五感の一つである嗅覚。仮に嗅覚がなくなれば、すべての食事は非常に味気ないものになる。それほどまでに味覚と嗅覚は密接な関係にある。そのためほとんどの加工食品には香料が使われている。しかしその用途はまだまだ広がると、塩野太一・塩野香料社長は断言する。文=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2024年8月号巻頭特集「歴史が動いた! 企業の素材発掘記」より)
塩野太一 塩野香料社長のプロフィール
3千以上の原料で特定の香りを調合
液体の入った茶色の小瓶。蓋を開けて匂いを嗅いだ瞬間、誰もが「ナポリタンだ」と口を揃える。
人間の五感とは、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚のこと。しかし味覚は嗅覚によって大きく左右される。例えば成分100%のオレンジジュースは殺菌のために必ず加熱されており、この工程でオレンジの香りはほとんど失われてしまう。「そのためそのまま飲んではジャガイモのような味しかしません。そこへオレンジの香料を加えることで、おいしいオレンジジュースになる」と語るのは塩野香料社長の塩野太一氏だ。
塩野香料は1808年創業の老舗香料メーカー。医薬品大手の塩野義製薬はここから派生した。
実際、香料は食品のさまざまなシーンで使われている。塩野香料も大手即席メーカーのカップ麺などに香料を提供。冒頭に紹介したナポリタンの香りを再現したものはレトルト食品や冷凍食品に使われている。
しかも今後はさらに用途が広がっていく。
「今後は地球環境の問題もあり、植物由来の代用肉や、昆虫食が増えていくことが予想されています。これをおいしく食べるには匂いが重要になってくる。そこでわれわれの香料を使うことで、手に取りやすく満足感のある食事となります」
数年前から、昆虫食が一種のブームとなり、スナックやアイスなどに加工されて販売されている。しかし、現段階ではそれほどおいしいものではない。物珍しさから手に取ることはあっても、日常的に食べたいという人はほとんどいない。これでは代用食にはならない。この問題を香料によって解決することができれば、将来のタンパク源としての可能性が高まることになる。
香料の原料は、天然香料と合成香料の2種類ある。天然香料は動植物から抽出されたもの。植物由来のものが大半だが、最近では貝や甲殻類の抽出物も使われている。一方、合成香料は石油由来のものが多い。天然、合成を合わせると、その数は3千を超える。香料メーカーでは、調香師が膨大な数の原料を組み合わせ、目的の香りを生み出していく。
もちろん、香料の使い道は食品だけではない。香水は当然として、石鹸をはじめとするトイレタリーやサニタリー製品には必ず使われている。というよりは、日用品の中で香料無添加の製品を探すほうが難しいかもしれない。
それだけではない。メタバースなどデジタル空間で重要なのは、没入感だ。香りは人の記憶と結びついている。香りを嗅いだだけで、故郷の風景を思い出すこともある。あるいは逆にや未知の異世界や未来空間を表現する際も、香りが加わることで、より没入感が強まる。
実際、都内にある未来型体験アミューズメント施設では、香りが重要な役割を担っており、香りによって客を非日常の世界にいざなっている。
下水汚泥の堆肥化で大幅なコストダウン
以上は、香りが人々の幸福度を増すいい例だ。
「しかし香料の使い道はそれだけではありません。マイナスをゼロに、あるいはマイナスをプラスにすることも可能です」(塩野社長)
これは香料により社会課題を解決できるということだ。介護現場などで香料を使うことで介護者の負担を減らしているのはほんの一例だ。
「今、下水道の汚泥を堆肥として活用しようという動きが加速しています。汚泥には作物に有効な成分が多く含まれていますが、問題はその臭いです。脱臭装置をつけた処理工場で堆肥にするという方法もありますが、10億円単位の設備投資が必要です。代わりに香料を汚泥に混ぜて悪臭を抑える方法なら、1千万~2千万円ほどで同等の効果が得られます。そこで今、下水道協会さんなどとタッグを組みながら実証実験を重ねています」(塩野社長)
獣害にも有効だ。JR東日本では鹿と列車との衝突が相次いだ地域で、ライオンの糞の成分を含む薬剤を散布するなどの対策を行っているが、香料を使うことでも同じような効果を得られる。
昨年から今年にかけて、日本全国で熊の被害が相次ぎ、多くの死傷者を出した。エサ不足もあって熊が人間の生活圏に入り込んだことが原因だが、熊の嫌う香料を使えば、熊と人間が遭遇する機会を減らすことができる。
畜産業への応用も始まった。
最近、豚熱(豚コレラ)のニュースをよく聞くようになった。1頭の感染が確認されるとその養豚場の豚すべてを殺処分しなければならない。つい先日も岩手県で1万7500頭の豚が処分されており、被害金額は膨大だ。
豚熱にはワクチンもあるが、飼育されている豚すべてに接種するのはコストがかかるし、輸出ができないというデメリットもある。
「豚熱の多くは、野生イノシシが媒介します。だからといってイノシシを捕まえてワクチンを打つのは非効率的です。そこでイノシシに経口ワクチンを投与することで、感染を防ごうという実験を行っています。経口ワクチンを米ぬかやトウモロコシを主原料とするベイト剤で包む。これまでにも同様のワクチンがありましたがイノシシの食いつきが悪かった。効果を上げるためにはイノシシの嗜好性に合ったベイト剤を作らなければなりません。そこでわれわれの香料の出番です。昨年の実証実験では、以前より食いつきがよくなり効果が確認できました」
このように、香料には人の生活を豊かにするだけでなく、さまざまな使い道がある。塩野社長に言わせれば、「香りの可能性は無限」ということになる。
塩野社長が目標としているのは宇宙への進出だ。
「スペースシップの中では空気を循環させていますが、体験者によると独特の臭いがあるらしいです。そこでわれわれの香料で、より快適に過ごせるようにする。あるいは宇宙食は調理に制約があるので、その中でよりおいしく味わえるようフレーバーを加える。このような形で宇宙空間のストレスをできるだけ軽減していきたい。宇宙産業はこれから大きく育っていく。そこにわれわれも入っていきたいと考えています」
塩野社長の夢はこれからも膨らみ続ける。