経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

「あなたに任せて正解でした」とあるサーチャーの奮闘記

エヌ・エス・システム(提供画像・井川雅文氏(左)と 西澤泰夫氏)

(雑誌『経済界』2024年11月号巻頭特集「あなたの会社は誰が継ぐ?」より)

エヌ・エス・システム(提供画像・井川雅文氏(左)と 西澤泰夫氏)
エヌ・エス・システム(提供画像・井川雅文氏(左)と 西澤泰夫氏)

 サーチファンドによる事業承継の大きなメリットは、熱量ある後継者を見極めて事業を託せることなのは分かった。では、サーチャーとはどんな人物なのだろうか。

 東京都中央区日本橋蛎殻町にエヌ・エス・システム(NSS)という会社がある。創業は2006年で、無線自動識別(RFID)タグを使い、社員食堂の食事代の支払いを自動精算するシステムを手掛ける。メインブランドである『食堂楽 オートレジ』の導入先は、ソニーやDNP、旭化成など有名企業約500社が並ぶ。そんなNSS社で、22年2月から社長を務める西澤泰夫氏(1962年生まれ)は、サーチファンドの仕組みを使って事業を承継した人物だ。

創業者にあったある思い

 時間はコロナ前にさかのぼる。NSS社の創業者である井川雅文氏(1945年生まれ)は、元々働いていた会社の事業を切り出す形で、2006年にNSS社を創業した。井川氏、60歳の時だった。順調に業績を拡大し、時代は下って事業の承継を考えるようになった。しかし、親族に担い手はおらず、費用面を考えると従業員に株を買い取ってもらうことも現実的ではなかった。20年、M&Aによる売却を模索し、仲介会社を頼った。

 21年2月、IT分野の上場会社であるX社が買収に意欲を示した。ところが、折しもコロナ禍真っ只中。社員食堂向けのビジネスを展開するNSS社の事業は悪化しており、M&Aの話は流れてしまった。買い手探しはまた振り出しに戻る。この時、井川氏の胸にはある思いがあった。「大きな企業の一部門として自分が築いた会社を終わらせるのではなく、独立させたまま、あわよくば上場させたい」。

「全身全霊、誠心誠意取り組みます」

 そんな矢先、井川氏はサーチファンドという仕組みを知った。これならば自身が見込んだ人物に会社を託せるかもしれない。やがて、一人の承継希望者と面談することとなった。それが現社長の西澤氏だった。

 西澤氏は、1985年に東京大学工学部を卒業し、三井物産に入社した。95年にECやネット広告に関する事業を発案し、2000年には法人化に伴って社長となる。そして、05年にヤフーへと売却譲渡した。以来、IT分野を中心にキャリアを歩んできた。

 そんな西澤氏は、コロナ禍にある企業からM&Aの支援を依頼される。その企業こそ、NSS社の買収に名乗りを上げたX社であり、西澤氏は買収を検討する立場として、NSS社と出会った。

 前述のように、結局M&Aの話は流れている。ただし、それはあくまでX社にとってメリットがあるかを冷静に判断した結果。西澤氏は、自身の知見からNSS社のポテンシャルを見抜いていた。

 その後、M&A検討時の関係者を通じて、井川氏の思いを知った。自身が承継を望むとなれば、M&Aとはまた違った覚悟が求められる。逡巡の末、第二の人生をNSS社に捧げることを決めた。

 21年9月、西澤氏は買い手候補企業の担当者としてではなく、事業承継の候補者として井川氏と相対した。そこから何度か面談を行う。

 「いろいろな話をしましたが、井川さんが重要視したポイントは4つありました。引き継いだ後どのように会社を成長させるか。どのように食堂楽を磨いていくか。上場後のイメージはあるのか。そして、社員たちをどのように育てるのか」(西澤氏)

 事業に関する内容とは別に、社員の育成体制を重要視していることに井川氏の思いが感じられる。なにより、西澤氏と意気投合したのも、人材に対する考え方だった。西澤氏が35年を過ごした三井物産は、必ず投資先に社員を出向させた。投資先の価値向上は人が起点となる。これは西澤氏自身の哲学でもあった。

 「企業の規模感を問わず、会社にはそれぞれいいところがあります。NSS社で言えば、長きにわたって付き合っている立派な顧客がいること。私がこの会社の宝物は何だと思っているのか、それも正直にお伝えしました」(同氏)

 前段のM&Aの一件を通じて、西澤氏はNSS社の事業について詳しく知っていた。人を重視する態度と事業への深い理解。こうした背景があって、井川氏が西澤氏に会社を託すことを決めるまでさほど時間は必要なかった。創業者の「会社を成長させてほしい」という思いに、西澤氏は「全身全霊、誠心誠意取り組みます」と応えた。

社長になったらよーいどん!

 22年2月、NSS社のオフィスに全社員が集められた。井川氏が社員に西澤氏を紹介する。社員はこの時まで、井川氏が事業承継に動いていることを知らなかったという。

 ここから、西澤氏の真剣勝負が始まった。

 「よく100日プランとか言いますけど、それどころじゃない。社長になったら、よーいどん!  でした」(同氏)

 西澤氏は温めていたプランを矢継ぎ早に打ち出す。真剣勝負だからこそ、変化は大胆だった。中小企業にありがちな、属人的な営業スタイルを改め、顧客管理や営業支援ツールを導入して集団戦を徹底させた。これまでの組織図に捉われず、能力のある社員を抜てきして役職に就けた。ちなみに、西澤氏が承継した時点で社員数は約20人。これだけの所帯で、抜本的な改革を進めれば少なからずハレーションが起きる。ましてや、創業社長はカリスマだ。長く井川氏を支えてきた社員ほど、心理的にはすぐに新参者の社長を受け入れられるわけはない。承継してしばらくは、社長である西澤氏が招集した会議をサボタージュする社員すらいた。それでも西澤氏は改革の手を緩めなかった。結果的に、社員数名がNSS社を去っている。

 「中小企業は創業者が引っ張ってまとめています。ですから、いきなり第三者が来て組織を改革するなんて、そんなに簡単にいかないですよ。でも私も信念持って来ています。待ったなしで改革を進めました」(同氏)

 井川氏は、承継した後も顧問として西澤氏の隣に机を残していた。しかし、一連の改革には口を挟まない。実は井川氏は、数年前から病気を患っていた。事業承継の話を社員に伏せていたことは先に述べたが、当然病気のことも知らせていなかった。しかも、西澤氏を含めて事業承継の関係者にも隠していたのだった。

 西澤氏への承継から約半年ほどたったある日、井川氏は急に西澤氏の方を向いてこう言った。

 「いろんな会社が私の会社を買いに来ました。でも、あなたに任せて正解でした。体調が急激に悪化して、意識が混濁するかもしれませんからお伝えします。本当ありがとうございます」(井川氏)

 西澤は「何言っているんですか。まだ、一緒にやりましょうよ」と返すことで精いっぱいだった。

 コロナに感染したこともあり、そこから井川氏の体調は坂道を転がるように悪化していった。やがて酸素ボンベを引きながら会社に来るようにもなった。

 22年11月、井川氏は息を引き取る。亡くなる直前、病床で「いちばん苦労したのは人事だった」と語ったという。会社の歴史が長くなればしがらみも生まれる。創業者でさえ、創業者だからこそ、大胆な人事を進められなくなるのかもしれない。

MBA流のミッションは掲げず

 西澤氏は、井川氏に約束した社員の育成を徹底する。自らが講師役を務め、若手社員に向けてMBAのような講座を開催した。財務3表の読み方から法務の知識、資料のつくり方まで指導し、課題を出して土日に赤ペン先生役まで務めた。

 こうした取り組みの結果、業績は上向き、承継時に比べて売り上げは1・5倍以上になった。約20人だった社員は50人前後まで増え、オフィスも拡大。人件費も2倍以上にした。西澤氏は今後を見据えて語る。

 「MBA流の壮大なミッションは掲げません。中小企業って一生懸命生きているんです。そこに大手企業からきた新社長が偉そうにかましたって現場には響かない。まずは今のビジネスをリスペクトして磨き上げて、キャッシュカウを育てる。その先にIPOが見えてくるかもしれない。それは私が口にしなくたって、自信を付けた社員たちが心の中で自然と考えるようになっていきます」(西澤氏)

 これがひとりのサーチャーの姿である。そして、この事業承継を裏方として支えたのが、Fore Bridge(FB、旧Growthix Investment)社だった。NSS社の買収に際して、西澤氏の資金的な負担はなく、FB社が主導して金融機関からファイナンシングを行い、買収の実務を担った。FB社の代表取締役、竹内智洋氏はこう語る。

 「事業承継が完了してから、何度か井川前社長にインタビューをさせていただきました。その中で、われわれの社名は出てこないんです。とにかく西澤さんの名前が出てくる。西澤さんがいたから託すことを決めたとおっしゃっていた。これこそ、この事業承継がうまくいった証拠かなと思います」

文=和田一樹