大丸松坂屋百貨店やパルコ、GINZA SIXを有するJ.フロント リテイリング。今年の3月に社長が交代し、約20歳の若返りを果たした。しかも新社長の小野圭一氏は、コア事業の百貨店で社長を経験していない。自らのキャリアを「亜流」と語る新社長は、どんなグループを作るのか。聞き手=和田一樹 Photo=山内信也(雑誌『経済界』2024年9月号より)
小野圭一 J.フロント リテイリング社長のプロフィール
お金がないなら頭を使え!原点となった販促への異動
―― 小野さんは1975年生まれで今年49歳です。社長就任が発表されてから、年齢に加え百貨店事業で社長を経験していないキャリアにも注目が集まってきました。
小野 あまりにも若い若いと言われたので、あぁ自分は若いのだなと思うようになりました。だからと言って、周りの方がぐっと年上だと感じることはないです。ただ、前任の好本(達也氏)は56年生まれです。約20歳若返りましたので、長期的な課題に取り組む時、より説得力はあるかもしれません。
また、J.フロントリテイリング(JFR)は、すでに百貨店プラスアルファのグループではないと思っています。新たなグループ像をつくり、総合力を底上げしていくことがミッションだと考えると、コア事業会社出身で「百貨店のことなら何でも分かります!」という人物が社長になるよりも、僕みたいなキャリアの方が俯瞰的に見られると感じます。
―― そもそも小野さんはどうして大丸百貨店に入社したのですか。
小野 兵庫県神戸市の出身で、父親が大丸に勤務していました。土日はよく母に連れられ大丸神戸店に遊びに行っていたので、子ども心にすごく華やかで楽しい世界だなと感じていたのです。
―― となると、本音は百貨店で社長をやりたかったのでしょうか。
小野 社長というか、大丸松坂屋の店長はやりたかったです。というのも、キャリアの原点が販促にあるからです。98年、大丸に入社して、最初は梅田店でネクタイ売場の担当になりました。ところが、2年で販促に異動することになったのです。当時、大丸梅田店は圧倒的な地域三番手。抜群に強い阪急百貨店さんがあって、食やミセス向けのファッションなど独自色で根強い人気を獲得していた阪神百貨店さんがあって、その後をわれわれが追いかけていました。お店が使える販促費はものすごく限られていて、当時の上司から「お金がないなら頭を使え」と毎日、毎日言われていました。どうやったらお金がなくてもお客さまを呼べるのか、必死に考えました。苦労もしましたけど、とても楽しい時間でした。
ですから、何かを仕掛けてお客さまを呼んで活気ある店内をつくる。そして商品が売れる。販促こそ自分の原点だと思っています。そういう意味で、最も大きな権限を持って販促の仕掛けを実践できるのは店長なので、社長よりも店長をやってみたかったのです。
―― 入社2年で販促に異動するのは、一般的なキャリアですか。
小野 いや、相当めずらしいです。若手は数年かけて販売員を経験し、その後マネージャーの補佐的なポストを経てから、ゆくゆくはマネージャーやバイヤーを選ぶのが王道でした。なので、僕は亜流です。
その後、2005年から2年間、外部のビジネススクールに通わせてもらいました。会社として3人目だったと記憶しています。そこで財務や会計の知識をひと通り修得しました。ですが、会社に戻ってからすぐに生かせる機会があまりなくて、英語と一緒で使わないと頭から消えていくわけです。それで今、ものすごく後悔しているんです。半分は冗談ですけど(笑)。
―― ビジネススクールから戻ってどんな業務を担当したのでしょうか。
小野 当時、JR大阪駅の改修工事に合わせて大丸梅田店が増床を予定しており、その計画準備室に配属され、サービス・販促の全体的な設計を担当しました。そして、11年に梅田店が増床開業してから一度販促担当に戻り、12年11月から1年間パルコに出向。その後は、黎明期だったインバウンド事業を担当しました。
活況のインバウンドもいつまで続く分からない
―― 目まぐるしく変化するキャリアを歩んできたのですね。
小野 そうですね、振り返れば新しいことをゼロベースで立ち上げる経験ばかりだった気がします。梅田店の経験もそうですし、インバウンドも一気に成長局面に入っていく時期で、上海や台湾の市場動向をキャッチアップして決済手段や顧客対応を試行錯誤して組み立てていきました。
また、20年10月からコロナ禍に対応するためにグループの構造改革を任されたのですが、与えられたのは、「3年間で固定費を100億円削減する。事業基盤を絞り込む」というミッションだけで、青写真は何もなし。自分なりにマスタープランを組み立てました。
―― いよいよJFRの社長です。足元を見ると百貨店業界には追い風が吹いています。
小野 いいタイミングでバトンを受けさせていただいたのは、ありがたいことだと思います。ただ、今の消費を牽引しているのはインバウンドと高額商品ですが、いずれも円安と株高に依存しています。その潮目が変わったらどうなるか分かりません。正直、インバウンドがいつまで好調かは一番読めないところですので、潮目が変わった時に何を打ち出せるのか、その準備を急ぐことが大事だと思います。
―― 準備というのは、どのようなグループ像をイメージしていますか。
小野 リテーラーの矜持というのは、あそこに行けば今の流行りが分かって、何か新しい発見がある。そんな場所をつくることです。そして、そのヒントがコンテンツにあると思っています。大丸松坂屋やパルコが、良い商品・テナントを揃えるのは当然ですが、加えて出資やM&Aも織り交ぜながらグループでコンテンツを所有していく。特に注目しているのはローカルコンテンツです。日本にはまだまだ魅力的なコンテンツがいっぱい埋まっているので、JFRの店舗網を生かして発掘し、日本中、ひいては世界中に届けていく。そんなグループを目指しています。
―― コンテンツを保有する形について具体的に聞かせてください。
小野 今年の春、日本政策投資銀行と電通グループのイグニション・ポイントベンチャーパートナーズと共同で、事業承継ファンドを設立しました。第一の目的は事業承継に困っている企業をサポートすることですが、最終的にはEXIT先の一つとして、JFRが買わせていただくことも見据えています。例えば食の世界で事業承継に困っている企業をグループに受け入れることができれば、食のMDコンテンツを保有することができます。
また、パルコではIPコンテンツを保有していこうと考えています。その主要領域のひとつにゲーム分野を設定していて、22年の秋にはeスポーツチーム「SCARZ(スカーズ)」を保有するXENOZ(ゼノス)という企業を子会社化しました。これも直接的にはスカーズのイベントをパルコの館の中で開催することによって集客につなげる狙いがありますが、中長期的にはゼノスに集まるゲーム関係の知見やネットワークをグループとして有効活用していきたいわけです。
地域が活性化しないと自分たちも儲からない
―― そうなると競合企業も変わってきそうです。
小野 競争相手がどこかというのは結構難しいです。ただ、旧来の百貨店業界だけではないのは事実です。JFRにはパルコがあるのもユニークですし、デベロッパー事業のJ.フロント都市開発や決済金融事業のJFRカードもあります。大丸松坂屋やパルコを起点に、新たな商業施設の建設や開発、決済・ポイント経済圏の整備などハードとソフトの両面を手掛けることができますので、エリアのエコシステムというか、インフラ的な存在を担える可能性を感じています。
―― その絵が一番実現しやすいエリアはどこですか。
小野 直近で言えば、名古屋です。松坂屋とパルコがあって、その他にもJ.フロント都市開発が運営している商業施設が複数あり、さらに26年には三菱地所を中心とするグループと共に、新たな商業施設を開業します。また、単なる売り場を作るだけではなく、久屋大通り公園ではワークショップや音楽イベントを開催するなど、公園活性化の実証実験も行っています。名古屋の栄エリアをインバウンドや国内旅行のデステネーションにしていくことは、われわれの使命だと思っています。
―― ローカルコンテンツの話もありましたが、JFRはより地域と一緒に事業を展開していくわけですね。
小野 神戸で生まれ育って、地域の中で大丸神戸店が果たしている役割や機能を感じながら育ちました。やはり、地域と一緒にあるのがリテーラーのあるべき姿です。今年から取り組んでいる中期経営計画では、地域との価値共創を示す「地域共栄」という言葉を掲げました。
加えて、顧客や従業員と感動を生み分かち合う「感動共創」、環境と共に生きる社会づくりに誰もが貢献できる文化を根付かせる「環境共生」という言葉も掲げ、これらをかけ合わせた目指すべき姿を「価値共創リテーラー」と表現しています。多くのステークホルダーと一緒に新しい価値を共創していくことは、これからのリテーラーの一つの姿なのではないかと思っています。新たなJFRに期待してください。