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NECの顔認証技術はなぜ世界一になったのか

NECは、顔・指紋・虹彩の3分野の生体認証で世界トップの技術力を持っている。2019年、史上最年少の49歳でNECフェローに就任した今岡仁氏は、同社の顔認証を世界一に押し上げた立役者だ。「ずっと大変だった」と振り返る今岡氏だが、やりきる秘訣はあたりまえのことをひたすら着実に進めることだという。聞き手=ライター/森川滋之 Photo=山内信也(『経済界』2021年9月号より加筆・転載)

インタビュー

今岡 仁・NECフェロープロフィール

今岡 仁・NECフェロー
(いまおか・ひとし)1970年生まれ、東京都出身。97年大阪大学大学院卒業後、NEC入社。入社後は脳視覚情報処理に関する研究に従事。2002年マルチメディア研究所に異動。顔認証技術に関する研究開発に従事し、事業化に貢献。09年より顔認証技術に関する米国国立標準技術研究所主催のベンチマークテストに参加し、世界No.1評価を5回獲得。19年、史上最年少の49歳でNECフェローに就任。

ベンチマークテストで世界一となったNECの顔認証技術

―― NECは2009年、顔認証ベンチマークテストで世界ナンバー1となりました。これはどのようなテストなのでしょうか。

今岡 顔認証はデータによっては簡単に認証率100%を達成できます。そこで定期的にNIST(米国国立標準技術研究所)が開催しているコンテストに参加しました。参加者が同じデータを用いるなど、同一の条件で認証精度を競うものです。かなり厳しい戦いでしたが、初参加の09年に1位を獲りました。その後、5回トップを獲得しています。

―― そのテストに参加したきっかけは何かありますか。

今岡 顔認証技術の研究を開始してから、順調に商品開発ができていました。04年には海外の入出国管理システム、07年には国内の大型エンターテイメントパークに採用されました。家族でそのエンターテイメントパークへ遊びに行った時には子どもに自慢もできましたし、それなりに会社にも社会にも貢献できたと思います。

 しかし一方では、今一つ世の中に広まっていかないジレンマを抱えていました。良いものを作ればそれだけで使ってもらえるわけではない。そこで世界的に権威のあるベンチマークでトップになってNECの技術をアピールしようと考えたのです。

―― 1位のすごさを数値で示すことはできますか。

今岡 最新の18年のベンチマークでは、エラー率は0・4%で、これは2位に3倍の差をつけています。1秒間に2・3億件のデータ処理を達成しています。日本人全体でも0・5秒で検索が終わる速度です。精度と速度の両方を兼ね備えている点で、他社の追随を許しません。

 もう一つ重要な指標があります。各国の入出国システムでも顔認証は使われていますので、顔の経年変化に対する高い認証精度が求められます。パスポートは10年間有効ですから、10年前の写真を認証できなければなりません。NECのアルゴリズムは20年を経てもエラー率が2・7%です。2位の11・5%に4倍以上の大差をつけています。

―― なぜNECの顔認証はこのような数値をたたき出せるのでしょう。

今岡 実用的なアルゴリズムにこだわったからだと思います。研究者は一般的に〝かっこいい〟アルゴリズムを好む傾向にあるのですが、われわれはそれよりもあらゆる状況でも安定して動くアルゴリズムをしっかり作り上げることを心掛けたのです。

今岡 仁・NECフェロー

成果を出すまでは苦難の連続

―― 今ではNECの顔認証は世界中で認められています。

今岡 最初に世界一になったときのエラー率は0・8%でした。当時はエラー率1%を切るのは難しいと言われていたので、世界中から数百件の問い合わせが来ました。その結果、45カ国以上にNECの顔認証システムが導入されました。

 米国のある展示会でFBIのブースに立ち寄った時、私がNECの人間だと分かると、「顔認証のすごい会社だな」と言われました。「あれは私が作ったのだ」と答えると、「おお、本当におまえなのか?」と驚かれて。日本よりも米国で先に有名になっていました。

―― 順風満帆ですね。

今岡 それが全く逆で、本当は苦しく、1位を獲るまでは今思い出しても泣きそうになる挑戦でした。部下は1人しかおらず、失敗したら顔認証の研究を続けられなくなるのではないかというプレッシャーもありました。

 「なぜおまえでできるのか。勝てる理由を説明しろ」と社内から迫られたこともあります。会社としては、予算を使うのであれば「勝てる」人間に研究してほしいわけです。ですが、勝てる理由を説明しろと言われても難しいですし、そんなことに時間もかけたくありませんでした。

―― どうやって窮地を乗り越えたのですか。

今岡 究極の思いは「自分の人生だ。何をすれば勝てるか自分で考えるしかない」ということでした。勝つには、当たり前ですが、性能を高めるしかありません。だったらとにかく性能を高めるための努力を続けるだけです。

 大学受験をしようという人間が、「なぜ大学に行くのか」と悩む暇があったら勉強するほうがいいのと同じです。人工知能の性能を上げるのなら、データを大量に集めればいい。ではデータを大量に集めるには何をしたらいいか……。このように逆算で考えることをひたすらしっかりやり続けました。

―― では、ベンチマークテストで世界一になって報われましたか。

今岡 報われたというより、落ち着いたという感じでした。研究者としてやっていく自信がつきました。反響が大きく、テレビ出演の依頼もありました。多くの企業や大学の研究者からも声がかかるようになり、国際会議で基調講演を依頼されたり、いくつかの賞をいただいたりもしました。

 ただ困ったことに、後に続くベンチマークで負けられなくなりました。以来、数年間頑張って世界一を獲り、少しだけ休憩して、また挑戦ということを繰り返しています。オリンピックに出るアスリートのような生活です。

 最初に世界一になったとき、ある役員から「NECは世界レベルを達成しても10年以内に消えてしまう技術が多かった。今岡、10年頑張ってくれ」と言われました。世界一になってから約12年経ちました。その約束が果たせてよかったと思っています。

社長が顔認証のトップ営業

―― NECの顔認証技術のアピールには成功しました。事業としてはすぐに拡大していきましたか。

今岡 反響は大きかったものの、役員たちはまだ事業になるとは思っていなかったようでした。そこで私は、顔認証の技術開発とソリューション企画、開発を全社横断で行う「顔認証技術開発センター」を作ろうと、20人ぐらいの執行役員に「これは絶対に必要な組織です」と頼み込みに行きました。その中の一人の役員が「よし、作ろう!」と言ってくれて、15年に立ち上がりました。

―― 事業部を作ろうと考えた動機は何だったのでしょうか。

今岡 発想は、ベンチマークに勝つための考え方と全く同じです。事業として広めるためには事業部を作るしかない。あたりまえですよね。

 その頃、社長賞をいただきました。一介の社員が社長と話をする機会などなかなかないと思ったので、受賞式の時に「いいモノを作りましたので、ぜひ自ら売ってください」と当時の社長にお願いしたのです。社長は「分かった」と言ってくれて、実際にさまざまな機会でトップ営業をしてくれました。これはNECの顔認証を認知してもらう上で、とても大きかったですね。その代わり今でも当時の社長に会うたびに、「今岡、顔認証の件で困っていることがある。助けてくれ」と必ず言われます。

個人ではなく組織で勝つ

―― 今岡さんは現在、生体認証だけでなくAIをはじめとするデジタルビジネスを技術統括するNECフェローであり、指導的立場にあります。組織運営で心掛けていることはありますか。

今岡 以前は部下と2人で進めていましたので個人力で勝つという考えもありましたが、今は組織で勝つという発想に完全に切り替わっています。実際、組織力がなければ10年間勝ち続けることはできなかったでしょう。

 人を集めるときに真っ先に考えることは、自分より優秀な人を部下にするということです。それと、同じような人ばかり集めても意味がない。多様な能力を持つ人たちを集めてチームで戦うことが重要です。

 能力でいえば、アルゴリズムを作る力はもちろん必要ですが、それ以外にもエンジニア力、リサーチ力、事業推進力、営業力とさまざまな能力が必要です。性格についても前向きな人も必要だし、守りに強い人も必要です。サッカーにたとえると、フォワードとディフェンスがいて、その上ボランチもいないといけないよね、と。能力面でも性格面でもバランスが重要です。

 論文が書けたり、かっこいいアルゴリズムを作れる、いわゆる良い研究者を集めてチームを作ろうとしがちです。しかし役に立つアルゴリズムはかっこいいアルゴリズムとは違うんですよね。

大規模な人数から特定の1人を探し出す

―― NECの顔認証は精度と速度を兼ね備えているということでした。それが生きるサービスとはどのような分野ですか。

今岡 生体認証には大きく分けて1対1認証と1対N認証があります。1対1認証とは、IDなどの情報から認証対象者の生体情報を特定した上で、入力された情報がその生体情報にマッチするかを照合する方法で、スマートフォンの指紋認証や顔認証が該当します。それに対して1対N認証とは、登録されているすべての生体情報と入力情報を照合して一致する情報を探し出すものです。

 われわれの顔認証技術は、特に1対N方式に力を入れています。精度も速度も高いので、都市や国レベルの大規模な集合の中から、特定の一人を瞬時に探すといった用途に最も向いています。

―― 国レベルという話では、インド13億人の国民IDシステム「アドハー」に、NECの生体認証システムが使われています。

今岡 間違いが許されないシステムですので、顔、指紋、虹彩のマルチモーダル生体認証で精度を高めています。特に顔、虹彩を組み合わせた認証のエラー率は100億分の1、つまりそれだけで全世界の人口を識別し得る性能を持ちます。NECのように、顔、指紋、虹彩の3つすべてでトップレベルの企業は世界でもほとんどありません。

 顔認証用の写真は、日本だと明るい空間で正面を向いて撮りますが、海外では適当に撮影してしまって顎しか写ってないとか、逆光で顔が確認できないなんてこともしばしばあります。そのような時も、マルチモーダルの場合は虹彩などで補えるため、精度を担保したまま利用できます。

 また、昨年NECでは顔・虹彩マルチモーダル生体認証端末の開発を発表しました。大規模な人数の中から、特定の一人を精度高く識別し得る性能を有しており、現在は運用に向けて開発を加速しています。

顔認証技術をさまざまな領域で活かす

―― 国内の事例はいかがですか。

今岡 マイナンバーカード発行時の本人確認で使われています。また、コンサート会場での本人確認にも使われています。これはチケットの転売抑止をねらったものです。

 画期的な取り組みとしては、和歌山県の南紀白浜空港を中心とするエリアでの「IoTおもてなしサービス実証」があります。南紀白浜を訪れる観光客やビジネス客に顔情報と決済情報をあらかじめ登録してもらい、そのデータを活用して町を挙げておもてなしするサービスです。

 例えば空港に到着すると、顔認証で本人を特定し、ディスプレーに名前とウェルカムメッセージが表示されます。また一部のホテルでは、客室のドア施錠を顔認証で行えますのでカギは不要です。

 さらに顔情報と決済情報が結びついていますので、空港・ホテル・レストラン・テーマパーク・土産店・ゴルフ場・海の家などでは、財布を出さずに顔認証で精算できます。南紀白浜は海水浴場で有名ですが、海水浴に行くときには現金はあまり持ち歩きたくないですよね。

―― 19年に史上最年少でNECフェローになりました。今後の目標について聞かせてください。

今岡 世の中の役に立ちたいとNECに入りました。そのため15年からは顔認証技術の知見を生かし、医師が大腸がん・前がん病変を発見するのを支援する「リアルタイム内視鏡診断サポートシステム」の開発など、医療AIの研究開発や事業化にもかかわっています。今年度からはデジタルビジネスの技術全般をみる「DXフェロー」に就任しましたので、より広い視点で社会貢献していきたいですね。

 例えば南紀白浜では、まず顔認証があり、その力で地域全体がゆるやかにつながり、そのつながりが個人のおもてなしを実現する。多額の投資をしなくても、デジタルの力でアミューズメント空間を創造できるということです。ここで価値を生んでいるのは「認証→コネクト→パーソナライズ」という流れであり、これがDXの本質ではないかと考えます。

 認証技術を入口にしながら世の中でさまざまなコネクトを生み、そこから発生したデータを分析して、社会に役立つサービスを実現していきたいです。