経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

社員の自律性がリスキリングの成否を分ける 原 伸一 SOMPOホールディングス グループ

リスキリング特集 原伸一 SOMPOホールディングス

猫も杓子もリスキリング。事業環境の変化に対応するために、積極的に社員のスキルアップを支援する企業は多い。優秀な人材を集めるためにも社員が成長できる制度が充実していることは重要だ。しかし、最終的には業績向上に結び付かねば意味がないはず。リスキリングの本質はどこにあるのか。文=和田一樹 Photo=山内信也(雑誌『経済界』2023年8月号より)

経営戦略と人材のギャップをリスキリングで埋める

 事業を取り巻く環境の変化は速い。「VUCA」時代という言葉が生まれたように、現代は予測困難だと言われる。そんな中でも企業が成長を続けるためには、業界や企業規模によって程度や速さに差はあれ、大胆な事業ポートフォリオの組み換えや、既存事業のDXなどが要求される。当然、それを実行するのは社員だから、人材に求められる能力も変化していく。素早く事業計画を軌道修正するために必要な人材を、その都度、外部から採用しようにもコストはかかり、求める人材を各社で取り合うとなればさらに費用がかさむ。また、日本企業は簡単にレイオフができるわけでもない。となれば、いかに既存社員のスキルを新たな事業戦略を実行できる状態に変化させるかが、経営の大きな課題になる。そこで多くの企業が力を入れるのが、リスキリングだ。

 あらゆる産業でデジタル技術の活用が当たり前になっていることもあり、DX関連のリスキリングを打ち出す企業が目立つ。例えば、まさに「ITカンパニーからDXカンパニーへ」の変革を掲げる富士通は、社員のリスキリングのために教育投資を4割増やした。社内のポータルサイト「FLX」を通じ、デジタルスキルなど9千種類以上の教材を提供し、国内グループ全8万人のリスキリングを進める。

 これまでIT戦略は外部の専門企業と協業して取り組む企業も多かったが、内製化した方が経営戦略に組み込みやすいという声も増えてきた。武田薬品工業は、そうした外部のIT企業に依存しない、自社のデジタル人材の育成を目的に「DD&Tアカデミー」を2022年10月から開始。選抜された社員約30人がアカデミーに入学し、半年間のスキルアップに取り組む。最初の1カ月はデジタルの基礎を座学とワークショップで学び、そのあとは専門部署に所属しOJTで実務を経験することで、デジタルスキルを身に付ける。

 リスキリングに際して、社内制度に大幅な投資をする企業がある一方で、外部の知見を活用する企業もある。メルカリには、希望する社員を対象に博士課程進学を支援する「mercari R4D PhD Support Pro
gram」がある。学費のサポートに加え、研究時間の確保のために勤務時間を調整できる制度を導入。高度な専門知識を習得することで組織の競争力を高め、新しいアイデアやイノベーションの創出を目指すという。

 しかし、企業側がリスキリングの環境を充実させれば、あとは社員が勝手に学びやがて業績向上に結びつくかというと、そんなことはない。取り巻く環境が変化しているのは個人も同じこと。転職サービスのCMで「あなたのキャリアは想像以上だ」と盛んに叫ばれるように、所属する会社以外の世界を意識し、自分の市場価値を高めることに目が向く個人も増えている。企業にとってリスキリングはひとつのきっかけに過ぎず、個人が抱く成長意欲とキャリアに対する危機感をいかに自社の成長戦略に合致させていくかが問われている。

 昨今、そうした働き方をめぐる社会環境の変化を受け、社員が自らのキャリアを主体的に考えて行動する「キャリアオーナーシップ」の重要性が注目されている。今年の5月には、そうした従業員の自律を支援している企業を表彰する「キャリアオーナーシップ経営アワード」が発表された。(上図参照)そこでグランプリに輝いたのは、SOMPOホールディングス。同社の原伸一・グループCHROは、企業がリスキリング施策を進める際のポイントをこう語る。

 「例えば定額で動画が見放題のような、リスキリング支援サービスを提供する優れた事業者は数多くあります。ただ、企業側がそれらのパッケージを導入することだけがリスキリング施策ではない。いくら親が子どもに勉強しなさいと言っても子どもはやらないのと同じです。企業がやるべきことは、自社のポストの業務内容、給与、得られる経験や知見などをオープンにし、社員たちが自身のキャリアの見通しを持てるようにすることで自律的な成長への内発的動機を引き出すことです」

 実際に、SOMPOホールディングスは、各ポストに必要なスキルと経験を分類して定義し、グループ内と転職市場に対して開示を進めてきた。すると社員や転職希望者は、それぞれのキャリアの目標がはっきりとし、そこから逆算して身に付けるべきスキルや経験が明確になることで、日々の仕事の熱量が高まったという。

個人のパーパスを会社を使って実現する時代

 SOMPOグループではこうした制度面の変化に合わせて、従業員のマインドセットの変化にも働きかけている。そこで大事にしている考え方が「MYパーパス」というもの。これは、社員それぞれが人生で成し遂げたいことや仕事の目的、価値観などを指す言葉。社員全員がMYパーパスを言語化し、それらを日々の仕事を通じて実現できるように推奨することで、内発的な動機を引き出している。加えて、タウンホールミーティングという全社員を対象にしたオンラインミーティングの場で、櫻田謙悟グループCEOが「社員一人一人のパーパスがグループの原動力であり、それを実現するための舞台として会社という道具はある」と宣言。トップ自らパーパスの重要性を強調し、企業の文化から変えようと進めてきた。

 昭和から平成の日本では、まず企業があって次に社員の人生があるという従属的な関係が強かった。SOMPOグループは、その関係性を180度転換しようとしている。確かに自律型の社員が増えれば、企業にとっても予測不能な時代には大きな強みになるのかもしれない。

 ただ、あまりにも「パーパスが大事だ」とか「キャリアオーナーシップを重視する」などと聞くと、「会社はもう面倒見られませんので、社員の皆さんはどうぞご勝手に」と聞こえなくもない。

 ここで大事なのは、その順番である。自律した個人のマインドがあってこそリスキリング施策の効果は大きくなるのだ。SOMPOグループでは、パーパスを第一義に置きながらも、あわせてリスキリングのために提供するメニューを充実させることにも取り組んでいる。その中でも特徴的なのが企業内大学だ。

 企業内大学とは、いわゆる一般的な大学とは異なり、企業が人材育成などのために設立したもの。KDDIやダイキン、Zホールディングスなども企業内大学をリスキリングに活用している。SOMPOグループでは、外部のリスキリング支援パッケージを用意することに加えて、20年からオンライン企業内大学「損保ジャパン大学」に取り組んできた。「いつでも」「誰でも」「どこからでも」をコンセプトとし、損保ジャパンの社員は業務時間中でも学ぶことができる。ビジネスに関する汎用的なプログラムを取り揃えているのに加え、マーケティング学部や地域共創学部など10個の専門的なゼミを開講している。

 「10個のゼミを設定している理由は、経営側が重要視している分野を知ってもらうためです。この分野でプロフェッショナルな知識を身に付け実務も積んだ社員を求めていると、しっかりメッセージとして出している。汎用的なメニューを揃えるだけでは、企業側の戦略を表現できません。自前のプログラムを作る意義は大きいです」(前出・原氏)

 現在はグループの主要事業会社である損保ジャパンの社員のみを対象としているが、評判は良く利用率も高いため、グループ全体で利用できるように進めているという。

ちょっと事情が違うのがデジタル分野のリスキリング

 確かに、企業側が一律でリスキルメニューをやらせるよりも、社員それぞれの意欲と掛け合わせていく方が効果は大きいというのは納得できる。しかし、冒頭でも触れたように、現在、大手企業を中心に打ち出されるリスキリング施策には、「デジタル」「DX」「AI」といったキーワードと関連していることが多く、しかもその対象をグループ全社員など大規模に設定しているケースが目立つ。SOMPOグループも国内グループ全従業員6万人を対象にDX人材育成研修を実施することで、従業員のデジタルスキル習得を目指すと発表している。一見すると一律でやらせているように見えるが、ここには大きな違いがある。

 「今やビジネスをアップグレードするにしても、新規に創出するにしても、デジタルの基本的な知見抜きには考えられません。もはや読み書き算盤です。ですから、キャリアの見通しを良くして自律を後押しする以前の話で、デジタル分野の基礎知識は全社員の土台として企業が教えるしかないんです」(前出・原氏)

 基本的なITスキルの習熟度を測る指標として「ITパスポート」という資格がある。この資格の取得を推奨する企業も増えてきた。化粧品会社のファンケルもその一つだ。同社は20年から、ITに関する基本的な知識を底上げすることを目的として、ITパスポート試験を受験する従業員への資格取得助成を行ってきた。支援内容は、受験料と市販のテキストを配布するというもの。ファンケルがユニークなのは、幹部社員からITパスポート試験を社員教育に使いたいという話を聞いた島田和幸社長が、率先垂範で「それならDXを推進する自分がまず取ってみよう」と思い立ったことだ。島田社長は約3カ月間試験勉強し、一発で合格したという。ITパスポートは基本的な資格試験だとは言われるが、それでもデジタル分野の専門的な言葉もあり、1955年生まれの島田社長にとって簡単な勉強ではなかったはず。ファンケルでは島田社長の受験をきっかけに、社内でITパスポート試験を受検する機運が高まり、年々合格者が増え続けている。取得推奨開始から3年がたち、取得者は毎年約100人単位で増えてきているという。(全社員保有率:約30%。役員保有率:約85%。2023年3月末時点)

 自社のリスキリングに悩む経営者は少なくないはず。本特集でもさまざまな動きを取り上げているが、「先ず隗より始めよ」が意外な近道なのかもしれない。

以下、囲みインタビュー

リスキリング特集 原伸一 SOMPOホールディングス
原 伸一 SOMPOホールディングス グループCHRO執行役専務

リスキリングブームは本格的なジョブ型社会の幕開けか

―― 社員のリスキリングを行うにあたって「パーパス」を重視した理由はなぜですか。
原 大前提として、経営戦略と既存の人材が持つスキルのギャップに危機感を覚えていました。SOMPOグループは損害保険が祖業であり、規制業種だったこともあって社員の気質としては真面目で実直です。しかしこれだけ変化の激しい時代ですから、新たな事業分野に挑戦することや既存事業のアップグレードは待ったなし。そう考えた時に、イノベーションを起こす組織になるためには、社員それぞれの志を最大限に発揮してもらうことが近道だと考えました。そこで、MYパーパスの取り組みを強化しています。
―― 経営戦略と人材の質や量のギャップを埋めるために、これから企業はどんな変化が必要になると考えていますか。
原 大事な要素は3つあります。まず、優秀な人材を引き付けるためには、ジョブに値段を付けることです。昇進や人材育成に一定の勤続年数や職務のローテーションを前提とするメンバーシップ型的な仕組みでは、労働市場で選ばれる企業になるのは難しい。ですから、ジョブ型が流行っているから取り入れるということではなく、ギャップを埋めるためにはそうならざるを得ない時代になっていくのだと思います。
 次に、採用についても新卒一括採用にこだわり続けているとギャップは埋められないのではないでしょうか。そして3つ目がリスキリングです。社員が成長を望む気持ちに応える仕組みを持っていないと外部の人材に選ばれないですし、内部の人材もどんどん外に出ていきます。そのために、ポストに関する情報を透明化することと、リスキリングメニューを充実させることの両方が必要です。
―― キャリアの自律を強調すると離職していく人が増えませんか。
原 当グループの場合、今のところ急激に離職率が上るような動きは出ていません。ただ、社会全体で自分のキャリアを主体的に考える人は増えていくと思いますので、そうなれば転職はより一般化していく。労働市場で選ばれる存在になるためにも、リスキリング施策が充実しているなどの理由で個人のパーパスを実現できる会社というのは大きな魅力になると考えています。また、社内でキャリアを積む場合でも、ポストに積極的に手を挙げる人は増えるでしょう。
 労働市場で選ばれポストを希望する人が増える状況になれば、今度は会社側がその人たちの中から経営戦略の実行に必要な人材を選ぶことができます。こうして選び選ばれるようになっていくのがこれからの企業と個人の関係だと考えています。