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自立心に駆られ続けた半生 己の価値観に従ってたどり着いた今 朝倉祐介 アニマルスピリッツ

朝倉祐介 アニマルスピリッツ

2013年から1年間、ミクシィで社長CEOを務め、現在はベンチャー・スタートアップ企業の支援に取り組んでいる朝倉祐介氏。競馬学校、牧場勤務、東京大学という「異色の経歴」の持ち主だ。そう言われることに今「何とも思ってない。関西出身なのでむしろおいしいくらい」と語る朝倉氏に、今の自分を形作った過去について話してもらった。文=小林千華 Photo=山内信也(雑誌『経済界』2024年3月号「夢やぶれて経営者」特集より)

朝倉祐介 アニマルスピリッツ代表パートナーのプロフィール

朝倉祐介 アニマルスピリッツ
朝倉祐介 アニマルスピリッツ代表パートナー
あさくら・ゆうすけ 1982年、兵庫県生まれ。中学卒業後、競馬騎手養成学校、競走馬の育成業務を経て2003年、東京大学法学部に入学。07年に卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。その後同社を退職し、自身が学生時代に創業したネイキッドテクノロジーに復帰し、代表に就任。11年、同社のミクシィへの売却に伴い、ミクシィに入社。13年、ミクシィ社長兼CEOに就任し、14年退任。スタンフォード大学客員研究員等を経てアニマルスピリッツを創業、代表に就任(現任)。

学校に行く意味が見いだせず、不登校だった子ども時代

 「ノーアウト満塁で投入されたピッチャーとして、確実にやることはやった」

 2014年6月、記者会見の場でそう語ってミクシィ社長の座を降りたのは、当時31歳の朝倉祐介氏だ。13年6月の就任時にはSNS事業の広告収入が伸び悩んでいた同社の業績を、1年でV字回復させた。

 そこから約10年が過ぎた今、朝倉氏は当時をこう振り返る。

 「自分は創業者でもなければカリスマ経営者でもない。そんな僕が『これから(会社を)こうしますよ』と言ったって、絶対に誰も動かないんですよ。その中でどうやったら人が動かざるを得ない環境をつくれるのかをめちゃめちゃ考えた。それによって出せた結果だと思っています」

 ミクシィを上昇気流に乗せたマネジメント力の源泉は、経営者になる前の経歴にあった。

 朝倉氏の生まれは兵庫県西宮市。阪神競馬場の近くで育ち、「他の子どもたちがイチロー選手に憧れたように、武豊騎手に憧れていた」。そのまま競馬騎手を目指すようになった朝倉氏だが、中学生までは学校で勉強することの意味が見いだせず、ほぼ不登校児だったという。朝は近所の図書館で本を読み、昼休みになると中学校へ向かい、校庭でサッカーをして帰る、というのが日常だった。

 「とにかく義務教育に合わなかったんでしょうね。例えばテストだって、規定時間より早く終わったら外に遊びに行かせてくれればいいのに、意味もなく何十分も席に座っていなきゃいけない。一事が万事そうだから苦痛でした」

 中学2年からは乗馬教室にも通い、卒業後は騎手を目指そうと考えるが、日本の競馬学校では色別力の基準を満たせなかった。しかし自力で調べた結果、オーストラリアなら自分にも入学できそうな競馬学校があることを知る。両親には「せめて高校を卒業してからにしなさい」と留学を猛反対されたが、朝倉氏はこう説得した。

 「まず、競馬の騎手という極めて特殊な技能を身に付けなければならない職業を目指すなら、若いうちの方が吸収が早い。それに、オーストラリアという海外の文化になじむことを考えても、少しでも早い方がいい。そして、競馬騎手になれない可能性だって大いにあるわけです。でも中学卒業後すぐ挑戦してダメだった場合と高校卒業後に挑戦してダメだった場合を比べれば、前者の方がやり直しが効きますよね」

 中学生らしからぬ弁舌で両親を説き伏せた朝倉氏。当時の思いを聞いた。

 「せめて高校を卒業してからという勧めは極めて常識的ですけど、当時の僕には高校に行く意味が見いだせなかったんです。高校に行くのは、恐らく良い大学に入るためだろう。良い大学に入るのは、良い企業に就職するためだろう。良い企業に就職するのは、良い給料をもらってそれなりの社会的地位を得るためだろう。社会的地位を得るのは、それがある種の人生のゴールとして評価されるからだろうと。でもそれって、完全に他人の価値観でいう幸せの尺度じゃないですか。自分自身の価値観には全く関係ないし、全く意味のないこと。それより僕は馬が好きだったし、自分自身の好きなことを突き詰めたいと思ったんです」

夢を追い始めた矢先、訪れた2度の挫折

 両親にも気持ちが通じ、中学卒業後無事にオーストラリアでの留学生活が始まった。当時は毎朝3時半に目覚め、4時には自転車で調教施設へ向かう。ここでは厩舎の清掃や馬の調教などの仕事を無料で請け負うことで、実際に馬に乗る機会を得ていた。学校のプログラム以外でも馬に乗る時間を増やすため、地元の調教師に自力で交渉してチャンスを得たのだ。そして9時には自転車で競馬学校へ。午前中は座学で、馬の身体の仕組みや生態を学ぶ。当然、教科書も講義も全て英語だ。「intestines(内臓)」、「urine(尿)」など、中学英語では習わない単語を紙の辞書で引きながら勉強した。その後実技の授業があり、最後には馬の世話や厩舎の清掃。授業の後はジムでトレーニング。疲れ切って20時には寝てしまう。

 心身共にハードな生活が1年続いた頃、転機が訪れた。身長がぐっと伸び、体重管理に支障が出始めたのだ。馬に乗ってレースをする競馬騎手には、過酷な体重制限が求められる。ちなみに日本中央競馬会競馬学校の騎手過程では、卒業時の上限体重を49・0キログラムと定めている(令和6年度募集要項より)。朝倉氏の在籍していた競馬学校でも、生徒たちは日々厳しい体重管理に取り組んでいた。しかし、中学校を卒業したばかりの15~16歳といえば、まさに成長期真っただ中。身長が伸びていく中での体重制限には限界があった。体脂肪率が5%近くにまで落ちた時には常に風邪を引いているような不調が続き、倒れてしまったこともあるという。

 結局、1年目のカリキュラム終了を機に競馬騎手の夢を諦め、帰国することになった。だが、留学前に両親を説得した言葉の通り、あらかじめ夢が叶わない可能性についても考えていたため、すぐに気持ちを切り替えて動き出した。何らかの形で馬に携わる仕事を続けたいと思い、牧場の求人を探して職安通いをした時期もある。

 「でも当時16歳の子どもだし、牧場の求人なんてそうそうない。どうしようかなと考えていた時に、競馬学校時代に知り合った北海道の牧場の息子が、お父さんを通じて競走馬の育成牧場を紹介してくれて」

 こうして今度は北海道で、競走馬の調教師を目指しながら働くことになった朝倉氏。しかしその矢先、次の試練が訪れる。バイクに乗っていて、自動車と事故を起こしてしまうのだ。左脚の大腿骨と下腿骨を粉砕骨折する大けがを負い、3カ月の入院と約1年のリハビリを余儀なくされる。当然肉体労働ができる状態ではなく、牧場で働き続けることもできなくなった。

 「脚はとんでもなく痛いし、入院中は毎日熱が40度出て。キャリアが絶たれたことよりも、とにかく体がつらかったですね。リハビリも受けたんですが、手術でボルトを入れて曲がらなくなった膝を、機械で無理やりバキバキと曲げるんです。もう想像を絶する痛さ。いっそ殺してくれって思うくらいでした。体はこんな状態だし、仕事もしていないし中卒だし、今で言うニートですよね。手術当日は僕の17歳の誕生日だったんですが、片や中学時代の同級生たちは高校2年生で青春を謳歌している。自分は何をしているんだろう、これからどうなるんだろうと思いました」

受験勉強はこれ以上なく「フェア」だと感じた

朝倉祐介 アニマルスピリッツ(提供画像)
競馬学校在学中の朝倉氏(提供画像)

 この時点で競馬騎手、調教師という2つの夢を諦めざるを得なくなった朝倉氏。当時馬のいない生活なんて考えられなかったが、とにかく一度腹を決めて方針転換するしかない。「こうなったら、どうなるか分からないけどとりあえず大学に行こう」と考え、3年で大学入学資格を取得できる高等専修学校への入学を決めた。周囲のほとんどの生徒は難関大学を目指そうと意気込んでいる様子ではなく、朝倉氏も「東大なんか行こうと思っていたわけじゃない」と語る。

 ただ、徐々に体が調子を取り戻し、勉強と並行してアルバイトができるまでに回復してくると、日々の過ごし方に疑問を抱くようになった。競馬騎手を目指し、過酷な訓練や勉強に耐えていた頃と比べれば、当時の生活は「とにかく生ぬるい、やることがない」。体力と時間を持て余していた2年生の春、たまたま手にした塾のチラシを見て春期講習へ参加したことが、受験勉強に本腰を入れるきっかけになった。

 「当たり前だけど、勉強ってやればやるほど結果が出るんですよね。勉強して試しに模試を受けてみると良い成績がとれる。うれしいからもっと勉強したら、もっと成績が上がる。競馬騎手の世界は、自分がどれだけ頑張っても、体重がオーバーすれば夢を絶たれる世界でした。それに対して勉強って、努力すればちゃんと結果が出る。こんなフェアな仕組みがあるんだなと思いました。だから、勉強しよう! と頑張っていたというより、どんどん成績が上がるのが楽しくてゲーム感覚でやっていました」

 そうして勉強を続け、気付けば東大を目指せるまでに成績が伸びていたと語る朝倉氏。晴れて20歳で文科一類に合格する。法学部に進級し、課外活動にも積極的に取り組んで卒業後の進路を模索した。

 「とにかく自立した仕事がしたいと思っていました。競馬騎手を目指した理由のひとつもそれだったんです。自分に技量さえあればどこでも使ってもらえる仕事だから。そういう仕事となると何だろうと考えていて、起業に興味を持ちました」

 当時はちょうど「プロ野球再編問題」がメディアを賑わせていた時期。堀江貴文氏や三木谷浩史氏といった若手起業家の動向に、大きな注目が集まっていた。彼らの生き方の影響を受け、朝倉氏も在学中に複数のベンチャー企業の創業に携わった。その内の1社が、後にミクシィに買収されることになるネイキッドテクノロジーだ。

 大学卒業後、「モラトリアムの延長だと思って」マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社した朝倉氏。約3年で退職し、ネイキッドテクノロジーへ復帰。その後、ミクシィによる同社の買収を機にミクシィへ入社し、13年に社長CEOに就任する。大学に入学してからわずか10年後のことだった。

 ここまでの半生を通して朝倉氏を突き動かしてきたのは、「自立心」だ。自身の持つ技量がものを言う世界に身を置きたいという気持ちは、競馬騎手を目指した当初からブレていない。その気持ちの根源はどこにあるのか聞いた。

 「ひとつは、両親が小さいながらも会社を経営していたことですかね。仕事のことは特に聞かされませんでしたが、『人は自立して生きていくものだ』ということは言葉の端々に感じたので、少なからず影響を受けているかもしれません。あと、幼少期から本はめちゃくちゃ読んでいて、それが『みんなの言うことって本当に正しいんだっけ』と考えるきっかけになりました」

馬と接した経験が人のマネジメントに生きた

 競馬騎手、調教師を目指していた頃の経験が、経営に生きた面はあるかどうか聞いた。最も役立ったのはマネジメントに向かう考え方だという。

 馬はとても繊細な生き物で、近くでスズメが飛び立っただけで驚いて立ち上がったり、ちょっとした水たまりさえも怖がって渡れなかったりすることがある。それで競馬学校では、単に自分の技量を磨くだけでなく、どうすれば自分の乗る馬が苦手なことを克服できるようになるのか、常に考える必要があった。

 「例えば水たまりの場合、まずは自分が馬を降りて水たまりに入って見せたり、少し足下に水をかけてあげたり、そんなことを何日も繰り返すとだんだん慣れてきて、飛び越えられるようになる。企業マネジメントも同じで、時にはその人が好まないことをするよう仕向けなければならないこともあります。そうせざるを得ない環境をどうやってつくるかをめちゃめちゃ考えました。例えばミクシィの社長就任時は、社内でSNS以外の新規事業を創出する機運がなかなか高まらなかった。そこで、既存業務の一部を外部にアウトソーシングすることで業務量を減らし、社員が新規事業に時間をかけられる環境をつくりました。これがゲーム開発のきっかけになり、業績の回復につながりました。当時は人間が馬に見えてましたね(笑)。さすがに今はないけど」

 ミクシィを退職後は、ベンチャー・スタートアップ支援に注力している朝倉氏。だが、馬に関わる活動は今も続けている。

 「北海道で友人と一緒に、ポロができる牧場の運営をしたり、それとは別に馬術用の馬も持っていたりします。競馬以外の馬術を学んだことがなかったので、この年になって試行錯誤しています。あと、競走馬の馬主の登録申請も。馬はライフワークなので、末永く付き合っていきたいです」