ウェアラブル体温計開発の経緯と乗り越えた課題
試行錯誤を重ね製品開発に取り組む
丸井氏という強力なパートナーを得た田中氏は、その後も試作品製作、資金調達など、山ほどある課題に挑戦していった。
当初は女性向けの製品を想定していたため、ペンダント型やクリップ型のデバイスも候補にあったという。既に海外では、耳の中に入れたり皮膚に貼ったりする体温測定デバイスもあった。しかし、いずれも汗や空気に触れることで測定結果に影響が出るのが否めなかった。求めているのは、深部体温を正確に測ることができ、身に付けていて違和感が生じにくいものだ。
丸井氏と共に実験と検証を繰り返した後、最終的に体温計を装着するのにベストな部位は、汗や空気に触れることによる影響を受けにくく、正確で安定的な測定が可能な臍だという結論に達した。
臍に装着するためのデバイスの小型化に関しては、さほど問題はなかったという。むしろ苦心したのは、デザインのほうだった。人によって臍の形は千差万別。老若男女、誰もが違和感なく装着できるよう、万人の臍の形を平均化する作業が必要だった。
「製品の形状に関しては、時計メーカーでデザイン経験のある知り合いの方に頼み込んで作ってもらいました。ハードウェアの製作においては、外側のデザインと中の設計では領域が全く異なります。こちらからデバイスの原理を伝えて、最低限必要なサイズや形状についてフィードバックをもらい、丸井と一緒に粘土などで形を作って、それをデザイナーに伝えてまたブラッシュアップしていくといった作業を繰り返していきました」
こうした苦労を重ね、約1年半をかけて試作品がようやく完成した。
薬事承認、人材などの参入障壁を乗り越える
製品開発と同時に進めていた資金調達も一筋縄ではいかなかった。
ウェアラブル体温測定デバイスは医療機器に属するため、商品として世の中に出すには厚生労働省による薬事承認を得なければならない。また、田中氏は以前勤務していたベンチャー企業でIoTに携わった経験はあるものの、この分野でハードウェアの事業を展開する女性はほとんどいない。
これらのことから、投資家などからは「本当に実現できるのか」と懐疑的な目で見られることが多かったという。
「例えば、医療機器の製造販売業者として認可を得るためには、統括製造販売責任者、安全管理責任者、品質保証責任者のいわゆる薬事三役がいないとダメなのですが、そうした人材を社内に揃えたり、製造する場所なども決めないといけません。とにかくやることが多かったです」
医療機器業界に参入するには、経験豊富な人材が不可欠だ。不足する人材はツテをたどって大手製薬会社勤務の経験がある人物を紹介してもらったり、ピッチコンテストの場でアピールしたりするなどして少しずつ体制を整えている。
そうした努力が実を結び、18年8月にはベンチャーキャピタルから資金調達に成功。薬事承認取得のめども立ち、本格的な市場投入に向けて、いよいよ準備は整った。
起業家・田中彩諭理氏とウェアラブル体温計のこれから
命に関わる分野から優先的に攻める
2019年11月に開催された「金の卵発掘プロジェクト2019」の最終審査会に臨んだ田中氏は、試作品ができたばかりのウェアラブル体温計と、HERBIOのビジネスプランについてプレゼンテーションを行った。
ウェアラブルでかつ、深部体温を正確に測定するデバイスという着眼点。さらに、デバイスにためた体温データをクラウドに飛ばしてウェブで見たり、体調管理をスマホアプリで行ったりできる仕組みは、審査員たちから高い評価を受けた。最終的にグランプリを獲得することになり、今後の事業展開に参考になるさまざまなヒントも得ることができた。
「たとえば、スマート介護に役立てるといったあまり想定していなかった使い方も提案していただいたので、集めたデータをさらにパーソナライズする必要性を感じました」と語る。
ただ、1つだけ審査員たちとは意見が異なる部分があった。それは、最優先で狙うマーケットについてだ。
臍に装着できるウェアラブル体温計の用途として、審査員たちは女性の妊活マーケット向けという部分を前面に出してPRすることを推奨した。
しかし、生命に関わるような重要度の高い領域を優先したいという強い思いが田中氏にはあった。プレゼンで熱中症の予防という観点からのアプローチを強調したのはそのためだ。熱中症の次に子供や女性向け、次に健康管理のマーケットと、優先順位をつけて取り組んでいく考えだという。
「従業員の熱中症による企業の損害は10年後には国内で19.2兆円、世界で260兆円になると言われています。水分補給や休憩などの対策をしても、建設現場では1日に1人は倒れてしまうような状況です。熱中症になりやすさは人それぞれ違うので、個人のデータからリスク分析をしてアラートを流したり、熱中症になりにくい体質にするためのコンサルなども行っていきたいと考えています」
既に行動は起こしている。2019年より電線・ケーブルメーカーのフジクラと実証実験を行い、実用化に向けた体温データの収集を開始。同社では、熱中症リスクの可視化や働き方、休憩の取り方など、蓄積したデータを従業員の健康促進に役立てる方針だ。
また、健康領域とITを組み合わせた「ヘルステック」分野におけるスタートアップ支援に取り組む神戸市とも協力体制を組んだ。神戸医療産業都市推進機構が行うヘルスケアサービス開発支援事業に参画し、熱中症予防の共同研究を進めている。
一方、妊活を含む女性向けの健康管理に関しては、就寝時に装着し、起床時にアプリを起動して基礎体温を確認するという使い方を想定している。睡眠中の体温推移を分刻みで取得し、そのデータに基づいて、睡眠の深さや精神的ストレスなども把握することが可能だ。こうして日常的に使うことで、ちょっとした体調の変化も早い段階で認識できるようになるという。
ちなみに、田中氏自身も体温データから急性腸炎の兆候を発見し、その後の医療機関での速やかな治療につなげた経験を持つ。いわば、自ら実験台になったようなものだが、この出来事からも体温変化から病気の兆候をつかむという部分にはまだまだ研究の余地があると確信を深めた。
今後はさまざまな病気の兆候となる体温変化のデータを集め、医療機関や製薬会社などと協力体制を敷くことも構想し、2020年の春頃から実際に製薬会社などの治験貸与も開始。共同研究も開始する予定だ。
また、6月には令和2年度の経産省のものづくりスタートアップ・エコシステム構築事業に採択され、治験向けのPHRアプリや次世代機の量産試作を開始する事となった。
周囲と共に歩むマネージメント
経営者として奮闘する過程で、自分に合ったリーダー像のようなものも見えてきた。かつて心理カウンセラーを目指していた時代、相談者の話を傾聴するというより解決策を見出そうとしてしまう自分自身にジレンマを感じたこともあったが、そうした経験も役立っているという。
「自分だけで課題への解決策を出して引っ張っていくだけでなく、周囲に問いかけるマネージメントを意識するようになりました。会社という形態を取る以上、人の力を借りないといけません。自分ができることとできないことの境界線を引くことはとても重要だと思っています」
ユーザーに対してはデバイスそのものの販売ではなく、会員登録向けに定額でデバイスや専用アプリを含むサービスを利用してもらうサブスクリプションモデルで展開することで、利用の拡大を図る。
人材確保や資金調達などやるべきことは山積しているが、グローバル規模で拡大するヘルスケア市場において成長への期待は大きい。将来の目標に関して田中氏はこう語る。
「いずれは株式公開できたらいいかなとは思っていますが、それよりも今はユーザーのために何ができるのかを真摯に考えることに集中したいです。その先に売り上げやエグジットが見えてくると思います」
「人を救う」というテーマに向かって
「絶望の果てに光がある」―アウシュヴィッツ収容所での過酷な経験を描いた『夜と霧』で、著者のヴィクトール・フランクルが提示したこの言葉に強く惹かれたと田中氏は語る。理由を尋ねるとこんな答えが返ってきた。
「厳しい状況にあっても、自分が何をするかによって人の生活を変えることができたり、生きる希望を与えたられたりできるという考え方が、私の中でしっくりきたんです。自分が犠牲を払っても、他人を救えるのであれば行動するべきではないかと」
「人を救う」というテーマを、起業家として実現する道を選んだ田中氏。「体温計は装着するもの」という認識が人々の間で当たり前になったとき、その目標は達成に大きく近づいていることだろう。