メディア業界における唯一の「顔の見える経営者」が、「フジテレビの天皇」こと日枝久氏だ。しかし中居正広事件によって、事件には直接関係ない日枝氏までもが断罪されることになった。なぜ日枝氏はこれほどの権力を手に入れたのか。そしてなぜ今日の事態を招いたのか。文=関 慎夫(雑誌『経済界』2025年7月号より)
鹿内家に疎まれながらジュニアの側近に抜擢

タレント・中居正広氏の事件を受け、フジ・メディア・ホールディングス(FMH)およびフジテレビジョンが設置した第三者委員会は、3月末に調査結果を発表した。ここでは、中居氏の元アナウンサーに対する行為が性的暴行だったことを認めるとともに、フジテレビにはセクハラなどのハラスメントが蔓延していたと指摘。さらには40年間にわたりフジテレビに君臨してきた日枝久氏の存在が、グループガバナンスに悪い影響を与えていると言及した。
これに先立ちFMHとフジテレビは、社外取締役などを大幅刷新するとの役員人事を発表した。これまで日枝久はFMHおよびフジテレビそれぞれで取締役相談役を務めていたが、フジテレビは3月27日付で、FMHについては株主総会の開かれる6月に退任する。
日枝氏がフジテレビ取締役に就任したのは1983年。視聴率三冠王を長年続けるなどフジテレビの黄金時代を築いた日枝氏だが、最後は石もて追われるようにその座を退いた。日枝氏はフジテレビを支配していた鹿内家の後継者を放逐した過去がある。当時はフジテレビを守るために起こした行動だったが、それがそのまま自分に返ってきた。
早稲田大学を卒業した日枝氏がフジテレビに入社したのは61年のことだった。フジテレビはその2年前の59年に開局したが、初代社長は「財界四天王」(戦後の財界に影響力を発揮した4人組)の水野成夫氏(元日本国策パルプ社長、元文化放送社長)。そして番頭役だったのが元ニッポン放送社長の鹿内信隆氏だった。2人は財界労務部と言われた日本経営者連盟(日経連、その後経団連と統合)設立に関わり、戦後激化した労働組合に一緒に立ち向かう関係だった。その水野氏は72年に亡くなる。それとともに信隆氏は、フジテレビ、ニッポン放送、産経新聞などからなるフジサンケイグループを支配するようになる。
日枝氏はこの信隆氏から疎まれた。というのも日枝氏はフジテレビの労働組合の結成に奔走したためで、日経連で労組と対決してきた信隆氏にとっては背信行為だった。そのため当初報道部に配属された日枝氏だったが、広報部や編成部などたらい回しにされる。出世コースからは完全にはずれていた。
それがなぜフジテレビのドンに昇りつめることができたのか。きっかけは、信隆氏の長男・春雄氏がフジテレビに入ったことだった。春雄氏は70年にニッポン放送に入社。その後77年に副社長になると若者向け番組を拡充させ聴取率を大幅にアップさせている。その手腕に期待して、80年に信隆氏は春雄氏にフジテレビ副社長を命じる。当時のフジテレビは視聴率が低迷、先行する日本テレビ、TBSには大きく水を開けられていた。そこからの挽回を春雄氏は託された。
この時、側近に抜擢されたのが日枝氏だった。日枝氏は信隆氏に嫌われていたことを知って、どの部署に異動になっても、腐ることなく実績を挙げ続けた。それを見て、信隆氏は息子のサポート役にふさわしいと判断したようだ。
その期待に日枝氏は応える。春雄副社長の下で日枝氏は編成局長となり、二人三脚でフジテレビの「軽チャー路線」を引っ張っていく。当時のフジテレビのキャッチフレーズは「楽しくなければテレビじゃない」。徹底的に若者をターゲットにした番組づくりを行い、漫才ブームなど、「お笑い」をテレビのキラーコンテンツに育て上げた。その勢いを駆って「笑ってる場合ですよ!」「笑っていいとも!」「オレたちひょうきん族」などのヒット番組を次々と送り出していく。その結果、フジテレビは82年に年間視聴率三冠王に輝き、その座を93年まで12年間にわたり維持した。フジテレビの第一期黄金時代である。
この実績を背景に、春雄氏は85年にフジサンケイグループ議長の座につき、フジテレビ、ニッポン放送、産経新聞3社の会長に就任。完全に父・信隆氏からの代替わりを果たす。参謀役だった日枝氏も83年に取締役となり86年には常務に昇進した。
鹿内春雄氏の急逝で生じたクーデター

激震が走ったのは、88年4月16日のことだった。春雄氏が劇症肝炎で急逝したのだ。入院から1週間。病室では当時進めていた産経新聞のフルカラー化のゲラなどを見て指示を飛ばしていたが、容態が急変、帰らぬ人となった。まだ43歳の若さだった。
春雄時代は今後20年以上続く。これが社内外の共通認識だった。それだけに突然の死によりグループは大混乱に陥った。これを鎮めるためにカムバックしたのが父・信隆氏で、グループ議長に就任する。信隆氏はすでに77歳。現場を指揮することはできない。そこで春雄氏と二人三脚でフジテレビを牽引してきた日枝氏が社長に就任することになる。
しかし信隆氏の打った手はそれだけではなかった。フジテレビ創設に関与した信隆氏にとって、フジテレビおよびフジサンケイグループは、いわば鹿内家の家業だった。他人に渡すわけにはいかない。そこで日枝氏が社長になると同時に、信隆氏の女婿で日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に勤めていた鹿内宏明氏(旧姓佐藤)を養子縁組したうえでグループ議長代行に据えた。フジサンケイグループは鹿内家が支配するとの強い意思表示であるとともに、かつて疎んじた日枝氏に対する拭い切れない不信感を読み取ることができる。
信隆氏は90年に亡くなる。それを受けて宏明氏はグループ議長に就任、さらにはフジテレビ、ニッポン放送、産経新聞社などの会長を兼務。かつての春雄氏と同様、フジサンケイグループの頂点に立った。
こういう立場に就いた場合、オーナー家(厳密には違うが)の後継者として、監視役に徹することも一つの選択肢だ。宏明氏はメディア業界には素人だ。ならば現場は現場にまかせ、「君臨すれど統治せず」に徹するという生き方だ。しかし宏明氏は違った。
宏明氏は45年5月26日生まれ。15日生まれの春雄氏よりわずか11日遅いだけ。68年に東大法学部を卒業して興銀入り。当時の日本の典型的なエリートだ。その座を捨てて岳父の要請でフジサンケイグループ入りしたのだから、単なるお飾り的役割に甘んじるわけにはいかない。同年同月生まれの春雄氏のようにグループに君臨することができるはずだ。宏明氏がそう考えても不思議ではない。
ただしメディアのことは分からない。グループ内に心許せる人はいない。しかも後ろ盾の信隆氏は鬼籍に入った。そのために宏明氏は東大時代の友人に頼った。彼らのグループを側近としてグループに招き、彼らとともにグループを動かしていった。しかし春雄氏と違い何の実績もない宏明氏の行動は周囲との軋轢を生み、その亀裂はやがて修復できないほどに広がっていった。
92年7月21日。この日開かれた産経新聞社取締役会で、宏明氏は突如解任される。寝耳に水のことだった。さらにフジテレビ、ニッポン放送でも同様の動きがあると察知した宏明氏は、翌22日、フジサンケイグループ議長を含むすべての役職を辞任すると発表した。このクーデターの中心人物の1人が日枝氏だった。素人でありながらグループを自分勝手に動かそうとした宏明氏の放逐に現場の社員は喝采を送った。これをきっかけに当時フジテレビ社長だった日枝氏の求心力は一気に高まった。
ホリエモンの買収で権力基盤を盤石に
そしてもう一つの事件が、日枝氏の権力基盤をさらに強固なものにしていく。
2005年、堀江貴文氏率いるライブドアがニッポン放送株を買い占める。当時はフジテレビ、ニッポン放送はともに上場していた。企業規模はフジテレビがニッポン放送の10倍以上。時価総額もフジテレビはニッポン放送の3倍だった。にもかかわらずニッポン放送はフジテレビの筆頭株主であったため、時価総額の小さいニッポン放送を通じてフジテレビを支配することが可能だった。堀江氏はそれを狙った。
1990年代にインターネット企業が続々誕生し急成長する。そして意欲的な経営者はメディアとネットの融合を目指し、メディア企業に触手を伸ばした。90年代後半にはソフトバンクがテレビ朝日株を取得、提携を持ち掛けた。ライブドアのニッポン放送株取得後にも楽天がTBS株を取得、統合を目指した。
しかしいずれもテレビ局側の抵抗でとん挫する。テレビは長らくエンターテインメントでも報道でも、さらには企業規模でもメディア界の頂点にあった。それが新興勢力であるネット企業に支配されてたまるかというのが社員たちの共通認識だった。
フジテレビの反発も強かった。そしてその先頭に立ったのが日枝氏だった。当時日枝氏は会長だったが、その間に培った人脈を利用して政界をも巻き込み反対運動を展開していく。最後は北尾吉孝・SBIホールディングス社長がホワイトナイトとして登場。SBIがライブドアの集めたニッポン放送株を引き取る(その後フジサンケイグループに譲渡)ことでフジテレビとライブドアは和解、一件落着となった。
これによりフジサンケイグループにおける日枝氏の影響力はさらに高まった。その力を背景に日枝氏は、二度と同様の事態が起きないよう、資本のねじれ解消に向け動き始める。
こうして2008年に誕生したのが持ち株会社FMHで、フジテレビもニッポン放送も産経新聞社も、すべてFMHの完全子会社となった。日枝氏はFMHおよびフジテレビの会長に就任、フジサンケイグループ代表も務めるなど、名実ともに同グループに君臨する形となった。日枝氏のグループ支配の完成形だ。しかも当時のフジテレビは視聴率三冠王を7年間続ける第二期黄金期を迎えていた。業績的にもFMHは民放各局の中で売り上げ、利益ともにトップにあった。日枝氏の絶頂期だった。
日枝氏は01年には社長の座を村上光一氏に譲り会長に就任。さらに社長の座は豊田晧氏、亀山千広氏へと引き継がれるが、日枝氏は会長にとどまった。18年には会長を退くが取締役には残り、さらには任意団体であるフジサンケイグループ議長の座を死守することでFMHを思うがままに動かし続ける。
その一方でフジテレビは凋落していく。11年に三冠王の座を日本テレビに渡すと、12年にはテレビ朝日に抜かれ15年にはTBSの後塵を拝す。以来民放4位が定着するが、瞬間風速的には万年最下位のテレビ東京に抜かれることもあった。
長期政権が生んだ保守的な企業体質
その原因の一つに日枝氏がいるのは間違いない。会長時代はもちろんだが、退いたあとも日枝氏は人事権に影響を及ぼし続けた。そうなると社員の目は、ユーザーではなく権力者に向いてしまう。その弊害の代表的な例が番組作りも含めすべてに保守的になってしまうことだ。過去の成功体験が大きかったがゆえに、挑戦するよりも焼き直しのような視聴率のある程度見込める安全策に逃げてしまう。そのほうがかつての黄金時代に現場にいた上層部の受けがいいのではと忖度するためだ。
「ゴールデンの番組でけっこう野心的な企画を提案したところ、お前は深夜番組がやりたいのかと言われたことがある」。これは直近までバラエティ番組をやっていたディレクターの言葉だ。またある放送作家は、「フジテレビに企画を持っていっても採用されない。だから面白い企画であればあるほど、まずは他局にもっていく」と証言する。
新しい企画は通らない。それでも視聴率を上げようとすれば、タレントの能力に頼るしかない。そのため制作者は企画力よりもタレントとの関係性を重視する。それが中居事件の根底にあったとしたら、その企業文化を築いた日枝氏が断罪されるのは当然だ。
冒頭に戻ると、FMHとフジテレビは3月末までに役員人事を発表し、第三者委員会は調査結果を発表した。前3月期までにすべての処理を終えることで新年度からのスポンサー確保に結びつけたいという狙いがそこにはある。しかし5月上旬現在、一部のベンチャー企業等は別にして大手企業はいまだCM解禁にはいたっていない。
さらにFMH株の7・2%を持つダルトン・インベストメンツは、企業改革は不十分として、SBIの北尾社長を含む独自の取締役案を提案している。北尾氏は4月に会見を開き、「かつてホワイトナイトを務めたのは失敗だった」と語ると同時にフジテレビ再生に意欲を見せている。
今後FMHとフジテレビがどうなるかは予断を許さない。「日枝さんほどフジテレビを愛している人はいない」とあるOBが言うように、日枝氏のフジテレビ愛は疑うべくもない。しかしそれが結果的には今日の窮地を招いている。今の心境をぜひとも聞きたいところだ。