その作用機序ゆえ胎児の催奇形性リスクがあることは早くから分かっており、妊婦などの服用は避けるべき医薬品であることは、広く認識されるようになった。日本や米国では、重症ではない新型コロナ患者を対象とする臨床試験がスタートしており、6月末までに終了する予定だ。政府の後押しが期待できる日本では、年内の承認も可能だと目されている。このほかにも、アビガンの効果を検証する試験が国内外で複数進行中である。
アビガンは、富士フイルムのヘルスケアシフトを主導した古森経営の集大成として、大輪の花を咲かせるのか。結果は遠からず判明するはずだ。