かつては「日本産業界の奇跡」とまでいわれた日産自動車の業績回復。それとともにカルロス・ゴーン元社長は時代の寵児となった。しかしその後日産は不祥事と業績低迷に喘ぎ、3代続けてトップがその座を追われた。その背景には相も変わらぬ社内抗争というDNAが潜んでいる。文=伊藤憲二(雑誌『経済界』2025年7月号より)

ルノーによる救済劇で変わったはずの企業文化
企業にはそれぞれDNAのような風土がある。生まれ育つ過程で培われた人格が洗脳でもされないかぎり変わることがないように、企業風土も簡単には変わらず、時を越えて受け継がれる。日産自動車の“負のDNA”は、日本産業史において今日なお語り草となっている石原・塩路戦争に象徴される権力闘争だ。
1999年に資金ショートで倒産の危機に瀕した日産がルノーの出資を仰いで同社の傘下に入り、カルロス・ゴーンが送り込まれてからその体質は変わったように見えていた。が、2018年にルノー・日産アライアンスの絶対権力者となっていたゴーンが失脚、国外逃亡、その翌年にはクーデターの仕掛け人であった西川廣人が自らのコンプライアンス問題で社長辞任、そして今年、西川の後を受け継いだ内田誠が経営悪化の責任を取らされる形で辞任を余儀なくされた。
「良い面、悪い面の両方があるが、とにかく日産は変わったと思っていた。しかし、ゴーンショック以降の流れを見て、結局は何も変わっていなかったんだな、と。よく社内抗争は日産の風物詩と言われますが、その根底にあるのは他責。自分の理想を実現させるための抗争ならまだしも、日産の場合はいつも自分の責任回避のためだ。そういう気質が変わらない限り、混乱はこれからも折に触れて発生し続けるでしょうね」
三代続けて最高権力者が放逐されたのを見た日産の技術系OBは吐き捨てるように言った。このOBもまた、“伏魔殿”と言われた研究開発拠点、日産テクニカルセンターで社内抗争に巻き込まれた経験者だ。
ゴーンはスキャンダル、西川は脇の甘さによる自滅、内田は経営悪化の責任と理由は三者三様だが、共通しているのは3人とも辞めるつもりはなかったのに“外圧”によって権力の座を追われたこと。そして、それぞれの辞任劇の陰で権力者を追い落とそうとする勢力が直接対決ではなく、外部の力も借りて外堀を埋めるという暗闘を繰り広げたこと。そのスピリットはまさにかつての石原・塩路戦争と重なるものがあった。
石原・塩路戦争とはどのようなものだったのか。それをあらためて紐解くと、なぜ負のDNAが深く、静かに温存されてきたのかをうかがい知ることができる。
1977年に日産11代目社長となった石原俊は権力欲が強く、かつ嫉妬深い男だった。トヨタ自動車への対抗意識から世界シェア10%という目標を掲げ、スペインの自動車生産会社モトール・イベリカを買収、イギリスに現地生産拠点サンダーランド工場建設、さらに独フォルクスワーゲンとの提携など、拡大策をトップダウンで強行した。
一方で日産の前身である日本産業の創業者、鮎川義介と血縁関係にあり、北米市場にダットサンの名を広めた立役者でもあったミスターKこと片山豊・北米日産会長を解任して日本に帰国させ、子会社である広告代理店日放の社長として幽閉したのをはじめ、自分より目立ちそうな人材を次々に無力化した。
そんな独裁者、石原と対峙したのが、これまた強欲なまでに権力と利権に固執する独裁者タイプの塩路一郎・日産労組書記長。産業別労働組合である自動車総連の設立者でもあり、日産の経営に関して天皇と異名を取るほど絶大な影響力を有していた。その塩路が石原の拡大路線に対して労使の合意なく経営者が勝手に行っていると糾弾、徹底抗戦に打って出た。
経営方針に口出しした日産労組の塩路一郎
労働組合の書記長が経営方針に干渉することは本来、経営権の侵害以外の何物でもない。なぜ塩路が簡単に経営に横槍を入れることができたのか。ここに日産が長年抱える病理がある。
石原・塩路戦争で塩路の後ろ盾となったのは、プリンス自動車の吸収合併を果たすなど日産の中興の祖といわれた石原の2代前の社長、川又克二。川又は日産のプロパーではなく日本興業銀行のバンカーで、それゆえに社内の権力基盤が弱点だった。
それを補うために川又が取ったのは正攻法ではなく、労働闘士だった塩路を利用するという、いわば“寝技”だった。塩路は川又の予想以上の働きを見せ、日産を悩ませていた労使紛争の源となっていた企業内組合を分断し、労使紛争の沈静化に成功。結果、プリンス自動車の吸収合併にも成功し、一瞬ではあるがトヨタ自動車をシェアで抜き去った。川又が日産中興の祖と言われたゆえんである。
しかし、謀略で得た成果はいつかほころびを来すもの。川又は功労者である塩路を止められなくなった。というよりは、積極的に癒着したと言ってもいい。当時を知る関係者は「弱みを握られたんじゃないのか」と訝るほどだった。
岩越忠恕に社長を譲った後も川又は実力会長として院政を敷く。そして石原が社長になっても会長にとどまり、権勢を振るおうとした。ところが石原が自分を軽く扱い、さらに拡大路線に走るのをみて、石原の敵対勢力である塩路に肩入れしたのだった。
昭和時代は今ほどコーポレートガバナンス、コンプライアンスが厳しく問われる時代ではなかったが、その基準に照らしても日産の権力闘争は異常というほかなかった。


カルロス・ゴーン改革が機能しなくなった理由
日産の社風が醸成された要因としてよく指摘されるのは、戦前から戦後まで国策会社という性格が強く、政府や長期信用銀行からの干渉を強く受け続けたことだ。が、それだけでは何かがあるたびに相手の足を引っ張るべく権謀術数に走ることの説明がつかない。もっと根源的な何かがあるはずだ。
ある戦後財界の事情通は、日産という企業の枠を越えた旧財閥、芙蓉グループのカルチャーについて思い出話を語った。
「戦後から高度経済成長にかけて、有力者が子弟を就職させるなら芙蓉グループが一番と言われていた時代があったんだよ。銀行なら富士銀行、自動車メーカーなら日産。何しろ社内で競争というものがないんだ。実績を問われないから仕事で責任を負わされることもない。一旦会社に入ったら一生安泰。可愛いわが子を預けるにはうってつけだろ。だから芙蓉グループの企業には毛並みのいい社員が大勢いたんだ」
身分は安定、高収入、それでいて仕事の実績を問われない大企業、日産。外野からはさぞやぬるま湯の如き心地良さと羨ましくさえ見られたが、現実にはその中でも苛烈な出世競争や自分の地位を守ろうとする保身が存在する。
北米でダットサンを広め、現地でミスターKこと片山ですらヒラの取締役にもなれなかったのだ。仕事の実績があてにならないとなれば、上司への媚、相手の弱みを握るといった手段に走るのは目に見えている。日産の権謀術数の体質は経営陣や従業員が最初からそういう人間性だったことによって形成されたのではない。実績が軽んじられ、人材評価について多くが納得するような公平性のある基準を持てなかったがゆえに生じた人治主義の産物という側面が大きかったのだ。
日産に送り込まれたゴーンは当初からコミットメント(目標)を経営の金看板とした。高い経営センスを有していたがゆえに、人治主義が日産の弱点であることを即座に見抜いたのだろう。人材登用の方法は大きく変わり、目標を達成した人材にさらに高度な目標の仕事をやらせる。それをクリアし続けることが出世のパスポートとなった。
だが、最初はうまく機能していたゴーン改革も、時がたつにつれて次第に力を失っていった。2007年には初めて目標未達が発生。決算発表で古株の記者から「コミットメントを守れなかったら辞めると言っていたが」と指摘されて「株主が辞めろというならすぐにでも辞める」と釈明に追われた。リーマンショック後に発表した16年度までに世界シェア8%、売上高営業利益率8%の達成を掲げる5カ年計画「日産パワー88」も達成することができなかった。ゴーンがルノー日産アライアンスの最高権力者という地位を保ったまま日産の社長の座を西川に譲ったのはその直後のことだった。
ゴーンのコミットメントが次々に未達に終わった理由について、そもそもコミットメントラインが日産の実力値に対して高望みしすぎだったという見方が多かった。だが、日産社内からはそれと異なる声も聞かれた。
「仕事の目標を達成し続けることが出世の条件ということ自体は正しい改革だったと思います。ところが、今度は出世をもくろむ人が出世のために高い目標を提示し、さらにそれをどうやったら達成できているように見せかけられるかを考えるようになってしまった」(日産中堅社員)
部下の提示した目標が現実的なものかどうかを見抜くのは、最終的には経営者の仕事だが、現実にはきわめて難しい。アメリカすらベトナム戦争において戦略目標未達が相次いでいたにもかかわらず軍部が局地戦で相手を圧倒しているという報告を続け、上層部が実態を把握できずに敗北したという歴史を踏んだのだ。
ゴーン失脚の背景に「スパイ暗躍」の伝統
内田が退任を余儀なくされた原因である直近の業績悪化も状況は似ている。内田は24年度第1四半期決算で営業利益99%減を報告したが、第2四半期には正常化可能で影響は軽微にとどまると説明していた。結果はそれとまったく異なり、業績悪化は止まる気配がなかった。これも日産社内で実態を反映しない報告が蔓延していることの表れといえる。
そういう忖度を根絶するためには、最高権力者が正直な報告こそが最も重要なことだと明言し、報告した人材にインセンティブを与えるくらいのことをやる必要があったのだが、独裁者タイプのゴーンには残念ながらそれだけの度量はなかった。
最後は長年側近として甲斐甲斐しく仕えてきた西川のクーデターによってゴーンは失脚した。クーデターの過程については説明を省くが、裏ではかつての日産の社内抗争よろしく、社内スパイが暗躍した。絶対権力者であるゴーンの下で表向き消えたように見えていた日産の“伝統”はしっかりと息づいていたのである。
ゴーンという重石がなくなった後、日産は指名委員会等設置会社へと移行した。CEOはあくまで経営権の代表執行役で、それを社外取締役を中心に構成された取締役会が監督するという体制である。目的は言うまでもなく一人に権力が集中するのを防ぐことである。
だが、そのシステムは日産の経営の混乱を止めることはできなかった。クーデターの翌年、西川は業績連動報酬の不正受領で突如失脚する。刺したのは取締役会のメンバーで西川の腹心だった山内康裕日産COO。コーポレートガバナンス上は問題があるものの法的な問題はないと考えていた西川は日産と縁を切るかのように社から消えた。
後任の内田も倒閣をもくろむ勢力が外部と結託し、無能という見方を世間に広げることで外堀を埋められ、なす術もなく辞任に追い込まれた。一方、経営の仕切り役である取締役会メンバーのうち社外取締役は誰一人として責任を取ることはなく留任した。日産の業績悪化の責任を内田に被せて放逐することで身の安全を担保したのである。
これでは取締役会がアンタッチャブルな絶対権力者として君臨しているも同然。一方でコミットメントが疎かにされる、本当のことを報告しない、政敵の足を引っ張ることに拘泥するといった日産の悪しきDNAへのメスが入る気配はない。4月、内田に代わってイヴァン・エスピノーサが社長兼CEOに就任したが、日産を変えることができるかどうかはまさに未知数だ。(敬称略)