水辺に都市や文化が栄えた例は枚挙にいとまがない。水の周りに人が集まり、そこに都市ができる理由は何なのか。実際に日本における水辺の都市開発はどのように進んでいるのか。事例を交えて紹介する。取材=『経済界』編集部 Photo=Hiroshi Aoki |
水辺に都市と文化が栄えた要因とは
物質的な要因と精神的な要因
まずは、アジアの都市・建築史に詳しい高村雅彦・法政大学教授に、水の周りに人が集まり都市ができる理由について聞いた。
―― 都市や文化はなぜ水辺に栄えるのでしょうか。
高村 大きく2つの要因があります。
まず1つは、物質的な要因です。簡単に言えば水を獲得できないと人は生きていけないからです。食料の生産活動や物流のための舟運など、水は人々の生活と密接しています。人類は地球上に生まれたときから、水辺に寄り添って都市をつくってきました。その歴史の中で水に親しむ文化も育まれてきたのです。
2つ目は、精神的な要因です。水辺というのは自然環境の影響を強く受けるため、人が暮らすには不安定な場所です。しかし不安定なエリアだからこそ、時の権力者たちも手を付けられずにいました。水辺は権力の空白地帯だったのです。
権力者の支配が及ばない水辺には娯楽文化が花開きました。洛中洛外図屏風にも描かれているように、中世から京都では鴨川沿いに芝居小屋がずらりと並びました。東京も同じで、江戸時代初期の街の様子を描いた江戸図屏風には、現在の新橋周辺の水辺に芝居小屋が並んでいる風景が描かれています。
こうして水辺は、享楽的な場所としての役目も果たし文化を生む土壌となることで、人が集まり都市は栄えてきました。
―― 水辺は人々のコミュニティにも影響を与えますか。
高村 水辺はコミュニティを生み出します。かつて宿船というものがあり、船の中で寝泊まりしている人たちがいました。決して貧乏で陸上に家を持てないのではなく、舟運が盛んで陸に上がる必要がなかったからです。
特に現在の東京都港区の芝周辺などには多くいたようで、水上居住者用の小学校や警察もできました。ちなみに箱崎には水上居住者用の役所まであったようです。
同時に水辺で生きるということは水害と隣り合わせです。人々は水害をはじめとする災害を恐れ、神様に畏敬の念を抱くことで信仰も生まれました。
日本には、水に神性を見いだす慣習が数多くあります。例えば、神輿を担いで海に入る「海中渡御(かいちゅうとぎょ)」や、船に神様を乗せて川や海を渡す「船
渡御(ふなとぎょ)」という神事があります。
水と共生するために実践的な生活の知恵も蓄積してきました。埼玉県の行田市など荒川流域の土地が低い地域では、農家の人たちが土地を盛って「水塚(みづか)」という水防施設を作り、洪水に備える文化があります。木製の船を常備する家もあり、非常時にはそれを使って避難するのです。
ちなみに今から15年くらい前に行田市に行った際にも船を持っているご家庭がありました。
産業発展と都市開発で水辺が暮らしから遠ざかる
―― 現代の日本は暮らしの中で水辺を目にする機会が少ないように感じます。
高村 人類は水と共に生きる術を蓄積してきましたが、産業や都市開発の技術が発達した現代は、人々の暮らしから水辺が失われつつあります。
例えば前回の東京五輪が開催された1960年代を境に、東京に住む人々は水辺に関心を持たなくなっていきました。工業化に伴い沿岸エリアに倉庫が数多く立ち並ぶようになり、同時期には、羽田空港の拡張や、首都高速道路の建設により、陸・空での交通網が発達しました。
また、鉄道が東京都の西側へどんどんと延伸し、人々の生活の場が水辺から山の手の方へ遠ざかっていきました。
当時の東京五輪は、近代都市・東京を世界に示すことが目的でしたから、そういう意味では成功だったといえます。しかし、世界に近代都市を標榜できたのと裏腹に、水が人々の手から失われていった時代でもありました。
お台場の水辺開発から見えるヒント
―― これから都市をよみがえらせるポイントは何でしょうか。
高村 日本は人口減少社会に入りましたので、都市は新規開発するものではなく、既にある資産を活用して利益を生み出すフェーズになりました。ここで重要なのは、その土地の持つ歴史や土地の地形・地質的な特徴である「場所性」を生かすことです。
東京における水辺の開発というと80年代後半のお台場が象徴的です。一般的には失敗だと言われることも多いですが、むしろお台場の事例にこそヒントがあります。
まず、お台場というのは江戸時代の産物で、黒船来航に備えて建設されたのが由来です。お台場の方から東京都心を眺めてみると、日の出や竹芝の桟橋が見えます。これは大正から昭和の戦前期に各財閥が船をつけて荷物を出し入れするために作った埠頭であり、近代の産物です。
昭和戦前期までの東京は、大きな船で東京湾から隅田川へ入り、そこから小さな船に荷を積み替えてさらに細い水路に入り荷物を運ぶ「内航港システム」が機能しており、たくさんの船が行き交っていました。日の出や竹芝の埠頭はそうした時代の痕跡を現代に残しています。
さらに日の出や竹芝の埠頭の奥には東京タワーが見えます。これは高度成長期の象徴です。東京タワーの左側に視線を移すと品川にある日本初のコンテナ埠頭が見えます。そしてお台場と芝浦エリアを結ぶレインボーブリッジは平成初期に開通したものです。
このような土地の歴史を背景に、吾妻橋や金杉橋から屋形船がきて、お台場の内海に停泊しながら宴会をする。お台場はいろんな時代の痕跡がひとつの空間に積層しているエリアであり、場所性を強く表現している開発ケースです。
人類はできるだけこうした土地の性質を生かして生活を営んできており、人々の暮らしと水は深く結び付いてきました。水の都市を人間の手に取り戻す時代が再び来ているのだと思います。
水辺の都市開発事例①―日本橋
現在の東京・日本橋は、江戸幕府の頃には五街道の起点として、また水運の拠点として大きく賑わっていた。時代の流れとともに少しずつ衰退してしまっていたが、その日本橋エリアの再開発が急ピッチで進んでいる。 |
東京五輪を契機に水都「日本橋」が復活へ
「日本橋から空が消えた」と言われたのは、前回の東京オリンピックの前年である1963年のこと。日本橋の上に首都高環状線が架かり、晴れの日でも日本橋には太陽の光が差し込まなくなった。高度経済成長期の弊害も相まって、川にはヘドロが堆積して悪臭を放つようになった。
だが再び開催される2020年の東京五輪のタイミングで、「日本橋は空を取り戻す」計画が動き出している。東京都の都市計画審議会は19年9月、日本橋エリアの首都高を地下に移設する計画を承認。五輪後の着工を目指してトンネル設計は進められており、その工期は10~20年程度になると見込まれている。
「日本橋が空を取り戻す」ということは、日本橋が川を取り戻すことでもあり、それはまた、かつての水都の復活にもつながる。
江戸時代の水都を再生し水運を新たな交通手段に
江戸時代の日本橋エリアは、四方を川に囲まれる水都だった。その川の一つである日本橋川は水運の役割を担い、川沿いには魚河岸が設けられた。舟で運ばれてきた魚介や海藻が陸揚げされ、問屋はその魚や海藻を小売店、料理屋、行商人などに売りさばく。しかし時を経て、1923年の関東大震災と45年の東京大空襲で大きな被害を受け、その復興のために魚河岸は築地へ移転し、日本橋川の水運は姿を消す。
だが、当時の水運を現代によみがえらせる取り組みが進むとともに、2011年には日本橋船着場が完成。日本橋エリアを流れる川が、再び注目を集め始めている。
日本橋船着場からは現在、江戸城の石垣や聖橋・万世橋などの橋をめぐる定期観光便「神田川クルーズ」や、晴海運河~東京湾で日の入りを見る企画便「サンセットクルーズ」など、数々の観光クルーズが出ている。三井不動産の日本橋街づくり推進部長・七尾克久氏によれば、「今では日本橋船着場を活用した水運観光の累計利用者が50万人を超え、都心で潤いを感じられる観光コンテンツとして定着」しつつあるという。
水運には、日常における新たな交通手段としての可能性も広がっている。「まだ本数は少ないですが、浅草や豊洲への定期便が出ていて、通勤など日常的な交通の足として水運が使えないか検討が進んでいます。東京都は今年の夏、朝の通勤時間帯に日本橋―勝どき間に船を出し、実際に通勤に使えるかの実証実験を行いましたが、利用者からは『ゆったり座って通勤できる』『朝からリフレッシュできる』などと評価は高かったようです」と七尾氏は説明する。
また日本橋が川を取り戻すと、水運がよみがえるだけでなく、水辺には歩行者が集える空間が新たに生まれる。
現在、まだ「空が消えた」状態の日本橋では、川沿いに建っているビルはほとんどが川に背を向けている。川の周辺は薄暗く、人がくつろぎながら歩ける環境とは言いがたい。しかし日本橋川の上に架かっている首都高が地下に移設され、建物の再開発が実現されれば、川沿いには明るい空間が誕生する。
水辺の開発と路地の再生がつながる
パリやシンガポール、ニューヨークなどの街を見ても、水辺は人々の生活に潤いをもたらす場として機能してきた。
「今の日本橋の水辺は、人が川沿いを歩いたり、ベンチに座って休んだり、川を見ながら食事をしたりするような空間にはなっていません。しかし日本橋の再開発の中では街を川に対して開いていくことで、水辺という貴重な資産を生かせるようにしたいと考えています」(七尾氏)。
川の周辺がオープンな空間になると、歩いたりジョギングするために人々は集まり、街には風が通るようになる。広々とした明るい屋外広場では、さまざまなイベントを開催できる。こうして水辺が活性化すれば、日本橋の路地と水辺とを結ぶ人の流れが新たに生まれる。
1990年代の日本橋エリアはさびれていた。しかし2004年にはコレド日本橋、05年には日本橋エリアのランドマーク・日本橋三井タワー、10年にはコレド室町1などが開業し、また18年には日本橋三越本店がリニューアルした。
施設が面的に広がるとともに、日本橋も再び活気を帯びてきている。ビルの間に設けられた屋外オープンスペースには一息入れる人々の姿があり、さらに路地に足を踏み入れると、所々におしゃれな飲食店が登場しており、ランチ時には近くで働いているビジネスマンや買い物客で賑わっている。
「日本橋には12本の路地がありますが、それは歴史の名残りであり、魅力だと思います。その路地空間にも磨きをかけていきたいです。水辺の開発と路地の再生はつながっています」と七尾氏は語る。
路地での楽しみが充実し、水辺が開けて日本橋船着場が日常の交通手段として使わるようになれば、地元住民やビジネスマン、観光客、買い物客らによる、水辺から路地、そして路地から水辺へと、人の動きが循環し始める。
街の再開発には時間がかかる。首都高が完全に移設されて「日本橋が空を取り戻す」まで、これから10年、20年単位での年月の経過が必要だ。だがその先には、水辺と共生する明るい日本橋の姿が待ち受けている。
水辺の都市開発事例②―大阪
日本有数の観光都市・大阪。近年は特にインバウンドが活況で、ミナミの戎橋周辺にはグリコポーズで記念撮影をする姿や、たこ焼きをほおばる人など、大阪を満喫する外国人観光客でごった返している。そんな観光人気の裏には、水辺を生かした街づくりがあった。 |
芸能の街は水都だった
大阪といえば江戸時代から芸能の街として栄えてきた。現在もエンタメの中心地としてにぎわうミナミのメインストリート「道頓堀商店街」を見てみると、道頓堀川がミナミの賑わいに一役買っていた痕跡が窺える。
メインストリートの両側にはたくさんの店が並ぶが、道頓堀川側にある店は、通りの反対側にある店と比べて間口が小さく敷地もせまい。これはかつて道頓堀川側には船着き場を備えた小料理屋があり、反対側には大きな劇場があった名残である。江戸時代の人々は、船で道頓堀川からそのまま小料理屋につけ、そこで一休みしてから向かいの劇場に遊びに行っていた。
時代が下り戦後の高度経済成長期になると、大阪でも多くの川が埋め立てられた。この頃から、川に背を向けてビルが建設されることが増え、川の水質は悪化しヘドロがたまった。1985年、阪神タイガースのリーグ優勝に興奮したファンが道頓堀川に投げ込んだ「カーネルサンダース像」が、23年半もの間見つかることがなかったという話は有名だ。
水辺の都市としての輝きにも影を落とした時代があったが、90年代に入ると、海や川と共にある大阪を再生させようと大阪府や大阪市、関西経済界を中心に水都大阪再生への取り組みが動き出した。2001年にはそうした取り組みが国の都市再生プロジェクトに指定され、それから18年、行政・企業・市民が連携し、水都大阪の再生を推進してきた。
「大阪には水と共に生きてきた歴史があります。毎年7月下旬には、日本3大祭のひとつで1千年以上の歴史を持つといわれる『天神祭』が行われ、大川には100艘以上の船が並びます。こうした歴史や文化をバックボーンにして大阪の魅力を高めようという思いから、水を生かした街づくりに励んでいます」。近藤博宣・大阪商工会議所常務理事は大阪の取り組みをそう説明する。
水辺がエンタメの宝庫となる
大阪の水を生かした街づくりの特徴は、歴史的な背景や地理を活用して、エンタメ性の高い観光の目玉をつくりだすところにある。
歴史を活用したエンタメスポットの代表例は大阪市中央区にある八軒家浜の開発である。八軒家浜は、平安時代には京都から舟で来た人々が熊野古道へ発つ起点として、また江戸時代には京都と大阪を結ぶ淀川の運送ターミナルとして機能していたが、時代の変化と共に舟運が使われなくなると、かつてのにぎわいは鳴りをひそめた。
しかし、08年に船着き場と水陸交通の結節する「川の駅」を整備したことで観光のターミナルとして生まれ変わった。その後も、市内遊覧船の発券待合所やカフェ、ウエディング会場も備えたフレンチレストランがオープンするなど、大阪観光の拠点となっている。
地理的な特徴をエンタメに活用した代表例は、観光クルーズである。大阪は都心をロの字に川で囲まれており、その特徴的な地形は「水の回廊」と呼ばれる。この環境を生かして多彩なクルーズ船が運行し、落語家が大阪の街並みを案内してくれる「なにわ探検クルーズ」など、観光客から人気を集めている。
こうした取り組みもあり、15年に716万人だった大阪府を訪れた外国人観光客は、18年には1142万人に達した。その勢いは衰えることなく、大阪観光局の発表によれば、今年1~6月までに大阪を訪れた外国人観光客は623万人に達した。
現在の水辺を生かした街づくりの構想は12年に策定された「大阪都市魅力創造戦略」に基づいており、そこでは20年度までの構想が示されている。21年度以降は現在検討中としながらも、25年に開催を控えた日本国際博覧会に大阪の水辺がどう関わるのかについて近藤氏はこう語った。
「万博のテーマは“いのち輝く未来社会のデザイン”で、ライフサイエンスなど世界最先端テクノロジーの実験場となるはずです。他方、国内外から多くの方がいらっしゃると期待していますので、エンタメ、食、歴史や文化、買い物などさまざまなコンテンツに水の要素をかけ合わせていくことで大阪の魅力を味わってもらいたいです」
水辺を生かした街づくりによって大阪の風景は劇的に変化し、日本を代表する観光都市となった。東京オリンピックが開催される来年には観光客1300万人を目標に掲げている。その後も25年に向けて、万博が開催される夢洲や関西の玄関口である関西空港があるベイエリアとの連動を活性化することで、水都大阪はさらにその姿を大きく変化させていくだろう。
水辺の都市開発事例③―名古屋・堀川
名古屋城の北側から西側へ回り込むように流れ、名古屋市の中心部を縦断する堀川という川がある。かつては産業の路としての役目を担ったこの川は、経済的な発展の裏で水質汚染が深刻化し、次第に住人たちは目を背けていった。ところが今、そんな堀川に活気が戻り始めている。堀川復活で名古屋はどう変わったのか。 |
名古屋発展の礎 産業の大動脈・堀川
堀川の歴史は名古屋発展の歴史でもある。かつて愛知県西部が尾張国と呼ばれていた頃、その中心地は現在の愛知県清洲市にあった。清州は織田信長の居城、清州城があったことでも知られる。しかし土地が低く水攻めに弱いという弱点を抱えていたこともあり、1586年に中部地区で発生した大地震により清州城周辺が液状化してしまう。そこで徳川家康は1609年、清州から現在の名古屋に都市を移転させる「清州越し」を発案した。
清洲越しでは新たに城を築城することとなり、城下町の生活物資を運搬する運河が必要になった。福島正則が徳川家康から命を受け、1610年に開削したのが堀川である。以後、堀川を大動脈にして名古屋は発展してきた。
愛知県の産業といえば瀬戸市で生産される陶磁器「瀬戸焼」が有名だ。堀川は瀬戸焼の出荷にも活用された。1976年に廃止されるまで、名古屋城外堀の南西部、景雲橋という橋の近くには、名古屋鉄道瀬戸線の堀川駅があり、瀬戸焼はここまで鉄道で運ばれた後、船に乗せ換えられて日本各地に出荷されていた。
その後も、名古屋湾と名古屋市中心部を結ぶ堀川は、昭和初期まで産業の大動脈として重宝されていた。ところが日本が高度経済成長期を迎えた60年代から70年代にかけて鉄道や高速道路など陸上交通が発達し、堀川は産業の大動脈としての機能を徐々に失っていく。
その頃の名古屋市は人口が増加し、工場も増えていった。それに伴い生活排水と工場排水が堀川に流れ込み、水質が悪化していった。
「堀川が貨物輸送の機能を失ったため人々の関心が薄くなり、水質の悪化が大きな問題として取り上げられることはありませんでした。汚れた川はさらに住人から目を背けられるようになります。こうした負の連鎖により、かつての産業の大動脈は水質悪化の一途を辿ったのです」。名古屋市緑政土木局の河川部河川計画課主査・渡邉剛氏は堀川の変遷をそう語る。
しかし80年代以降、周辺住民たちから堀川をもっと大事にしようという声が上がり、名古屋市も堀川の再生に取り組み始めた。86年に名古屋市が市政100周年を迎えた際は、記念事業として堀川の河川改修事業が採択され、89年には「堀川総合整備構想」を策定。整備構想で示された再生のテーマは「うるおいと活気の都市軸・堀川の再生」だ。
ここから堀川を新たな名古屋の軸にする取り組みがさらに盛り上がっていった。
きれいな川を取り戻す 名古屋市の挑戦
2007年には堀川の管理権限が愛知県から名古屋市に移った。従来は河川の管理を愛知県が行い、まちづくりを名古屋市が担うという役割分担だったが、これにより一層名古屋のまちづくりに堀川再生を活用することができるようになった。
堀川の浄化に向け、川底のヘドロ除去や下水環境の整備、水源の確保を進めるなか、12年には、民産学官の協働によって、堀川ににぎわいを創出し、その魅力を発信するための指針である「堀川まちづくり構想」がスタートした。
渡邉氏によれば、名古屋市は堀川の再生において水辺を市民の生活の中に取り戻す「親水」の観点を重要視しているという。水質汚染によって地域住民から目を背けられた堀川を再び市民の生活の中に取り戻すことで、名古屋全体にうるおいと活気を与える都市の軸にしようという狙いがある。
堀川再生への意識は、市民の間でも高まっていった。代表的な取り組みに「堀川1000人調査隊2010」がある。これは名古屋市民たちが定期的に堀川の水の色や濁り、においなどを市民目線で調査するものだ。
こうして官民連携による水質改善を進めてきた結果、堀川は徐々に活気を取り戻し始めた。そして、堀川周辺の歴史・文化を発掘して歩く会「堀川文化探索隊」や、堀川周辺を案内するガイドボランティア「堀川文化を伝える会」など、さまざまな市民活動が行われるようになった。
「まちづくりのハード面は行政が担い、ソフトの面は市民の皆さんに盛り上げてもらう。相乗効果で堀川再生が進めば、より魅力的な観光資源として名古屋全体が盛り上がっていくはずです」(渡邉氏)
開削から410年が経過した堀川にはさまざまな顔がある。上流部は海水の影響を受けないため、淡水生物が生息する穏やかな環境である。このエリアでは、地元の小学校を対象とした自然観察会が開かれるなど、自然と触れ合うことができる。
中流域は納屋橋など古くから名古屋の中心部として賑わってきた地域だ。
現在も、春にはフラワーフェスティバル、秋にはウォーターマジックフェスティバルなど、さまざまなイベントが楽しめる。今年の10月下旬から11月上旬にかけては、堀川・錦橋のたもとに設けたテラスで飲食や音楽を楽しむイベント「堀川ヒュッテ」が開催され、多くの人で盛り上がった。さらに川を下れば江戸時代から宿場町として栄えてきた熱田エリアなど歴史的な資産もある。
官民連携で堀川再生に取り組むことで、こうしたさまざまな名古屋の魅力発掘につながった。かつての産業の大動脈は、人々が集まる都市の軸として生まれ変わり、名古屋にうるおいと活気を与えている。
中京圏を代表する都市・名古屋は今後も官民が一体となり街を磨いていく。
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