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創業90周年の節目へ「社長就任は宿命だと感じる」 塚越英行 昭和産業

塚越英行 昭和産業

1936年2月に設立された昭和産業。国内食品メーカーで唯一、小麦、大豆、菜種、トウモロコシの4つの穀物を扱い、製粉・製油・糖質・飼料などの幅広い事業領域を持つ。そんな昭和産業は今年4月、塚越英行氏が社長に就任した。創業90年の節目に向けて、大胆な組織変革に挑む。聞き手=和田一樹 Photo =小野さやか(雑誌『経済界』2023年11月号より)

塚越英行 昭和産業社長のプロフィール

塚越英行 昭和産業
塚越英行 昭和産業社長
つかごし・ひでゆき 1965年12月、群馬県生まれ。57歳。慶應義塾大学理工学部卒。88年4月、協和銀行(現りそな銀行)入行。92年2月に昭和産業入社。2013年6月に福岡支店長、15年4月に経営企画部長、18年4月に執行役員、21年4月に常務執行役員、同年6月から取締役常務執行役員。23年4月から現職。

社長も含めて全てのポジションは役割である

―― 今年の4月、昭和産業の社長に就任されました。いつか社長にという思いはあったのでしょうか。

塚越 何としても社長になりたいという強い思いはなかったです。社長も含めて全てのポジションは役割だと思っていますので、私が適しているかは別にして、一番適している人がやればいいという考え方です。

 ただ、当社は2017年に、創業90周年を迎える25年度までの「長期ビジョン」、そして、その実現に向けて3回の中期経営計画を進めていく計画を策定したのですが、私は当時、経営企画部長として策定に携わっていました。この4月からスタートした「中期経営計画23―25」は、その最終ステージとなる3回目の中計となります。これを社長として推進していくことになり、宿命のようなものを感じています。

―― ご経歴を振り返ってみると、塚越さんは1965年生まれの57歳。世代的に今ほど転職が一般的ではなかったかと思いますが、新卒で協和銀行(現りそな銀行)に入行したのち、昭和産業に転職しています。どうして金融の道を選んだのですか。

塚越 私は84年に慶應義塾大学理工学部に入学しました。それまで理系の学生は当たり前のようにメーカーに就職する流れでしたので、入学時点では私もメーカーを考えていました。

 ただ、これは私の記憶ですが、当時は金融分野で数学の知識を必要とする商品が増えてきたタイミングだったんです。銀行だけではなく、生保、損保、証券など、さまざまな金融機関が理系の人材を採用し始めていました。私の学部でも、1年先輩の中には金融業界へ進む方が増えていて、私が就職活動を始める頃には、金融業界から積極的に声をかけられるようになっていました。

 それでメーカー以外の選択肢を知って、話を聞いてみようと思ったのがきっかけです。話を聞いているうちに、銀行は経済を動かすための重要な役割がありますし、新入社員でもいろいろな会社のトップの方にお会いして話を聞ける機会もある。非常に魅力的だと感じるようになり銀行の道を選びました。

―― ところが入行後は3年で辞めています。どういった心境の変化だったのでしょうか。

塚越 たしかに銀行は経済を動かすために不可欠ではありますが、あくまで潤滑油の機能です。やはりモノを生産している企業への思いが強くなっていきました。ただ、石の上にも3年と思っていましたので、3年間は絶対に続けようと決めていました。そして、いろいろなご縁もあって昭和産業へ転職しました。

相手の立場で考えれば結局はうまくいくと実感

―― 転職後は糖質事業を中心に営業畑を長く歩んでこられました。印象深い仕事は何でしょうか。

塚越 どれかひとつというのは難しいですが、東日本大震災の時のことはよく覚えています。2011年、私は糖質事業で次長を務めていました。当時の糖質事業は、グループ会社も含めて鹿島と鈴鹿に工場を持っていました。主力である鹿島工場は、直接的な津波の被害は逃れることができましたが、停電や工場の製造ラインの被害など、結果的に1カ月以上も操業停止を強いられました。

 震災の当日は電話もつながりませんでしたし、なかなか情報がこない。そんな中でも翌日以降のオーダーは入ってきていて、お客さまからの問い合わせも殺到していました。私たち営業サイドも判断材料が足りず混乱していました。しかし、当時の私の上司が購買部長経験者だったこともあり、購買の立場として一番困るのは、製品を出荷できるのかできないのかはっきりしない状態で保留されることだということで、思い切って当社以外のメーカーから調達できるお客さまのオーダーはお断りしようという判断をしました。

―― 営業の立場としては何とか待ってもらいたいというのが本音のはずで、苦渋の決断ですね。

塚越 そうですね。ギリギリまで粘って何とかできないか模索は続けました。ただ、早い段階で当社が無理だと意思表示すれば、お客さまは他社からの調達に切り替えられる。その代わり、当社からしか調達していないお客さまに対してはお断りをするわけにはいきませんでしたので、鈴鹿の工場から運んだり他のメーカーから購入したりして何とかつなぎました。結果的に、当社の工場が停止したことで連鎖的にお客さまの生産がストップするという事態は回避できました。

―― 緊急時とはいえ、積極的に注文を断ることに不安はありませんでしたか。

塚越 不安がなかったわけではないです。ただ、その判断が思わぬ結果につながりました。震災から1カ月ほどして工場が稼働できるようになると、今度は大量の製品が毎日生産されタンクにたまっていきました。そのまま売り先がなければあっという間に満杯になる。ですから今度は売り先を探さなければなりません。震災直後にお断りせざるを得なかったお客さまに、再開したので今度は買ってくれませんかという話をするのは複雑な心境でした。

 ところがお客さまは「再開できてよかった。あの時はっきりと無理だと言ってくれて助かった。今度は私たちが支援するよ」と言って、優先的に注文をしてくださったのです。おかげで何とか大きな問題もなく再稼動ができました。

 これは貴重な経験でした。自分本位ではなく、相手の立場で考えることが大事であることを、身をもって感じることができました。

営業体制を刷新し事業シナジーを最大化する

―― 17年度以降、創立90周年を迎える25年度に向けた長期ビジョンに取り組んでいる最中で、塚越さんはその総仕上げを担います。数字の面では25年度に経常利益130億円を目標に掲げていますが、22年度は65億円でしたので、倍増です。手応えはいかがですか。

塚越 そもそも、目先の積み上げではなく、あえて長期的にありたい姿を整理して、そこからバックキャストで事業を見直そうという意図で長期ビジョンに取り組んできました。ここ数年、コロナや原料穀物相場の高騰、ロシアのウクライナ侵攻など厳しい経営環境ではありましたが、投資も着実に行っており総じて順調に来ていると感じます。

 例えばグループ会社も増加しています。これはほんの一例ですが、糖質事業ではサンエイ糖化の子会社化で供給力が高まりましたし、辻製油との業務提携によって糖質事業の過程で出るコーンジャームを製油事業で活用できる体制が整いました。このようにグループ会社の連携による事業拡大と収益力強化の準備が進んだと感じます。

 また、昭和産業の大きな特長は、小麦、大豆、菜種、トウモロコシを全て1社で取り扱っていることです。これは他の国内食品メーカーにはない特長です。この4月より、営業体制の面でも事業シナジーを存分に発揮できるように組織改編を行いました。当社は創業以来、製粉、製油、糖質、飼料など、事業部制の縦割り組織でした。もちろん、調達や商品開発の面ではスケールやシナジーを生かした取り組みは行ってきましたが、営業の面では事業ごとにバラバラの戦い方をしていたのです。今回の改編で事業ごとの壁を取り払い、顧客ごとに各事業の窓口を一本化することで最適な提案ができる体制を作りました。

 国内のマーケットはシュリンクしていきますので、海外での展開も含めて、基盤事業の強化と事業領域の拡大を進められれば、25年度の経常利益130億円という数字は達成可能だと考えています。

―― 90周年の先には100周年も見えてきます。これまで昭和産業が続いてきた価値の源泉は何でしょうか。

塚越 昭和産業は1936年に創業者・伊藤英夫により設立された会社で、当初は肥料の製造・販売をしていました。当時の日本は深刻な食糧不足に加え、凶作が続いたことで農村はひどく疲弊していました。肥料を買っていただいていた農家が困っており、助けたいという思いから、農家から小麦を買って小麦粉にして売ったそうです。その時の旗印は「農産報国」。創業者の伊藤英夫は農家を支えて日本を豊かにしたいという思いを持っていました。昭和産業とは、そういった思いが脈々と引き継がれてきた会社です。

 組織や事業の姿は、激変する外部環境に合わせて柔軟に変化させていきますが、つないできた思いや、それを支えてきた従業員たちの実直さなどは大きく変えることなく、「穀物ソリューション・カンパニー」として100周年へ向け、これからも成長し続けながら歩んでいきたいと思います。