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僕の人生はずっとご縁づくり“鬼軍曹”に鍛えられた1年目 淡輪 敏 三井化学

淡輪敏 三井化学

三井化学の淡輪敏会長が「入社1年目」だったのは、1976年のこと。それからおよそ半世紀におよぶビジネスマン人生を経て語る、入社1年目の教科書とは何か。そして、新人時代の過ごし方は、社長、会長と要職を歴任したキャリアにどう影響したのか。聞き手=和田一樹 Photo=西畑孝則(雑誌『経済界』2025年5月号「社長が語る入社1年目の教科書」特集より)

淡輪 敏 三井化学会長のプロフィール

淡輪敏 三井化学
淡輪 敏 三井化学会長
たんのわ・つとむ 1951年、福岡県生まれ。早稲田大学商学部を卒業し、76年に三井東圧化学(現三井化学)入社、2014年4月、同社社長、20年4月から現職。73歳。

新人時代に出会えて本当によかった

―― 淡輪さんは1976年に三井東圧化学(現三井化学)に入社し、2014年に社長就任、20年からは会長を務めています。長いビジネスキャリアから、新入社員にどんな言葉をかけますか。

淡輪 時代それぞれの特徴がありますから、一般論で語るのは非常に難しいですね。ただ、自分自身の経験を振り返ってみても、やっぱり人とのご縁を大事にするのは、いつの時代も、どんな仕事でも共通することだと思います。

 僕のキャリアは大阪の工場から始まりました。製品課に配属され、ごく単純に言えば製品の包装、在庫管理、出荷という一連の作業が主な仕事です。現場が大好きで、工場の人たちはもちろん、取引先の会社の方々も含めて、人との触れ合い、つながりが楽しかったのを覚えています。

 また、工場のラグビー部に入れてもらったり、職場対抗バレーを頑張ったり、仕事以外でも非常に居心地いい社会人のスタートでした。

―― 厳しい思い出はないですか。

淡輪 どうかな、あまりないかな(笑)。ただ、工場には現場たたき上げのいわゆる「鬼軍曹」みたいな方がいて、ものすごく鍛えられました。いろんなレポート課題が出るんだけど、時には手を抜いたりもしますよね。すると、この程度で妥協してどうする! と怒られてね。その分、可愛がってもいただきました。しょっちゅうご自宅にお邪魔して食事をご馳走になって。その方が亡くなるまでずっと交流は続いて、奥さまとは今でもつながりがあります。

 新人時代にああいう方と出会えて本当によかった。思い返せば、その後の人生で何度も何度も助けられたように思います。

 それこそ社長になってからも、他社のトップと初対面であっても短期間で関係を築いて素早く動いていく必要があるので、ご縁づくりの連続ですよね。そういう、人とのふれあい、ご縁を強く感じながら新人時代を過ごせたことは、とても得難い経験をしたなと思います。

厳しい構造改革と池に来たカモの話

―― 少し視点を変えて、新たに社長になる人にアドバイスをするとしたら、どんな言葉をかけますか。

淡輪 僕が社長に就任した時は、3年連続赤字の後を受けるタイミングだったから、ちょっと事情が特殊ですよ。正直、自分でその状況を立て直せる自信が十分にあったかというとそうは言い切れないですし、とにかく必死だった。これから社長になる人たちに何かメッセージなんか言える立場じゃないんです(笑)。

―― 「社長1年目」の淡輪さんは、どんな状況に直面したのでしょうか。

淡輪 3年連続赤字と言いましたけど、社員は本当に一生懸命でした。それなのに何をやっても結果に結びつかない。ムードとでもいうのか、会社が全体的に自信を喪失して、次第に組織が指示待ちになる悪循環に陥っていました。だから、まずこれを変えないといかんなと。

 それと、業績を即黒字にはできずとも、立て直す方向性だけは見いださないとじり貧になってしまう。そう思いました。

 そんなこともあって、社長就任時に最初に社員に送ったメッセージは、「今の三井化学は誇りを失っている。これからの3年間は誇りを取り戻す戦いだ」でした。げきを飛ばしたんです。ことあるごとに言い続けましたよ。

―― 組織に変化はありましたか。

淡輪 いやいや、企業の文化はそんな簡単に変わりません。一方、構造改革は待ったなしです。プラントを止めたり、工場を閉鎖したり、聖域なくあらゆるコストダウンを矢継ぎ早に打っていく必要がありました。ある程度の痛みを覚悟で短期間に膿を出し切り、会社組織を健全な状態に立て直さなければならなかったのです。だからこそ、やるべきことは本当に厳しかった。

 しかも、同時に気を付けなければならなかったのは、構造改革は長期的な回復のために必要なことではあっても、その瞬間は大きな痛みを伴うので短期的には極めてマイナスに作用するということです。誇りを取り戻すために構造改革は避けられないけれど、これ以上組織や従業員を痛めるわけにもいかない。社長1年目にして非常に頭を悩ませました。

―― その難局をどのように乗り切ったのでしょうか。

淡輪 僕が当時考えていたのは、厳しい局面だからといってトップが危機感を丸出しにして、ああしろ、こうしろ言ってしまうと逆効果なんだろうなということでした。そこで、「やらせる」よりも「任せる」ことを大事にして、組織のムードを少し緩めたんです。

 これは社内の心理的な距離感を近づける意味合いもあります。私も社員向けに社長メッセージを毎週書くようにしました。それも、内容はカラスがどうしたとか、池にカモが来て遊んでいたとか、言ってみればしょうもない話を積極的に書いたんです。本社からは「社長が書く内容としては……」とか言われたりもしたんだけど、僕は工場の現場に向かって書いていたんです。構造改革でいろいろと厳しいお願いもしているわけだから、作業の合間にでも見て社長がなんか動物の話しているなって、ほんの息抜きになってくれたらいい。そう思っていたんです。

―― 厳しい構造改革の最中とは思えない、微笑ましい社長メッセージですね。

淡輪 もちろん、しっかりと方針を打ち出し、実行速度は厳しくチェックしました。ただ、それ以外はなるべくそれぞれの管理職たちに任せたんです。三井化学という会社は代々トップダウンの色が強く、もちろんそれが良い方に作用していた時代もたくさんあったんですよ。ただ、こういう局面こそ、逆にしてみようと思ったんです。

―― そうした変化ができたのは、淡輪さんの新人時代と関係がありそうですね。

淡輪 新人時代に鬼軍曹を始めとする工場のみなさんと触れ合い、その後も30代後半まで人事労務畑を歩みましたから、人と人のつながり、組織の機微、ご縁を大事にできたのはキャリアの影響があるかもしれません。会長になって振り返ると、そんなふうに思います。