開業135年を迎えた帝国ホテル。これまで日本のホテル業界をリードし続けてきたが、昨今ではインバウンドブームもあり、海外の有名ブランドホテルの開業も相次いでいる。その中で、いかに帝国ホテルらしさを維持するのか。2025年4月に就任した風間淳社長に聞いた。聞き手=関 慎夫 Photo=山内信也(雑誌『経済界』2026年1月号より)
風間 淳 帝国ホテルのプロフィール

かざま・じゅん 1962年12月生まれ。86年明治大学商学部を卒業し帝国ホテル入社。 2011 年ホテル事業統括部長、14年執行役員、15年取締役、20年常務、23年専務を経て、25年4月1日付で社長に就任した。
135年で蓄積された帝国ホテルのDNA
―― 2025年11月3日、帝国ホテルは開業135年を迎えました。
風間 私自身は135という数字に特別な感情を持っているわけではありません。私がずっといたわけでもなく(笑)、開業の頃のことは写真や資料で知っているにすぎません。しかしながら、135年の積み重ねの意味は非常に重く受け止めていますし、これが従業員一人一人のDNAのようにもなっていると感じることもあります。
東日本大震災の時もそうでした。上からの指示があったわけでもないのに社員が一人一人考えてお客さまに対して最善の対応を取っていました。関東大震災の時に、竣工したばかりのライト館で炊き出しをしたという記録が残っていますが、それを教訓とし、いつの時代でも、お客さまのために何ができるのか考えてきたからこそ、135年の歴史を紡ぐことができたのだと思います。
コロナの時は一部の客室以外館内の営業がストップ、再開するにはリスクを最小限に抑えなければなりません。そこで社員に対してアイデアを募りました。そうしたところ、社員数は約2千人なのですが、5千通を超えるアイデアが寄せられました。これは、募集したから考えたというより、常日頃からお客さまに何ができるかを考えていた結果だと思います。そして実際、寄せられたアイデアは非常に役に立ちました。
その根底にあるのはホスピタリティの精神です。日常の接客だけであれば、マニュアルに落とし込むことも可能かもしれません。でも何かあった時、地震のような非常時だけでなく、お客さまの小さなトラブルなど細かいことは、マニュアル化はできません。その時その時、お客さまに喜んでいただくにはどうすればいいかを考える。
当然、社員教育は行っていますが、日常業務から学ぶことの方がはるかに大きい。つまりお客さまに鍛えていただいている。それによって私たちのサービスレベルが上がれば、お客さまはまた利用してくださるのでホテルの経営にもプラスになる。この相乗効果です。
―― 利用者へのお役立ちを表彰する制度があると聞きました。
風間 「さすが帝国ホテル推進活動」ですね。お客さまの期待を上回るサービスを提供し、お客さまから「さすが帝国ホテル」という評価をいただくことを目的として、1999年にスタートしました。お客さまからお褒めの言葉をいただいた事例を募集して、優秀者を表彰しています。
―― 「さすが」というネーミングがユニークです。
風間 おかげさまで帝国ホテルは長い間にわたり多くの人から愛され、評価もされてきました。ただし期待が大きいだけに、ちょっとした小さなことでも「帝国ホテルともあろうものが」というお叱りにつながります。お叱りをいただくことはある程度仕方のないことなのですが、だからこそ「さすが帝国ホテル」と言われるようにしよう、というのがこの運動の原点です。
お客さまに褒められた事例や、部署内で良い行いと認められたことを、上長が推薦文とともに人事に提出します。そうやって集まったものを全部長が集まって審査し表彰者が決まります。表彰された人のところへは社長がその部署の事務所まで行って表彰状と金一封を渡します。これを毎月行い、年に1回、全社員の投票による年間大賞を決めて表彰式を行っています。審査から表彰までのプロセスを通して好事例が全社に共有され、新たなサービススタンダードが作られていくのです。
―― 最近、印象に残っているのはどんな「さすが」ですか。
風間 2024年度の年間大賞は日本料理「寅黒」の女性スタッフです。インバウンドが増えて中国からのお客さまも多くいらっしゃるようになりました。そこで彼女が料理や器、調理法などを中国語で説明する資料を用意したところ、中国のお客さまはとても喜んでくださりました。もちろんこれは自発的に彼女がやったことです。
初の京都出店の建物は祇園の登録有形文化財
―― 26年3月5日に帝国ホテル京都が開業すると発表しました。帝国ホテルの新ホテルは30年ぶりです。
風間 帝国ホテルにとっては初の京都出店です。京都の祇園に歌舞練場があり、その敷地内に隣接するのが「弥栄会館」です。国の登録有形文化財であるこの建物のシルエットや建築意匠を継承しながら、祇園の歴史的景観と調和した全55室のラグジュアリーホテルです。
―― 縁のなかった京都で、よくそんな歴史ある建物を使えましたね。
風間 京都への出店は10年以上前から考えていました。東山、北山、嵐山などでも検討したのですが、どこも立地としては一長一短あり、なかなか思うようにはいきませんでした。そうした中、祇園から声をかけていただきました。弥栄会館は竣工から間もなく90年がたちます。隣接する歌舞練場の耐震補強費用なども確保しなければならない。そうした点で利害が一致しました。
われわれは歌舞練場を持つ祇園甲部とは当社のイベント「東西おどり」を通じてお付き合いがあります。これは「都をどり」の京都祇園甲部の芸舞妓と「東をどり」の東京新橋の芸者が帝国ホテルの宴会場で踊りを披露する会で、25年で15回を数えました。そうした縁もあったからだと思います。
―― 東京でも建て替えが迫っています。36年までにタワー館と本館それぞれを建て替える計画です。
風間 帝国ホテルは海外からいらっしゃる要人の迎賓館としての役割を担っています。要人の多くはスイートのお部屋に泊まります。スイートは他の国際的なホテルと比べても十分な広さと数です。しかし一般的な部屋は30平方メートルや40平方メートルですが、他の新設ホテルでは50平方メートル以上のところが多い。当社も改装などを行い備品類は新しくしていますが、部屋の広さについては、他のホテルに比べて競争力が落ちてしまう。それもあって建て替えに踏み切ることにしたのです。
帝国ホテルだからこそのグランドホテルへのこだわり
―― 最近都内に誕生した高級ホテルはほぼ宿泊に特化しています。でも帝国ホテルはそうではないですね。
風間 皆さん、帝国ホテルといえばメインは宿泊だと思っているでしょう。確かにその通りで、よい宿泊を提供できなければホテルと呼んではもらえません。
同時に帝国ホテルの評価を高めているのは宴会場部門によるところも非常に大きい。特に政財界の方を中心にステータスの高い方々に多くご利用いただいています。それはこれからも大切にしていきます。
宿泊特化などのほうが収益は上げやすいかもしれませんが、それは帝国ホテルのサービスではありません。帝国ホテルはグランドホテルです。宿泊、飲食、宴会など、さまざまな機能を兼ね備えて、皆さまの暮らし、あるいは文化の向上に寄与していく。それが帝国ホテルの企業理念として掲げている以上は当然だと考えています。そして建て替えによって新しい付加価値を生み出していく。そうでなければ意味がありません。
―― 問題は人手不足や資材高騰などで工事に遅れが出ていることです。建て替えは決算に与える影響も大きく、前3月期は9割減益でした。遅れればさらに収益が悪化します。
風間 スケジュールは少し押しています。今言えるのは、少しでもいい方向に向かえるよう努力しているということです。
今日本経済は大きな転換点だと思います。金利のない世界から金利のある世界へと大きく舵を切りました。ですからこれまでのスキームを見直す必要があります。インフレーションにはさまざまな問題がありますが、経済が動き始めていることの一つの証拠です。そういう中で新しい帝国ホテルはどうあるべきか、しっかりと考えていきたいと思います。
―― 風間さんは、帝国ホテル史上初の総支配人を経験していない社長です。そのため建て替えのために社長になったと言われています。自らの強みをどう見ていますか。
風間 私は入社して1年半ほどはフロントに立っていましたが、そこからは経理や人事、営業部で個人・法人の宴会部門に携わったあと、ホテル事業統括部長という、ホテルのオペレーション部門を全部束ねる仕事に就きました。さらに再開発の担当やコーポレート部門である企画部長なども経験しています。ホテルの現場の人たちは、総支配人を中心に目の前のお客さまのことを考える。それはそれでとても大切なことですが、私はさまざまな部署を経験している分だけ、帝国ホテルのことを多面的に見ることができるように思います。それがこのような変化の時代に多少なりとも役に立てばいいですね。
―― このような経歴を入社時に描いていましたか。
風間 実は描いていました。別にホテルマンとしてお客さまと接したくないというわけではありませんし、向き不向きで言えばむしろ向いていると思います。しかし、そもそも私自身はホテルという産業に興味があった。だから明治大学3年の時には立教大学のホテル観光講座に通っています。
―― 最初から立教大学観光学部に進学という選択肢もあったでしょう。
風間 それもありだったかもしれませんが、結果から言えば明治の商学部でよかった。観光だけでなくビジネスそのものを学ぶことができましたから。しかも立教でホテルのことを学べた。ですから大学時代すでにFBC(フード・アンド・ビバレッジ・コスト・コントロール=料飲原価管理)の内容や、米国ホテル会計基準も知っていました。日本のホテルの総資本回転率が非常に低いといった、日本のホテル業が抱える問題点も理解していました。そのため何か語る時には感覚ではなく数字で語ろうとは考えていました。自分で希望したわけではないのに経理に配属になったのはそのためでしょうね。
ホテルマン人生を変えたブライダル部門への異動
―― 配属にあたって希望を出したことはありますか。
風間 一度もありません。
―― 戸惑う異動もあったでしょう。
風間 人事部の後に営業部でブライダル担当になった時ですね。それまで宴会営業なんてやったことないわけですから。コースから外されたのかな? とさえ思いました(笑)。
当時のブライダル部門は厳しい状況でした。それを立て直せという。そこで適齢期の女性ユーザーにマーケットリサーチを行い、経営陣に問題点を提出しました。例えば静かなところで挙式したいのにロビーが年配のお客さまばかりで落ち着かない。そんな声がたくさん出てきましたのでそれを一つずつつぶしていく。
その一方でブライダルの現場の社員からは、こうしたいという意見を集め、それを可能な限り実行する。特に新郎新婦の動線のところは徹底的に見直しました。カトラリーやテーブルクロスも変え、パンフレットもおしゃれなものに作り替えた。
私の仕事はブライダルの女性社員たちから上がってきたものを、上に通して予算を獲得することでした。何度もぶつかりましたが、特に記憶に残っているのが、「帝国ホテル」の表示を「IMPERIAL HOTEL」に変えることでした。若い女性に対して、漢字とカタカナはウケが悪い。リサーチ結果をもとに説得し、了承してもらいました。それが数字に結び付いてくると、マネジメント側も私ではなく女性社員から直接、企画を聞くようになりました。
神風も吹きました。1年ほどたった時に、黒田慶樹様と清子様が帝国ホテル東京で挙式することが決まりました。自分たちとしては改革の手応えを感じていたところにこの慶事です。これもあって一時は年間950件を割っていた挙式件数が1273件にまで増えました。
―― 運も実力のうちです。
風間 私のような素人を営業部に配置した会社もすごいですが、その中で必死に頑張っていると、何かをきっかけにポンと跳ね上がることがあることを身をもって知ることができました。何よりありがたかったのは、無茶ばかりいう私を常に守ってくれる人たちがいたことです。会長の定保(英弥氏)もその一人です。ブライダル改革がうまくいかなければ、私の帝国ホテルマン人生は続かないだろうと思っていました。でもこの人たちのおかげで、今の自分がある。感謝してもしきれませんね。


建築家・田根剛氏による帝国ホテル東京新本館イメージパース

