経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

第2回 障害を価値に変える「ミライロID」で実現する世界ーミライロ 垣内俊哉

垣内俊哉 ミライロ

経済界が主催するベンチャービジネスコンテスト「金の卵発掘プロジェクト2021」で、グランプリを受賞したミライロ社長の垣内俊哉氏。自治体によって仕様がバラバラな障害者手帳をアプリに一元化し、バリアフリー社会の前進に大きく貢献する。本連載では、サービスが生まれた背景と垣内氏が目指す未来像について紹介していく。文=吉田 浩 Photo=幸田 森(雑誌『経済界』2022年6月号より)

垣内俊哉 ミライロ
金の卵発掘プロジェクト2021グランプリ受賞 垣内俊哉 ミライロ社長
かきうち・としや 1989年愛知県生まれ。生後間もなく「骨形成不全症」の診断を受け、骨折と入院を繰り返す日々を送る。高校1年で休学し大阪の病院で完治のための治療を行うも、自分の足で歩くことを断念。その後立命館大学に進学し、同級生の民野剛郎氏と2009年に起業、10年に株式会社ミライロを設立する。13年、一般社団法人日本ユニバーサルマナー協会を設立し代表理事に就任。19年「ミライロID」をリリースし、多数の企業に導入を進める。

大学入試の直前に予期せぬアクシデント

 起業を決意した垣内氏だが、当初は具体的な目標があったわけではない。「何か事業を始めれば社会から受け入れられるのではないか」――そんな思いが原動力だった。何も決めていなかったからこそ、自らの知見が最も生かせる障害者に関わる分野を選んだのは自然な流れだったと言える。

 「病室のベッドにずっといたので、こんなものがあったらいいな、作りたいなという空想を膨らませる時間はたっぷりありました」と垣内氏は振り返る。

 指示・命令だけを出すタイプの経営者ではなく、自らの手を動かしてモノづくりを手掛けたいと考えていた。中学生のころ、課題工作で作った車椅子ユーザー向けの移動用機器が発明協会主催のイベントで高評価を受け、外国に招待されて表彰されたこともある。その作品は自らの手で商品化はしなかったものの、何かを考えて形にすることへの興味は強かった。

 まずは車椅子や義手、義足を自らの手で作ろうと考えた。だが、調べてみると義肢装具士の学校で取り扱う工具は車椅子ユーザーの垣内氏には到底扱えるものではないと分かった。ならばと、大学に進学して経営を学ぶことを決意。高校を半年で中退していたため、1日12時間の猛勉強の末に高卒認定試験に合格した。だが、ここで予期せぬアクシデントに見舞われる。センター試験まであと1週間と迫ったある日、車椅子の転倒で骨折して寝たきりの状態になってしまったのだ。

 「骨折して救急車に乗っているときも、試験をどうしようかと考えていました。それで受験予定の立命館大学に問い合わせたんです。怪我や骨折など、有事の時にどうするかについて幼少期から考えることが多かったので冷静に対処できました。臨機応変な姿勢や判断力が身についたのは障害と向き合ってきたからかもしれません」

 その結果、大学側は民間の救急車による試験会場までの移動や、別室で寝たきりのままの受験を認め、受け入れ態勢を整えてくれた。晴れて垣内氏は合格。大学生活のスタートを切ることになった。

信頼できる仲間と出会い学生ベンチャー立ち上げ

 前回紹介した「富松さん」と同様、垣内氏の人生に大きな影響を与える人物との出会いが大学では待っていた。現在、ミライロで副社長を務める民野剛郎氏である。

 「お互いに最初はいけ好かないやつ、と思っていましたね」と垣内氏は振り返る。同族嫌悪なのか、大学入学後に羽目を外して金髪にピアスという風貌になった垣内氏と同様、民野氏も「ずいぶんチャラチャラした印象」だったという。そんな2人の仲が一気に縮まったのが学食での出来事だ。食事が終わると、じゃんけんに負けた人間が仲間全員のトレイを片付けるゲームを行っていたが、同級生たちはいつも垣内氏に気を使って片付けさせなかった。だが、民野氏だけは食事が終わると当たり前のように「ハイ、じゃんけんね」と話しかけてきたのだ。

 「障害者であることによる特別扱いには、過剰な評価だけでなく、かわいそうという目線によるものもあります。小さい頃に『誰か垣内君と遊んであげなさい』と先生に言われたり、掃除をサボっても仕方ないと無罪放免になったり。自分は車椅子でずっと生活してきたのでトレイを持って移動することができるのに、周りの友達はみんな代わりに持っていくよと言うんです。でも民野だけは『ハイ、じゃんけん』だったので、きっと何も考えていないか、もしくはちゃんと見ることができている奴なんだろうなと感じました。どちらにしても私は気が楽だったので、彼のような仲間とであれば無理することなく歩んでいけるだろうなと」

 やがて民野氏とは、お互いが歩んできた人生や家庭環境、将来のことなど深い話をするようになり、一緒に事業を興すと決めるまでに時間は掛からなかった。最初はフリーペーパー制作などのビジネスプランを考えていくつかコンテストに応募したものの、反応は鈍かった。そこで考えたのが、大学施設のバリアフリー情報を集約し、地図を作成するプランだった。大学進学を考える障害者にとっても、受験生を集めたい大学にとってもメリットになるこのアイデアは多くのビジネスプランコンテストで高評価を受け、その賞金を資金に、垣内氏と民野氏は本格的に起業することにした。

バリアフリーマップ事業で信頼を積み上げる

 バリアフリーマップの事業はまず現状の調査を行い、課題解決策のレポートを大学に提出するというものだった。大学の建物全体の管理を手掛ける施設課や管財課にとっては業務負担の軽減につながった上、障害のある当事者の視点を通してバリアを顕在化させるという部分がそれまでにないサービスだった。

 「関西圏の多くの大学でバリアフリーマップを作らせていただきました。障害者で大学に進学する人は、私が進学した当初6200人程度でしたが今は3万7千人まで増えましたので、バリアフリーの情報開示による効果があったのであればうれしいです」と、垣内氏は言う。

 バリアフリーマップの事業は最初からうまくいったわけではない。営業先があらかじめ年間予算をかっちりと決める大学という性質上、飛び込み営業でいきなりうまくいくケースはほとんどない。1年目の売上高は125万円ほど。現在と違って学生ベンチャーに融資する金融機関はほとんどなく、投資家も少なかったため、事業を継続させるだけでも高いハードルだった。しかし、捨てる神あれば拾う神あり。「平成になって初の案件だから是非応援させてほしい」と言ってくれる銀行の店長も現れた。垣内氏と民野氏の情熱と行動力が、少しずつ壁を崩していった。

 「足繁くいろいろなところに通った結果、応援してくれる人も増えてきました。僕らにとって若さはハードルでもあり、同時に価値でもありました」

 一見すると不利に思える状況も、見方を変えればそれは価値になる。さまざまな経験を通じて思考の軸を確立できたことは、現在のミライロ、そして垣内氏の大きな武器となっている。(次号へ続く)