経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

第三世代に突入した仲介市場のプレーヤーたち

かつてM&Aを差配するのは金融機関の仕事だった。ところが中小企業のM&Aが増えるにつれ、プレーヤーの顔ぶれが変わってきた。それによって市場はさらに拡大、イノベーションが起きた。そして今、次の世代が登場したことで、M&A仲介も新しい時代を迎えている。その変遷を、M&Aの歴史とともに振り返る。文=関 慎夫(雑誌『経済界』2023年4月号より)

20世紀の日本の常識は会社の売却=経営者失格

 日本でM&Aがビジネスとなったのは1970年代。のちにレコフを創業する吉田允昭氏が山一證券社内にM&A部隊を立ち上げたのが始まりだった。ここからしばらくは、「M&Aといえば山一證券」という時代が続く。

 その後吉田氏は、山一證券取締役を退任し、87年にレコフを創業する。これが日本で初めてのM&A仲介会社だった。

 当時はバブル経済の真っ最中。この頃、M&Aの話題はもっぱら日本企業による海外での企業買収だった。84年、ソニーがアメリカの音楽大手、コロンビア・レコーズ(現ソニー・ミュージック)を買収。88年にはブリヂストンがファイアストンを、セゾングループがインターコンチネンタルホテルをそれぞれ買収した。

 89年には三菱地所がロックフェラーセンターを、ソニーがコロンビア映画(現ソニー・ピクチャーズ)を、翌90年には松下電器(現パナソニックホールディングス)がMCA(ユニバーサル映画)を買収した。

 一方、日本国内でも89年にブーン・ピケンズによる小糸製作所株買い占めにより、M&Aという言葉が広まった。ピケンズはいわゆる「グリーン・メーラー」で、株を買い占めては高値で買い戻させることで利益を上げていた。続いて秀和による流通株買い占め事件が起きる。不動産業の秀和が、伊勢丹、忠実屋、いなげや、といった流通株を買い占め、業界再編をぶち上げた。

 この2つの事件で、M&Aのイメージは一気に悪くなった。両者ともに、買収先企業の同意を得ないで敵対的に株を買い集め、「資本の論理」を振りかざして、自らの要求を通そうとしたためだ。当時の日本では「会社は家族」。そこへ資本の論理を旗印に殴り込みをかけるのは、日本人には受け入れがたい暴挙だった。「M&A=企業乗っ取り=悪」のイメージが醸成されていった。

 とはいえ、当時のM&Aは、あくまで大企業のもの。中小企業にはM&Aのマーケットそのものが存在しなかった。理由は2つある。

 ひとつは間を取り持つ、いわば仲人のなり手がいなかったことだ。経営者の付き合いの範囲は限られている。その中に候補がいなければ前に進まない。マッチングサービスをしようとしても、大企業のM&Aとは違い、中小企業の場合、買収額も小さいため、仲介してもその成功報酬は限られている。それではビジネスにならないため、金融機関も中小企業のM&Aには積極的に関与しようとしなかった。

 もうひとつが、日本人のM&Aに対するメンタリティーだ。少し前まで日本では会社を手放すこと=負けと思われていた。会社を譲渡することは身売りでしかなく、その事態を招いた社長は経営者失格の烙印を押された。一方、買い手企業になるにも買収=乗っ取りというイメージがつきまとったため、買い手、売り手とも、なり手がいなかった。

 そんな空気がまだ漂っていた91年、日本M&Aセンター(センター)が誕生する。創業者の分林保弘氏(現会長)と三宅卓氏(現社長)ともにオリベッティの営業マン。同社のコンピュータを会計事務所や金融機関に売っていた。その過程で、会計事務所から、「事業承継に困っている中小企業が増えている」という情報をつかんだことが創業のきっかけだった。

 97年には、ストライクが創業。創業者で社長の荒井邦彦氏は公認会計士。そのクライアントの中にM&Aを経営戦略に組み込んでいる会社があり、それをきっかけに荒井氏はM&Aに興味を持ち、自らビジネスにしようと考えた。

 そして2005年にはM&Aキャピタルパートナーズ(キャピタル)が誕生する。中村悟社長は元積水ハウスの営業マン。土地オーナーの相談に乗っているうちに店舗や会社の譲渡を相談されるようになり、M&Aビジネスを知る。そこで転職を考えるが、金融未経験者を雇うところはなく、自ら起業した。

金融出身者から営業マンへ。新しい経営者は新しい経歴

 以降、日本の中小企業のM&Aは、センター、ストライク、キャピタルが主導していくことになる。この3社に共通するのは、創業者がいずれも金融機関出身ではないことだ。

 レコフ創業者の吉田氏が証券会社出身だったように、従来、M&Aに関するビジネスは、金融機関の専売特許だった。ところが、その市場を拡大したのは、金融機関とは関係ない人間が立ち上げたM&A仲介会社だった。中でもセンターとキャピタルの創業者はいずれも営業出身者。アグレッシブな営業により、案件を獲得していった。

 それまでのM&A仲介は、たまたま入ってきた売り情報、買い情報に対して相手を探すというものだった。ところがセンターは全国に張り巡らせた会計事務所や金融機関のネットワークを通じて、キャピタルは徹底した電話営業によって、売り情報を取得し、そこに買い手企業を紹介するという手法をつくり上げた。一方、公認会計士の荒井氏率いるストライクの場合、そこまで積極的な営業は行っていない。その代わりに日本初のオンラインM&A「SMART」を開発した。荒井氏自身、自分に営業経験があったら、全く違う会社になったと語っている。

 いずれにしても、金融機関の人間では思いつかないM&A成約のためのシステムを構築したことが、中小企業のM&A市場開拓に大きな役割を果たした。その意味でレコフの吉田氏のような金融機関出身者が第一世代だとしたら、センター、ストライク、キャピタルの創業者は第二世代と言えるだろう。

 その後、団塊世代が還暦を迎えたこともあり、中小企業での世代交代が加速する。それに伴い、事業承継型のM&A市場は大きく膨らんでいく。センター、ストライク、キャピタルが急成長したのも環境が追い風になったためだ。同時に成長市場を目指して新規参入組が激増した。他稿でも触れているが、中小企業庁に登録したM&A支援機関は2800社を超えるまでになっている。

 それに伴い、新しい人材も入ってくる。その代表とも言えるのが、M&A総合研究所(総研)の佐上峻作社長だろう。佐上氏はエンジニア出身。自分で創業した会社をPR会社のベクトルに売却。その後、ベクトル子会社でM&Aを繰り返す過程で、既存のM&A会社の非合理性に気づき、自ら仲介会社を立ち上げた。

 エンジニア出身ということもあり、仲介業務も徹底的にデジタル化を進め、生産性を最大限高めている。従来の仲介会社は「モーレツ営業」が当たり前で、夜遅くまで社員が働いていたが、総研社員の残業は極めて少ないという。

 総研だけではない。センターのグループ会社でインターネットでM&A仲介を行うバトンズの昨年1年間の成約件数は1500件。これはM&Aセンターを5割上回る。このバトンズの神瀬悠一社長はリクルートの出身だ。また人材紹介プラットフォーム、ビズリーチの兄弟会社でM&AプラットフォームのM&Aサクシードの金蓮実氏も元リクルートだ。同じく累計成約件数1万件を超えるM&Aプラットフォーム、TRANBIの創業者・高橋聡氏は、コンサルタント会社のアクセンチュア出身だ。

 このように、市場が拡大するにつれ、さまざまな業種からさまざまなキャリアを持つ人たちがM&Aに新しい旋風を巻き起こしている。それによって新たなビジネスモデルが生まれ、M&A市場はさらに活性化するサイクルが生まれている。