日本発の腕時計として、世界中で大ヒットした「G-SHOCK(Gショック)」が発売されたのは1983年。つまり今年は40周年の記念すべき年に当たる。このGショックに開発段階から携わっていた増田裕一氏が4月、カシオ計算機社長に就任した。初の樫尾家以外、しかも前社長より12歳年上という異色ずくめの新社長はカシオをどう変えようとしているのか。聞き手=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2023年11月号より)
増田裕一 カシオ計算機社長CEOのプロフィール
時計事業の経験を他の事業にも広める
―― 社長に就任して半年。就任前は時計事業の責任者でしたが、環境はずいぶんと変わりましたか。
増田 就任前までは、事業を通して会社を見ていたものが、今ではもっと客観的に会社を見るようになりました。というのも、前3月期は減益決算だったため、アナリストや投資家から厳しい意見もいただいています。時計事業の成績だけを考えていた時とはやはり違いますね。
―― 今回の社長交代では2つの驚きがありました。ひとつは年齢です。増田さんは現在69歳。前社長の樫尾和宏会長より12歳年上です。もう一つは初の樫尾家以外からの社長就任です。社長を引き受けるのに迷いはありませんでしたか。
増田 それはありました。現在の事業環境は非常に厳しいですから、果たして自分に立て直すことができるかどうかと。今まで一緒にやってきた社員の顔が浮かんできて、彼らのためにも引き受けようと決めました。年齢は確かに一回り上ですが、それは自分がどうこう言うことではなく、むしろこれまで時計事業の責任者として業績を伸ばしてきたことを評価されたのだと受け止めることにしました。
―― 3月の社長交代会見の時も、これまで時計事業でやってきたことを全社的に横展開すると語っていました。
増田 カシオの時計事業には、「G-SHOCK(Gショック)」という絶対的なブランドがあります。カシオは時計以外にも楽器や電子辞書など数多くの事業を行っています。それなりに売れていて認知もされていると思いますが、でも本当に差別化されたブランドとして浸透しているかというと、残念ながらそうなってはいません。
Gショックのブランドも一朝一夕に確立できたわけではありません。Gショックと言えば頑丈、タフネスですが、これをベースにしたユニークなデザインによって、若い人を中心に、自分を表現できるファッションアイテムとして取り入れられるようになりました。そして、タフネスウオッチが時計市場で新しい価値の軸に発展し、ブランドとして確立されていったのです。
これを他の事業にも広げていきます。私は価値軸という言葉を使っていますが、お客さまにとって本当に価値あるオンリーワン商品を開発し、そこに技術とマーケティング、そして流通も含めて集中的に投資する。そうやって事業の大きな柱に育てていく。そのために重要になるのが心の満足です。
就任当日に社員に送ったメッセージ
―― 性能や機能ではなくて、心ですか。
増田 カシオの経営理念は「創造 貢献」です。これまでにない製品を創造し社会に貢献するという意味です。今後とも大切にしていきますが、この理念がつくられたのは1970年代です。半導体がどんどん進化していった時代で、その機能を生かした製品をつくればそれだけで新しい需要を生むことができ、人々の生活を豊かにしていきました。
でもこれだけデジタル化が進んでくると、単純に機能や性能で差別化することは難しい。そこで心の満足が重要になってきます。Gショックのファッション性もその一つです。持つだけで自分が強くなった、あるいは元気になったように思えます。楽器なら、少し前までは壁際において演奏していた。でも最近ではリビングの真ん中に置いて、家族や仲間でわいわいやりながら楽しむ人が増えています。そのためには、リビングに調和したデザインも必要です。こうやって使う人たちの心を満たしていく。そこに私の経験が生かせたらと思います。
―― 樫尾家でないことはどう考えていますか。
増田 カシオは樫尾4兄弟(長男・忠雄、次男・俊雄、三男・和雄、四男・幸雄、和宏会長は和雄氏の長男)がつくった会社です。ですから樫尾家に対するリスペクトは社員全員が持っています。それがいい方向に働けばいいのですが、忖度といった負の側面もあります。さらには社員が受け身になりがちです。4人のファウンダーは、カリスマ性が強く、彼らが決めたことを受けて社員は仕事をしてきました。その雰囲気がまだ残っています。それを払しょくして、「カシオは自分たちの会社だ」と考えるようにならなければいけません。
そのために、4月1日の就任初日、社員に向けて4つの言葉を送りました。まず、「自由闊達にやってほしい」。次に「本質を熟知してほしい」、3番目が「論理思考でいこう」。そして最後が「忖度無用」です。社員が自立して、受け身ではなく自ら仕事をつくっていく。それを根付かせることも私の仕事です。
―― 増田さんは今年誕生40周年を迎えたGショックには開発段階から関わっています。Gショックの生みの親と言われる伊部菊雄さんにトイレで誘われたそうですね。
増田 大学を卒業しカシオに入社してからは技術本部で、商品の企画・開発から発売までのスケジューリングを担当していました。伊部さんには最初、トイレで「今何やってるんだ」と聞かれ、その後もう一度会った時に「一緒にやろう」と誘われました。伊部さんは壊れない時計をつくろうと、実験を繰り返していた。でもどうやって商品に仕上げるかがはっきりしていなくて、それで私に声をかけたのだと思います。
―― 売れると思っていましたか。
増田 Gショックは自分たちがつくりたい、持ちたいと思って開発した時計です。落としても壊れない、防水性もある、どんな場所でも自分の相棒として機能してくれる。これを分かってくれる人は一定数いるだろうとは思っていました。
ただ、日本ではなかなか芽が出ず、最初に売れたのはアメリカです。タフなうえに、価格は39ドル(当時の為替レートは1ドル240円)だからコストパフォーマンスもいい。そのタフさを証明するため、アイスホッケーのパックの代わりにGショックをスティックで打っても壊れないという映像をつくりました。それが誇大広告ではないかとニュース番組で取り上げられ、検証したところ、本当に壊れなかった。ここから大々的にプロモーションを行った結果、アメリカ市場だけで年間30万台売れました。
売り上げ半減を救った「超クロノグラフ」
―― そのブームが逆輸入されて日本でも1990年代に大ヒットを記録します。
増田 ちょうどアメリカではストリートファッションが流行り始めました。あのファッションとGショックがうまく融合した。それが「アメリカの流行」といった形で雑誌に紹介され、日本の若者が「あの時計はどこに売っている」とGショックを探し始めました。これで火がついて、一気に売れ始めました。ピークをつけたのが97年で、時計事業の売り上げは1500億円。ブームの前は700億円ぐらいですから、事業規模が2倍以上になりました。ただこれは過剰なヒット、その後飽きられたこともあって、3年後には600億円まで落ちました。
―― ブーム前より落ちています。
増田 どん底まで落ちてから数年後、売り上げは700億円の段階で、私は時計統括部長に就任します。時計事業の実質的な責任者です。その時、当時の和雄社長から「1千億円を目指せ」と言われました。
―― 一度落ちたものを復活させるのは、ゼロから立ち上げるよりも難しそうです。どうやったのですか。
増田 当時のGショックはデジタル多機能時計でした。時計だけでなく、心拍計やGPSなど、今のスマートウォッチの持つ機能の大半を網羅していました。ただし、まだスマートフォンも普及していないので、そんなに利便性は高くなかった。その時代にデジタル多機能を謳っても、売り上げは500億~700億円ぐらいです。しかも新たな機能のネタもあまり残っていない。
そこで発想を変えました。Gショックのヒットもあり、デジタル時計は一般化しましたが、それでも市場の9割はアナログ時計です。だとしたら、Gショックのラインアップの中に針のあるデジタルアナログ時計も加えよう。それもタフさや電波時計などの機能はそのままに、さらには針にインジゲーターの役割を持たせることで、新たなる価値が提供できると考えたのです。クロノグラフを超える超クロノグラフです。
これがうまくいきました。その後、Gショックの売り上げは2010年頃から上昇に転じ、売り上げも1700億円にまで伸びました。この時の選択肢としては、多機能をさらに追求するという方向もあったのですが、そちらの道を進んでいたら、恐らくスマートウォッチとの、レッドオーシャンでの戦いを余儀なくされていたと思います。
―― その経験を、今度は社長としてどう生かせるかですね。
増田 そうです。パンデミックもあり、ここ数年、カシオの業績は伸び悩んでいます。でも時計事業でやってきたことを他の事業に広げることができれば、まだまだ成長の余地はあるはずです。