日本M&Aセンターグループでファンド事業を行う日本投資ファンド。代表の大槻昌彦氏は、新卒で住友銀行(現三井住友銀行)に入行し、日本M&Aセンターに転職して現在のポジションに至っている。大槻氏は、自身のキャリアはひょんなきっかけで変化してきたと語り、先入観のなさが功を奏すると振り返る。聞き手=和田一樹 Photo=小野さやか(雑誌『経済界』2025年5月号「社長が語る入社1年目の教科書」特集より)
大槻昌彦 日本投資ファンド代表のプロフィール

おおつき・まさひこ 1970年生まれ。95年住友銀行(現三井住友銀行)入行。2006年日本M&Aセンター(現日本M&Aセンターホールディングス) 入社。主に譲受企業側のアドバイザーとして数多くのM&Aに携わり、営業全般の責任者として急成長を支えてきた。現在は同社専務取締役として、日本M&Aセンターグループのファンド事業や海外事業等を統括する。22年2月より現職。本M&Aセンター専務取締役、AtoG Capital代表取締役、日本サーチファンド代表取締役、日本プライベートエクイティ取締役、サーチファンド・ジャパン取締役を兼務。
「銀行の支店は女性の職場だから」
―― 1995年、住友銀行入行が大槻さんのキャリアのスタートです。どんな新人時代でしたか。
大槻 時代背景も多分に関係していますが、配属先の支店長から「銀行の支店は女性の職場だから、若い大槻がムードメーカーになってくれ」というニュアンスのことを言われたことを覚えています。だから、上の人たちが気持ちよく仕事ができるように仕事環境を整えることが自分の仕事。そんな1年でした。あとはATMの紙幣や硬貨の入れ替えなど、これが銀行マンの仕事なのかなというようなことがたくさんあった1年目でした。
今の日本M&Aセンターの新入社員は、1年目からビジネスのど真ん中に放り込まれて仕事をバンバンやって成果を出しているので、すごいな、うらやましいなと思います。一方で、ビジネススキル的にはそれでいいのでしょうけど、仕事というのはそれだけではないですよね。人間力とでもいうのか、一見すると仕事ではないことが仕事につながったり、お酒の席を通じていろんな人の価値観に触れたり。今のようなポジション、54歳になったからこそ、自分の新人時代の過ごし方が今につながっていると感じることは多くあります。
―― 銀行マンらしくない仕事をしている中で、キャリアが見通せず辛くなることはなかったですか。
大槻 銀行組織の常識にフィットするのに苦労したことは覚えています。僕は大学時代ずっとアメリカンフットボールをやってきて、スポーツの世界は実力があれば下級生だろうと試合に出られます。対して銀行というのは、支店長をトップとして意思決定していく非常に組織の序列が重要な現場です。実力があれば上に行けるスポーツの世界とのギャップに戸惑いましたし、かといって1年目で能力もありませんから、そういう面では苦労しました。
逆に良かったなと思うのは、先入観の乏しさです。大学時代にギリギリまでアメフトに打ち込んでいて、ろくにアルバイトもせずに新社会人になりました。ある意味で何の覚悟もなく社会人になった結果、良くも悪くもポリシーがなく、「社会人」や「働くこと」に変な期待もしていませんでした。もし、それらに自分なりのイメージをぐっと固めて働き始めたら、どこかで挫折したかもしれません。
新社会人になるのも中途入社するのも、経験していないことをやるわけで先のことは飛び込んでみないと分からない。入社前からイメージを固め過ぎていたら、ギャップを埋めるのに苦しむのかなと思います。
―― そもそもどうして住友銀行に入行したのでしょうか。
大槻 アメフトでお世話になった人や親族など、身近な人の言葉が影響しています。はっきりしているのは、アメフトにほとんどの時間を割いていたので早く就活を終えたくて、ほぼ住友銀行しか就職活動をしなかったことです。同期にはバンカーという仕事にこだわりを持っている人もいましたけど、僕は金融業界についてあまり深く研究していなかったので、入行してからいろんな知識を身に付けました。
振り返ってみると僕のキャリアは入り口が違うことが多々あって、2006年に日本M&Aセンターに転職した際も、たまたま後輩が先に転職していて会社を知りました。僕は当時新橋支店にいて、日本M&Aセンターも近くにあったので新規の取引を取ろうかなぐらいの考えで訪ねたのがきっかけです。
転職してからも、ファンド事業や海外事業など担当する領域が拡大していきましたが、自ら手を挙げたのではなくたまたまポジションが新設されたり前任者から指名されたり、ひょんなことから導かれるようにしてキャリアを重ねてきました。
もちろん、住友銀行に入行した後は銀行の存在意義を痛感しましたし、日本M&Aセンターでも後継者不足という日本社会の課題解決に挑戦したいと思うようになりました。自分自身は志や理念は後からくっついてきたので、中途も新卒も、会社を選ぶ動機はある意味で何でもいいとすら思います。むしろ期待値が上がりすぎないくらいがちょうどいいんですよ、きっと。
人間関係でノーと言わない。苦手な分野からは逃げる
―― 大槻さんが考える、新人時代の過ごし方として心がけるべきことは何でしょうか。
大槻 自分のキャリアを振り返って言えることは大きく2つ。1つは、特に新卒だったら人間関係で絶対にノーと言わないこと。ゴルフや飲み会など、人間関係のお誘いにノーと言わないのは、意外とできそうでできません。これが大事だと思うのは、もしノーと言ってしまったらそこから先の人間関係が閉ざされてしまうからです。僕は今でも会いたいと言ってくださる人がいれば、とりあえず1回は会うようにしています。これはおそらく仕事にならないよなというアポでも、もしかしたら何か起きるかもしれない。そこの可能性を遮断したくないんです。一度会った上で2回目はないというのは、たくさんあります。飲み会も、同じ人と何回も行くよりも、知らない人と積極的に会ってネットワークを広げる。銀行員のときもそうだし、M&Aセンターに入ってもそうしてきました。
―― 2つ目は何でしょうか。
大槻 2つ目は、苦手な分野から逃げること。ノーと言わないのは人間関係だけです。ビジネスは組織でやるわけですから、苦手分野でチームの足を引っ張るよりも、得意な分野で貢献した方がいいに決まっています。もちろんビジネスパーソンとして最低限のことは整えないと駄目ですけど、苦手分野を得意分野にまでする必要は全くないと僕は思っています。ちなみに僕は事務分野から逃げて営業分野で戦ってきました。
もう1つ、補足として好きな言葉を紹介します。それは「マッスルメモリー」です。例えば、学生時代に特定のスポーツに打ち込んでいたら、30歳を過ぎて久々にやっても意外とできます。要するにマッスルメモリーとは、昔やっていたものは時が経過してもある程度の状態で再現できることを指します。
―― それがビジネスとどう関わりますか。
大槻 ビジネスにおいても全く一緒だと思っていて、時代的に僕は20代でめちゃくちゃハードワークしていました。50歳を過ぎていろんなポジションにも就き、責任も重くフィジカル的にも大変な状況が続いています。おそらく、この働き方をいきなり50歳過ぎでやるのは無理だったでしょうし、仮にやっても今のようなパフォーマンスは出せなかったと思います。
20代の時にハードワークしていたからこそ、今でも当時比で何割かのことができる。今の時代はいろんな法律の兼ね合いもあって、業務時間としてハードワークすることはできない環境が整っています。だからこそ、自己研鑽の範疇でどれだけ自分に負荷をかけられるかが、将来への投資になると思います。
会社を出たら仕事のことは忘れる

―― 仕事やキャリアに関する期待とのギャップに苦しんだり、少し頑張りすぎて疲れたりしてしまう人もいると思います。大槻さんはストレスやプレッシャーとどのように向き合ってきましたか。
大槻 僕も4年目、5年目くらいまではすごくストレスがかかっていました。夜になると、今日はこんな失敗をしたな、明日はどんなことがあるのかなと、そんなことばかり考えている時期もありました。
でもある時、悩んでいても会社を一歩出てしまえば、その悩みは全然解決することができないし、むしろ脳やメンタルに負荷ばかりかかって自分を傷つけているだけだと思ったんです。以来、もちろん前向きなクリエーティブな事であったり、仕事の段取りであったりを考えることはしますが、会社を出たら基本的には解決できない仕事のことを考えないスタイルを徹底しています。あるいは積極的に趣味の時間をつくって、その間は全く仕事のことを考えない。その代わり仕事モードのときは、仕事以外のことを考えない。メリハリを明確にしています。
―― 仕事が忙しくなるとなかなか趣味の時間を取るのも難しそうです。
大槻 逆に、仕事で高いパフォーマンスを発揮するためにも、しっかり体と心を休ませる時間をつくる必要があるんです。
僕は生まれたときから読売ジャイアンツのファンで、年に10回は東京ドームに観戦に行きます。もちろん土日が多いですが、年に何回かは平日のナイターを見に行っています。観戦に行く日は午後を休みにして一度帰宅し、シャワーを浴びて身を清め、それで聖地東京ドームに向かいます。24年シーズンは大勢選手のユニフォームを着て、グッズを持って応援していました。開門が16時くらいですが、その少し前には周辺を歩いて雰囲気を味わい、開門した後は試合開始まで練習を見て僕も気持ちを高めます(笑)。
趣味に限った話ではありませんが、業務時間外は社外の人と接することが大切だと思います。