画期的なスイッチング電源のメーカーとして1990年代、ベンチャー企業界の雄となったネミック・ラムダ。創業者の斑目力曠氏は、密教僧侶からビジネス界へと転身した型破りな人物。80歳代半ばとなった今も、真言宗大覚寺派大僧正の最高位にありながら「なまぐさ坊主」を自称し、遊び心を忘れない。老い知らずのユーチューバーとして、日本を憂い平和を願う動画をアップし続ける。聞き手=山﨑博史 Photo=横溝 敦(『経済界』2022年2月号より加筆・転載)
斑目力曠・元ネミック・ラムダ会長プロフィール
足掛け3年かけた力作YouTube
―― コロナ禍が続く今、いかがお過ごしですか。
斑目 YouTubeの作品づくりが時節柄なかなか思うに任せず、女房と2人で巣ごもり三昧の生活です(笑)。まあ家で本を読むのが中心で、仏教関係の本を読んだり、大学時代の卒論を見直してみたり。最近は、特に親鸞さんを読んでいるかな。ボクは真言宗の僧侶だから空海さんが信仰の対象ですが、浄土真宗の親鸞さんは人生の先輩として、ありのままに生き抜いた生き様が素晴らしいと思います。特に歎異抄がいい。「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」ですよ(笑)。あとは、ぼんやりとテレビで時代劇を見たりといったところです。
―― 傘寿を過ぎてなおYouTubeの動画を作り続ける。その思いは。
斑目 自分が生まれ育った環境としての日本の歴史を、ちゃんと見直してみたいという感じですね。初めのころは新渡戸稲造さんとか大山捨松さんとか、明治維新以降の偉人たちをご紹介していました。今は徳川時代から明治維新の時代を裏側から見るというか、「勝てば官軍」の薩摩・長州の側が都合よく作った歴史観でなく、敗けた徳川幕府の視点から歴史を見てみようとしています。
徳川幕府の265年間、平和が続いたということは世界史的に見ても稀なことです。初代の家康がそれだけ偉かったということでしょうね。そして幕末、米国やロシアが日本の鎖国を解こうと押し寄せる中、徳川幕府はいかに対応しようとしたか。先日も、その先駆けとなる『江川英龍~日本を守った知られざる英雄~』という45分間の作品をアップしたばかりです。若い世代へのメッセージとまでは力んでいませんが、さりげなく伝わればいいなとは思っています。
―― どうやって制作しているんですか。
斑目 ボクは「総指揮」という立場で、何を、どう作るかを企画し、それに応じてプロのライターとカメラマンに取材なり、シナリオ作りをお願いします。シナリオの粗原稿が出来上がったら、いろいろとやり取りしながら、それを詰めていきます。同時にカメラマンにシナリオのポイントとなる場面ごとに画面映像を考えてもらい、それを撮影するなり既存の映像を確保します。
その際には著作権などの問題があり得ますから、必要な手続きをちゃんと取ります。そうやって素材を集めた上で、より説得力のある作品になるように編集していきます。ナレーションや字幕の言葉も作らなければなりません。だいたい数カ月に1本ぐらいのペースで作っていますが、最新作の『江川英龍』なんか、もろにコロナ禍に重なってしまい、足掛け3年もかかってしまいました(笑)。
斑目氏は『ひらめきと感動の世界』(http://hirameki.tv/)という自身のホームページを持っている。そこに収容している作品は、『新渡戸稲造生誕150年記念4部作①②③④』▽『高橋是清 ジェイコブ・シフ 2人が描いた理想の国際関係3部作①②③』▽『杉原千畝の四男 伸生が父の思い出を語る』▽『明治150年 真の日本の姿』▽『日本と台湾の絆』▽『斑目力曠の仏教講座「問い掛けの旅」』――など100本近い。9月現在の登録者数は6万人余。再生回数はなかなかのもので、最多は『明治150年 真の日本の姿 第一話』の123万回、20万回以上が12作品を数える。 |
3億円を費やした映画『米百俵』
―― それにしても動画を作るという発想は、どこから?
斑目 ボクは17歳の時、真言宗の僧侶だった父が亡くなったのを機に、京都の大覚寺で僧侶資格を取るための修行生活に入りました。当時、大覚寺は時代劇の撮影現場として定番スポットになっていて、市川歌右衛門とか映画スターがいつも来ていました。そのせいか、大学進学後も、映画館に弁当持参で一日中入りびたったり、映画作りの裏方やエキストラのアルバイトをしました。それでいつのまにか映像大好き人間になったんでしょうね。
そして、私が会社を創業したのが新潟県長岡市。その地はかつて戊辰戦争に敗れた長岡藩で、藩に見舞いとして贈られた百俵の米を、大参事の小林虎三郎が「教育こそ国の礎」と換金して学校を作り、人材を輩出させて長岡の繁栄を築いたという、素晴らしい歴史があった。
その歴史に感動するあまり、ごく自然に、映画にして世の中に広く紹介したいと思い、1993年に『米百俵』というオリジナルビデオの映画を作りました。中村嘉葎雄さんの主演です。
―― 本格的な映画ですね。大金がかかったでしょう。
斑目 最初は1億円のつもりだったんですが、終わってみれば3億円ぐらいかかりました。ちょうどネミック・ラムダを店頭公開し、お金が入ったタイミングでしたから、できたんです。企画を進め始めた時、旧友のお嬢さんの結婚披露宴に出席したら、隣の席に吉永小百合さんがいらっしゃった。それでちゃっかり『米百俵』に出てほしいみたいな会話をしていたら、吉永さんから言われてしまった。
「斑目さん、映画をお作りになるのはおやめになった方がいいですよ。思った以上にお金がかかってしまいますから」って。吉永さんの忠告は見事に当たっていました(笑)。
まあ2002年になって、小泉純一郎首相が所信表明演説の中で『米百俵』に言及したことから、一躍世間に知れ渡り、流行語大賞ともなった。作り甲斐があったという感じで、とてもうれしかったですね。
―― そんな「映画」から「動画」へ。転じた理由は。
斑目 ずっと安上がりだからです。映画を続けていては、お金がいくらあっても足りません。でも、余談になりますが、今のコロナ禍の状況で敢えて言いたいのは、やはりお金は使うべきものであって、蓄えてしまってはだめということです。お金は天下の回りもので、入って来たものを使うから、また入って来る。それを10万円ずつ配っても、みんな貯金してしまうから、うまく回らない。まあ、わが家も財務大臣が厳しくて、なかなかですが……(笑)。
―― 『ひらめきと感動の世界』のネーミングについて。
斑目 「ひらめき」という言葉が好きなんです。ひらめきは、頭の中にある思い、知識、教養なんかが、自然の摂理で摩訶不思議に熟成したものが、ある時、ある状況に接して、パッと弾け出てくるものです。単なる思い付きではなく、一つの貴重なエネルギー、雷のようなもので、大変貴重な潜在的可能性を秘めています。そして、そんなひらめきを受けて感動し、行動する。感動がない人間は、味気ないロボットと同じです。できるだけ人間らしい世界でありたいと願うネーミングです。
平安時代後期の「前九年の役」第6陣司令官・斑目四郎を始祖とする薩摩斑目家の系統である父・斑目日仏は、出家して真言宗の高僧となり、戦中・戦後の政財界に広い人脈を持っていた。1928年、斎藤実首相の個人的な援助によって東京・沼袋に「日仏寺」が建立された。日仏は後年、独自の「天宗」を開き、42年に日仏寺を東京・日野市に移築した。日仏が54年に死亡して廃寺となり、その本堂が京都・大覚寺に移築され、現在の霊明殿となった。力曠氏が99年に霊明殿を修復し、目にも鮮やかな朱塗り・絵天井の壮麗な建物にした。 |
窮地を救ってくれたイスラエルへの感謝
―― もう一つ、イスラエルへの貢献にも熱心ですね。
斑目 ボクの父の従兄が東郷平八郎だったこともあり、父から「日本海海戦でロシアに勝てたのはユダヤの協力があったからだ」と聞かされ続け、子どものころから親近感がありました。そしてネミック・ラムダを経営し始め、資金難に陥って倒産しかけ、どこもお金を貸してくれない時、アメリカにいたユダヤの人々が資金を融通してくれて、助かったんです。
その恩をお返ししたいと思って、1996年、中東の地に安寧のメッセージを鳴り響かせる「平和の梵鐘」(口径3尺5寸、重さ400貫)をエルサレムに建立させていただきました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地に、佛教のシンボルを設置することは大変な困難が伴うものでした。当時のラビン首相の理解と決断のお陰で実現することができたんです。
―― 2016年には、ネタニヤ市にプラネタリウムを寄贈した。
斑目 宇宙に浮かぶ青く美しい地球に国境はありません。そんな宇宙大の視野でアラブの国々と共存共栄を目指してほしいとの願いを込めて、建設費約4億円を贈らせていただきました。ボクの願いを市長のミリアムさんに伝えて建設してもらったもので、「プラネタニヤ~斑目科学宇宙文化センター」(敷地7500平方メートル)というとても立派な施設になりました。銀河を見上げながら瞑想し、自身の内なる神と向かい合えるプラネタリウムで、多目的ホールや日本庭園が併設されています。その敷地に隣接し、先の大戦時に大勢のユダヤ人を救った日本人外交官・杉原千畝さんの偉業を顕彰する「スギハラ通り」も作らせていただきました。
―― 恩義といえば、斑目さんの起業は、天下の田中角栄さんが後押ししてくれたとか。
斑目 ボクからすれば、田中先生はいわば日本のベンチャーキャピタルの草分けでした。ボクは、高野山によくお参りに来られていたお母さまとの縁で、田中先生とのつながりができた。それで、起業の挨拶に行った際に、「福島に工場を建てます」と説明したら、「斑目君、長岡にしろ」と言われた。田中先生の地元ですね。あまりに急なことで、応えあぐねていたら、「失敗したっていいじゃないか。オレも出資するから、長岡に電子の火を灯すつもりで、思い切ってやってみろ!」と仰ってくださった。
その「失敗したっていいじゃないか」の一言で、ボクは長岡での創業を決断したんです。ところが、いざ創業したら、田中先生は「斑目君、つぶしてもらっては困るよ。絶対につぶしてもらっては困るよ」と言い始めた。豹変ぶりに面食らいましたが、あとで考えてみたら、どちらも時機に応じて励ましてくれているんですね。以後、窮地に立つ度に、田中先生の言葉をかみしめました。
金の使い方を知らない今どきの経営者
―― その戦後政界の巨人を知る者として、今の政治家をどう見る?
斑目 今の閉塞した時代にこそ、田中先生のような政治家が出て来て、もっと世の中を沸かせてほしい。毀誉褒貶はいろいろあるでしょうが、その方が世の中が活性化するし、「失敗したっていいじゃないか」というチャレンジ精神が出てくる。今の政治家は国民にこびるような理屈を言うだけで、おとなしいというか、面白くない。当たり前のことをもっともらしく語るだけで、時代を切り開くようなダイナミックなビジョンを言わない。政治家が小賢しい官僚みたいになってしまっている。
―― 仏教は企業経営にプラスだった?
斑目 もちろんです。今でも大いにプラスです。自分が戻るべき原点というものが、今でも大事ですから。人間本来無一物ということです。
経営者の時は、田中先生の導きもあって、失敗を恐れずに思い切りやれました。でも、その根底には、人間は本来「無」なんだという仏教的な思想がありました。だから何事も四方八方に構えることなく、自由にやることができました。
言い換えれば、ボクの一番の強みは打たれ強いこと。高校生の時に親から相続した1億円以上の財産を、人にだまし取られた。その時、師匠の味岡(良戒・大覚寺)総長から「お前みたいなバカは死んでしまえ」と手ひどく叱られました。そうやって鍛えられたお陰で、社会に出てぼろくそに言われた時でも、自分の魂は傷つくことがありませんでした。
―― 今の経営者について。
斑目 みなさん、お金の使い方を知りませんね。経営のトップなのにサラリーマン化してしまって、その座を引き継いだ時より少しだけ数字を上積みして次に引き継ごうとしか考えていない。そうではなく、大きな課題にバーンと捨て身で体当たりしてブレークスルーし、それをチャンスとして経営を飛躍的に上昇させるといった、経営者らしい発想がありませんね。
だからでしょうね、いろんな企業の決算発表を見ると、内部留保があまりに多すぎます。そんなにお金を抱え込んでどうするのだろう。サラリーマン根性から踏み出して、会社の将来のために人材を育てる、そのために大胆に戦略的に投資するという考えが全くない。まことに嘆かわしいです。
―― さて、ポスト・コロナ。その日が来たら。
斑目 2つの夢があります。一つは、アーチェリーをやりたい。パラリンピックのアーチェリー競技を見ていて感動しました。ボクも健康作りを目的にすれば、84歳の手習いでなんとかなるのではないかと、やってみたくなりました。もう一つは、iPhone13 Proを買おうと思っています。ネットで調べてみたら、ムービーカメラの機能が飛躍的に向上している。これを使って、自分でいろんな動画を撮影し、編集もして、どんどん作品をアップしていきたいと思っています。