経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

大塚家具とロッテに共通する親子・兄弟間の「血の相克」 大塚久美子

大塚久美子氏

同族企業の最大の強さは、権力闘争が起きにくいことだ。次の経営トップも一族から選ばれることが分かっていれば、次期社長を巡って派閥同士が争うこともない。しかし時には一族の中で熾烈な抗争が起きることもある。その場合、通常の権力闘争よりはるかに激しく生臭いものとなる。文=松崎隆司(雑誌『経済界』2025年7月号より)

蜜月だった父と娘の間に生まれた亀裂

親子で経営権を争った大塚家具の大塚勝久氏
親子で経営権を争った大塚家具の大塚勝久氏
大塚久美子氏
大塚久美子氏

 一代で起業し大成功を収めた経営者にとって、最大の課題は後継者問題だ。自分が見込んだ人物を後継者に据えることができるかどうかが最後に残された課題だが、なかなかうまくはいかない。ときには下剋上の憂き目を見ることさえある。

 「社長に選んだことが間違いだった。悪い子供を持った」

 娘のクーデターで社長を解職された大塚家具の創業者・大塚勝久氏は、2015年2月25日の会見で、積もりに積もった怒りを爆発させた。この言葉は連日のようにメディアで取り上げられ、経営権を巡る父と娘の争いは世間の注目を集めるようになった。

 久美子社長はちょうど創業40周年にあたる09年に社長に就任以来、波乱の人生を歩んだ。14年7月23日には父親で創業者の大塚勝久会長から社長を解職され、勝久会長が社長を兼務した。さらに翌15年1月28日には久美子氏が取締役会で勝久会長兼社長を社長から解職して社長に復帰した。

 父娘が血で血を洗う争いを繰り返し、勝久会長は2月17日、自身の再任と久美子社長の解任を求める株主提案を明らかにした。

 両者の天王山となったのは3月27日の株主総会。勝久会長と久美子社長は両者の経営権を巡って戦いを展開。株主の軍配は久美子氏に上がった。

 なぜ父と娘の対立がクーデターに発展したのか。

 大塚家具は埼玉県春日部市の箪笥職人の家に生まれた大塚勝久氏が1969年に創業した家具メーカーで、その後高級家具の販売会社として急成長した。

 当初は長男・勝之氏を後継者にと考え、大塚家の資産管理会社で大塚家具の第2位株主、ききょう企画の株式50%(妻の千代子氏、兄弟姉妹には10%ずつ)を渡していた。

 ところが2008年、突然、勝之氏は結婚を両親や兄弟姉妹に反対され、大塚家具を退社。1歳年下の後継者候補が会社を辞めたことで、長女の久美子氏にチャンスが回って来た。そこにインサイダー事件が浮上。勝久氏は責任を取る形で社長を退任して会長に就任し、社長の椅子を長女だった久美子氏に譲った。

 ところがその後経営方針を巡って対立。さらに結婚して子供が生まれた勝之氏を勝久氏が呼び戻したことで、久美子氏と勝久氏との間にある亀裂が深まった。

 そして14年、大幅に営業収益が悪化したことから勝久氏は久美子氏の社長解職を求めた。

 久美子氏もまた、指をくわえて見ているわけにはいかなかった。何が何でも社長に復帰したい。

 そのためにはまず取締役会の実権を握り、目の上のこぶである父親の勝久氏の代表権をはく奪して、社長から引きずり下ろす必要がある。

 そこで取締役会での多数派工作に動き出した。取締役は総勢8人。勝久氏側の取締役は5人。久美子氏側は3人。緊急動議で代表権の役職解任を提案した場合、当事者は特別利害関係人となって議決に参加できないから、決議に参加できるのは勝久氏側4人。この4人の切り崩しに動いた。

 このとき重要な役割を果たしたのが「ききょう企画」だ。当初は勝之氏の影響下にあったが、大塚家具を辞めた後に、久美子氏らの求めに応じて、保有株式を兄弟姉妹で均等に分けてしまった。

 さらに14年1月には母である大塚千代子氏を監査役から、勝之氏を取締役から解任し、実質的に久美子氏が経営権を掌握した。

 そしてこのききょう企画を通して、勝久氏側の社外取締役1人に、勝久氏が行った広告費への出費を止めなかったのは善管注意義務違反があるとして、7億5千万円の損害賠償請求の内容証明を送り、最終的に辞任に追い込んだ。

 さらに三女の娘婿であった勝久陣営の取締役もまた、妹である三女を使って久美子氏陣営が仲間に引き入れ、15年1月28日の取締役会で勝久氏の社長解職を実現した。

 久美子氏はこうして社長に復帰した。社内には動揺が走った。

 大塚家具の筆頭株主でもある勝久氏は翌29日、5人の社外取締役候補者を含む10人の取締役候補者と、社外監査役候補者1人を含む2人の監査役候補者の選任を株主総会の議題として提出した。ところが会社側は、この株主提案を20日間も公表せず、黙殺していた。

 その後も幹部社員たちは何度も何度も勝久氏の元を訪れ、久美子氏に任せていては会社が危うくなるとして、株主総会での委任状争奪戦に立ち上がるよう勝久氏への説得を繰り返したという。

 勝久氏がようやく重い腰を上げたのは、2月25日。14人の幹部社員たちを後ろに従えるかのようにして記者会見を開いたのだ。だが、これは悪手となった。社員を親子げんかに巻き込んでいるかのように見えて、マスコミの批判にさらされたからだ。

 「勝久会長を説得したのは私たち社員です。久美子社長サイドは方針の違いを争点にしていましたが、私たちからすれば、どちらも大して違わない。むしろ重要なのは人柄なんです。だからほぼすべての現場の幹部たちが勝久会長についていくと署名したのです」(店長経験者)

創業者と娘による株主総会の議決権争い

 社長に復帰した久美子氏は手綱を緩めることはなかった。株主総会に向けて、勝久氏の解任の準備を進めた。

 2月に入ると中期経営計画を発表。15年下期までには黒字化を達成し、取締役を5人から4人に減らして社外取締役を2人から6人、監査役を3人から4人に増やしてコーポレートガバナンスを強化。有名大学教授や大手金融機関元役員、弁護士など投資ファンドが喜びそうな華やかなキャリアの人材を登用。株主配当も15年から17年まで40円から80円に引き上げることを約束した。

 一方で勝久氏陣営もまた独自で取締役を選任して株主提案として提示。社員にメールなどで協力を要請。久美子氏側は徹底的なかん口令と“勝久氏側に協力すれば就業規則違反で処罰するからな!”という警告を発した。

 さらに勝久氏はききょう企画に対しても株の返還請求を行ったが、判決は株主総会には間に合わなかった。

 3月11日の株主総会。筆頭株主の勝久氏は350万株(18・04%)、援軍となる妻の千代子氏は37万1千株(1・91%)で計19・95%。久美子氏側はききょう企画の保有株が198万2千株(9・75%)で、久美子氏側を支持したブランデス・インベストメント・パートナーズLPが199万5千株(10・29%)で計20・04%、ほぼ互角の戦いとなった。

 しかし安定株主工作には苦労した。従業員持株会は会社提案、株主提案の双方を選ぶことができずに自主投票に切り替えたが、久美子氏側は水面下で就業規則などを持ちだし、社員株主の抑え込みを図った。

 日本生命、東京海上日動火災、三井住友銀行など金融機関は株主総会まで判断を保留した。 

 「安定株主というのは企業を守るために株を保有しているので、原則会社案を支持するものですが、結論がつけられずに会場で決めることになった」(大手金融関係者)

 結果的には久美子氏側が勝利し、勝久氏を取締役から解任することに成功するのだが、その後大塚家具は転落の一途をたどることになる。

 勝久氏はその後、自分を支持した社員たちを守るために匠大塚を設立したが、大塚家具に目の敵にされる。立ち上げて育てた大塚家具については、すでに自ら乗り出したとしても、再建は難しい状況になっていた。

 結局、大塚家具は自力再建を断念、家電量販トップのヤマダ電機の傘下に入った。久美子氏は当初、山田昇・ヤマダホールディングス会長から大塚家具の経営立て直しを託されたが結果を出せず、20年12月1日、社長を退任。久美子氏は05年に自らが設立したコンサルティング会社、クオリア・コンサルティングの代表取締役を務めている。

 大塚家による大塚家具の同族経営は父娘の対立を経て、終焉を迎えた。

次男が長男を解職したロッテ

ロッテ創業者・重光武雄氏
ロッテ創業者・重光武雄氏
ロッテ創業者・重光武雄氏(左)の地位を奪った重光昭夫氏
ロッテ創業者・重光武雄氏(左)の地位を奪った重光昭夫氏

 大塚家具で社内クーデターが勃発したちょうど同じ時期にもう一つのクーデターが起こっていた。日韓にまたがる巨大財閥、ロッテグループ内で起こったクーデターだ。

 ロッテグループは朝鮮半島出身の重光武雄氏が戦前来日して一代で築いた日本を代表する製菓メーカーがその出発点となる。その後、韓国に逆進出し、ホテル、百貨店、石油化学、コンビニエンスストア、アミューズメント施設、不動産・建設などさまざまな分野で頭角を現し、韓国5大財閥の一角にのし上がった。

 ロッテグループの株式構成は非常に複雑で全体像を把握することは容易ではないが、実態は日本のロッテホールディングスが日韓ロッテグループの持株会社となり、全体を支配していた。

 頂点には、総括会長である武雄氏が君臨。武雄氏は一切の人事権を握り、表面的には株式会社としての体をとりながらも、実際は“重光商店”としてワンマン経営を続けていた。

 そして長い間、日韓を行き来するシャトル経営を行っていたが、東日本大震災以降は高齢と地震嫌いが重なって日本から足が遠のき、ソウルにあるロッテホテル34階にある総括会長執務室で過ごすようになった。そのため武雄氏本人が日本の経営を直接見聞きすることなく、ロッテHDの社長である佃孝之氏が経営状況を報告する体制になっていた。

 「佃のいうことに逆らっているようだな。クビだ。辞めろ」

 14年12月17日、武雄氏はこぶしを振り上げて当時ロッテHD副会長を務めていた長男の宏之氏に対して怒りをぶちまけた。

 このとき宏之氏は武雄氏が何に激怒しているのか、全く分からなかったという。

 その後12月19日には、宏之氏解任を主導する取締役らがロッテHDの常務取締役以上の取締役を連れてソウルで武雄氏と面会する。その場で、宏之氏への「クビ発言」の言質がとれたとして、22日には宏之氏のいないロッテHDの取締役会で宏之氏が取締役を務める26社の辞任届を用意し、辞任を求めることになる。

 なぜ宏之氏が狙われたのか。ロッテHDの筆頭株主は、武雄氏が社長を務める重光家の資産管理会社である光潤社(31・49%)。31・06%の株式を持つ第2位株主であるロッテグループ従業員持株会の議決権は理事長一任だが、理事長は武雄氏の影響下にある人事担当部長が務めることになっており、武雄氏が事実上過半数の株式を掌握していた。

 宏之氏はロッテHDの株式を個人では1・98%しかもっていなかったが、グループ企業の一人取締役や代表取締役を務めることで4割近い株を握っており、光潤社の株式も50%保有していた。武雄氏に何かがあれば、ロッテHDは宏之氏が総帥になる仕組みになっていた。しかしロッテHDがグループ企業の株式を保有していたことから、宏之氏をロッテHDから追い出し、取締役会の実権を握れば、光潤社を除くロッテHDの主要株主を掌握することができるわけだ。

 このときクーデターの中心となったのが、宏之氏の実弟で、韓国ロッテ会長とロッテHDの取締役副会長であった重光昭夫氏、佃氏、そして専務取締役兼CFO小林正元氏の3人。武雄氏が激高したのも佃氏や小林氏が、宏之氏が進めていたIT事業の予算超過を、会社の規則に従わずに推進し、8億円の損失を出したと騒ぎたてたからだ。

 宏之氏は26日のロッテHDの取締役会では副会長を解職され、その後グループ26社の取締役も解任。

 そして翌年の1月8日に迎えたロッテHDの株主総会。ここで宏之氏がロッテHDの取締役を解任された。

日韓を股にかけた壮大なる家族喧嘩

 問題は宏之氏だけにとどまらなかった。宏之氏はその後武雄氏の誤解を解き、武雄氏は重光昭夫氏、佃氏、小林氏の裏切りに気づく。7月3日、武雄氏は、営業報告会に佃氏と小林氏をソウルに呼び出し、佃氏にクビを宣言。この場で佃は辞任を了承した。8日には中国事業における巨額損失を隠していたことが発覚した昭夫氏に「経営者の才能がない」と引導を渡した。

 しかし佃氏は日本に戻ると、武雄氏の指示を無視。昭夫氏は15日に武雄氏の了解もなく勝手に取締役副会長から代表取締役副会長に就任してしまう。

 これまで宏之氏という武雄氏の代理人がいたからこそ、それが重しとなって武雄氏は剛腕経営を続けてこられたが、宏之氏が解任された以上、韓国からの神通力はきかない。

 こうした事態を見かねてさすがの武雄氏も7月27日には宏之氏を引き連れて極秘で来日。新宿区初台のロッテHD本社で、昭夫氏を含む造反取締役6人の職務停止と後日株主総会を開いて解任することを申し渡した。

 ところが翌28日、造反取締役らは、ロッテHDの臨時取締役会を開き、武雄氏の代表権をはく奪、会長から名誉会長に棚上げしてしまった。

 その後のロッテは、韓国で重光昭夫氏が刑事事件で有罪判決を受けるなど不祥事が続出し、さらに、韓国ロッテグループの収益の柱だった小売事業、石油化学事業が傾き、業績不振とリストラが何年も繰り返されるなど、いまも迷走が続く。

 武雄氏は20年1月18日、享年98歳で他界したが、宏之氏は光潤社の社長として今も闘い続けている。