スズキの鈴木修会長(91歳)は、6月に代表権を返上し相談役に退く。1978年6月、社長に就任以来、会長あるいは会長兼社長と肩書は変わったが、一貫して経営トップとして指揮してきた。「自動車業界最後のカリスマ」である人間・鈴木修の軌跡を追う。文=ジャーナリスト/永井 隆(『経済界』2021年5月号より加筆・転載)
経営者・鈴木修とその歩み
鈴木修への評価に見える共通点とは
「親しみやすく、ユーモアにあふれた経営者」「名誉よりも実を取る合理主義者」「現場本位のトップ」、「数字にうるさく、とにかく細かい」「理ではなく情の人」「若い頃はジジイ殺しだった。権力者の懐に入っていく」「先制攻撃が得意」「せっかちで決断が早い」「記憶力がすごかった」「とんだタヌキだ」「一人で決断できるトップ」「戦国大名にたとえるなら、寝技が得意な戦略家の家康」「いや、権謀術数に長け次々と強国と同盟を結んだ真田昌幸に近い。何より戦上手」……。その人柄や経営スタイルについて、鈴木修を知る人たちは言う。
ネガティブな指摘も含め、どこか自分の親戚について語るかのような親しみを込めている点で共通する。何を言っても、どんな行動を取っても、鈴木修は多くの人から好かれるキャラクターである。
原点は工場にあり
インドの自動車産業そのものを立ち上げ、スズキをインド市場でシェアトップに導いた。同じく、日本の軽自動車を育てて発展させたのも、この経営者である。
鈴木修は1930年1月生まれ。出身は岐阜県下呂市。旧制中学の途中で宝塚市の海軍航空隊に志願して入隊する。文武両道に通じていたため甲種飛行予科練習生となり、一度は国防に身を捧げる。
戦後は、東京世田谷区で小学校の教員となる。教壇に立ちながら、当時は神田にあった中央大学法学部に学ぶ。中大卒業後は中央相互銀行に入行。銀行員時代、スズキ第2代社長の鈴木俊三に見出され、俊三の長女祥子と結婚し婿養子となる。
スズキに入社したのは58年だった。入社した鈴木修は当初、企画室に配属された。ところが、地に足がついていないスタッフの仕事を嫌い「現場に行かせてくれ」と俊三社長に願い出て、工程管理課に異動する。
本社の中枢である企画室と対立する関係となった鈴木修は、入社3年目の61年1月に新工場の建設責任者となる。責任者に仕立てたのは企画室のトップである専務。鈴木修の失脚を狙っていたとも見られる。
その新工場は豊川工場(愛知県)。無茶な工期だったが、鈴木修は現場に張り付き、61年9月に予定通り完成させる。予算は3億円だったが、2億7千万円で建設し3千万円を企画室に突っ返したそうだ。
「豊川工場建設で、修は自信をつけた。経営者、鈴木修の原点は工場建設にある」
58年の同期入社で第5代社長も務めた戸田昌夫(故人)は、生前このように筆者に話していた。
豊田英二に頭を下げダイハツエンジンを購入
しかし、70年代に入ると、スズキの経営は危機を迎えていく。米国のマスキー法にならった排ガス規制を導入へと国が動いたためだ。
他社がみな4サイクルエンジンを搭載していたのに、スズキはずっと2サイクルエンジン車専業だった。燃焼温度の低い2サイクルエンジンはNOx(窒素酸化物)の発生は少ないものの、吸気と廃棄を同時に行うため燃えかすが残りHC(炭化水素)の発生量が多い(4サイクルは逆にHCは少なくNOxは多い)。
このため、HCで国の排ガス規制への対応が難しくなるのだ。専務だった鈴木修は74年9月、他の大手メーカー社長とともに国会(衆議院)に呼ばれる。ここで規制緩和および延期を訴えた。もちろん、霞が関や永田町を陳情して廻る。目白の田中角栄邸も訪れた。名刺はみるみる増え、規制は延期されていき、ロビー活動で鈴木修は人脈を得ていく。
しかし、規制をクリアーする新エンジンの開発にスズキは失敗してしまう。このため、当時の豊田英二・トヨタ自工社長に頭を下げて、トヨタからダイハツ製4サイクルの軽エンジンを供与してもらう。
緊急登板でスズキ社長に就任
鈴木修が48歳の若さで、スズキ第4代社長に就任したのは78年6月。春の選抜高校野球で、ご当地の県立浜松商業がよもやの優勝を果たした直後だった。実はこのとき本当は社長になるはずではなかった。第3代社長の鈴木實治郎(俊三の妻の義弟)が病気で倒れてしまったための緊急登板だった。
それでも就任から4年間で、スズキの将来を方向付ける大きな決断を集中して行っていく。
79年5月、ボンネットバン型の軽自動車「アルト」(分類は商用車)を、全国統一価格の47万円にしてヒットさせる。当時の軽自動車は60万円台が中心で、トヨタのカローラは100万円した。その安さから、3年間で50万台と爆発的に売れた。アルトはその後、インドに導入。800㏄のエンジンを積み、「マルチ800」という名前で売り出されるが、実質的なインドの国民車になっていく。
アルトのヒットによりスズキは苦境を脱し、アルトで得た利益で4サイクルエンジンの設備を導入し、さらに小型車開発にも着手、軽専業から転換する。
提携、そして海外展開も、同時期に手を打つ。小型車開発計画を持ち、パートナーを探していたGMと資本提携したのは81年8月。82年にはパキスタンに進出。インド政府と、自動車生産の合弁契約を結んだのは同年10月だった。経営危機を乗り切った頃、鈴木修は思った。「大切なのはやる気だ。どんなに苦しくとも、やる気とファイトで挑戦すれば、必ず道は開ける」。
スズキを軽自動車王国に育てた鈴木修
アルトで市場を再興
国内の販売現場も、鈴木修が社長に就いてからより強化されていく。スズキがホンダを抜いて軽トップになったのは73年。もっとも、これには理由があり、横綱だったホンダが軽乗用から手を引いていたからだった。ホンダが開発したCVCCエンジンが、世界で初めてマスキー法75年規制値をクリアーしたのは72年末。「絶対に無理」と米ビッグスリーが訴えていた壁を、日本の小さなホンダが乗り越えてしまったのだ。
ホンダはCVCCエンジン搭載のシビックで北米市場に打って出るため、軽乗用の生産を休止したのである(軽商用は継続)。工場の生産能力には限りがある。軽乗用から撤退し、その分をシビックに振り向けた。
スズキはトップに立ったものの、オイルショックやホンダの生産休止から軽市場は70年の約126万台から75年には約59万台へと、一気に半減する。市場を再興したのは、前述のアルトだった。
業販店主の圧倒的支持
73年から2006年まで34年間もスズキは軽トップだったが、販売を支えたのは全国各地に点在する自動車整備業者や販売業者。いわゆる業販店である。いまもスズキの国内販売の8割は業販店が占める。
スズキと業販店とは資本関係はない。両社をつないでいるのは、人間鈴木修である。スズキは定期的に、優秀な業販店を集めた勉強会と宴会をセットにした「副代理店大会」を全国各地の一流のホテルで開催する。
歌謡ショーの後、宴会が始まると、鈴木修はビールを注いで周り、時には店主に同伴した和服姿の夫人を抱きしめる。カメラに収まり、会場はストロボの閃光で盛り上がっていく。驚かされるのは、鈴木修が業販店主と夫人の名前を、みな記憶していること。事前にチェックしているのかと思えたが、そうでもない。200人からが参加するだけに、覚えきれないはず。急に参加した店主でも、その顔を見ると、いつ、どこで、どういう状況で会ったのか、あるいは家族のことなど記憶を蘇らせてしまうのだ。
「ハート・ツー・ハートなんだよ」と笑うが、人の能力を超えていた。
軽自動車市場でホンダと再び激突
さて、78年にホンダが再び、軽乗用に参入するとき、国内営業の幹部たちは本田宗一郎と並ぶ創業者の藤沢武夫を訪ねた。
「本田さんは本当に引退したけど、実質的な経営者だった藤沢さんは引退はできなかった。2人の強力な指導者に従ってきたわれわれには、重要な決断はどうしても下せなかったから。藤沢さんは『お客さまの顔を見て売れ』とわれわれに示した。鈴木修さんが得意とする業販店ではなくディーラーで売れという意味でした」(ホンダの元首脳)。この結果、プリモを立ち上げていった(その後、ホンダカーズに統合)。
年齢も立場も違う決断を下せる2人の経営者だが、それぞれ別の思想をもっていて、両社は軽自動車の販売現場で激突を今も繰り返している。
スズキは巨大な四輪市場である米国、そして中国から早々に撤退した。古くは、HY戦争(ホンダとヤマハ発動機による50ccバイクを巡る熾烈なシェア競争)に巻き込まれるなど、決して順風満帆できたわけではない。特に、経営が傾いたGMに代わり資本提携した独フォルクスワーゲンとは激しく対立。ようやく離婚が成立し、今はトヨタと提携関係にある。
一時はレンジエクステンダーを先駆けて開発しながらプロジェクトを中断してしまい、現在の電動化の遅れを招く。インド事業への経営の依存度は増し、国内でも業販店が後継者難に直面しているなど、スズキが抱える課題は数多い。
経営者・鈴木修のこれから
岳父である俊三は「何か(重大事が)あったら豊田さんに頼みなさい」と修に言葉を遺したとされる。が、世界のEVおよびリチウムイオン電池の勢力図は、いまや急変している最中だ。
とりわけ、インドでのEV化への当局からの要請は強く、トヨタとの協力体制を合わせて、開発のスピードアップは求められる。そもそもEVはエネルギー効率が高く部品が少ないため、軽のような小さい車両に向く。この特性をスズキは生かしていくべきだろう。中国では小さく安価なEVがヒットしているだけになおさらだ。
これまで、功績を残しながらも事業承継をできずに沈んでいった経営者は、それなりに多い。鈴木修は会見で「挑戦を続けていく」というから、「死ぬまで働く」のは間違いない。
ただし、鈴木俊宏社長を中心に合議制で決められる体質にスズキはシフトしなければならない。外面と内実が違う組織は脆弱であり、やがてほころんでいく。相談役が水面下で決めるのではなく、決定の相談に乗るという役割に徹するべきだろう。(文中敬称略)