1603年に德川家康が開いた江戸幕府。以来260年間にわたり、安定した国家運営を行った。江戸幕府は十五代将軍慶喜の時に幕を閉じるが、德川家はその後も続き、今年、第十九代当主に德川家広氏が就いた。家広氏は政治・経済評論家としても活躍してきたが、德川家の組織運営をどのように分析しているのだろうか。(雑誌『経済界』2023年5月号より)
家康だったらと考えると歴史への理解が深まる
―― 1月29日に芝・増上寺で継宗の儀が執り行われました。終えてみて今の心境はいかがですか。
德川 儀式は、昨年11月に上野・寛永寺や日光東照宮など家康ゆかりの寺で法要を行うことから始まって増上寺の継宗の儀で締めくくりました。
江戸時代の家督の継承は将軍家の継承でしたから、幕府の公的な儀式として行われました。明治以降は当主の死去に伴う継承が2度あっただけです。ですから、今回のように、民間人の立場で、先代が存命中に行う継承は初めてのことです。前例がないため、すべて自分たちで考え、開催しました。ですからすべてを終えた時は本当にほっとしました。
―― 自分が德川家の跡継ぎだと意識したのはいつ頃ですか。そのことについて「嫌だ」あるいは「誇らしい」と思ったりしませんでしたか。
德川 物心ついた時から、父が十八代だから自分は十九代だろうなとは思っていました。きわめて自然なことで、その意味で気負いのようなものはありませんでした。これは私のような立場の人は誰でもそうなのではないでしょうか。
―― YouTubeでもインタビュアーから「家康公に似ていると言われるでしょう」と聞かれても「何とも思わない」と答えていました。
德川 「何とも思わない」ではなく「うれしくない」です。でも今年は家康と言えば松本潤さんなので、とてもうれしいです(笑)。
―― そのインタビューでは、「自分ほど、自分が家康だったらと深く考えた人はいない」と答えています。どういう時に「どうする家康」となるわけですか。
德川 ええ、自分ほど真面目に当事者の気持ちになってシミュレーションしている人はいないと思います。どんな時にそう思うか、というより、例えば関ヶ原の戦いがなぜ起きたのか、家康の気持ちになって考えてみる。そうすると、これまで見えないものが見えてくる。歴史家の先生の本を読んで違和感を覚えた時は、そうやって深く考える。そうすることで今までより理解が深まる。そういう効果がありますね。
豊臣家への恐怖がつくった長期政権
―― 宗家十八代は開幕400年にあたる2003年に德川記念財団を設立し、代々宗家に伝わる歴史資料と文化財を財団に寄付しています。十九代としては何をしますか。
德川 これまで寄付をしたのはめぼしいものだけで、まだ膨大な文化財が父の名義のままになっています。これをきちんと整理して財団に寄付し、データベース化する。こうした基本的な作業を行っていきます。そのため今後3年間は文化財の展示活動は中断します。
それと、これまでにも学術振興助成を行ってきましたが、今後はもっと発信していく必要があると感じています。というのも、今の日本は歴史に対する知識がおかしくなっていると思うからです。
例えば江戸時代は鎖国が続いていたと皆さん思っているでしょう。でも実際には長崎の出島以外でも海外との交易は行われていました。これは私見ですが、秀吉時代に朝鮮出兵があったように、統制しないとまた同様のことをする可能性もあったわけです。そこで海外に簡単に行けないように鎖国政策を取ったのではないか。つまり入ってくるのを防ぐのではなく、出ていくことを止める。
あるいは江戸時代は近代社会だったのか伝統社会だったのかも見方の分かれるところです。260年、平和ではあったけれど、国家として停滞していたのか発展していたのか。そうしたところをもっと掘り下げて研究して発表したいと考えています。
―― 今、おっしゃったように、德川家統治の下、江戸時代は大きな戦もなく260年間続きました。これは日本史上、特筆されるべきことだと思いますが、最初の制度設計がよかったのでしょうか。それとも、常に組織の見直しを行ってきたからでしょうか。
德川 両方でしょうね。制度設計でいえば、どうやって自分たちの天下を長続きさせるか、常に考え続けた結果、たどりついたのは、自分たちだけがよければいいというのでは絶対に続かないということです。
家康の遺訓というと、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」という言葉が有名ですが、これは後世の人が創作したという説もあります。正真正銘の遺言は岡崎城で石碑になっていますが、その内容は、「将軍の政道がその理にかなわず、民衆が苦労していることがあったら、他の人に代わってもらうべきである、たとえ、政権が他家に移ったとしても、民衆が幸せならば、それが私の本意であり、恨みに思うことはない」というものです。
織田信長、豊臣秀吉はいずれも「まず自分が」という人でした。信長は悲惨な最期を迎え、秀吉は朝鮮出兵の暴挙によって人臣の心が離れ、関ヶ原の戦いで敗れてしまう。家康はそこから学んでいます。
さらには江戸幕府が誕生してからも、かつての秀吉のように裸一貫、下剋上によって天下を収めることができるのではないかと夢見る人間が出てくるかも分からない。それができないように、大阪夏の陣で豊臣家が滅んだあと、武家諸法度が公布されます(1615年)。これは二度と幕府を危うくする人物が出現しない仕組みです。
―― 家康公の存命中なら、その威光が隅々まで行き届いていたでしょうが、16年に亡くなってからも、200年以上幕府は続きました。
德川 德川の治世というのは、初期は将軍家が自ら運営を行い、その後は周囲の知恵を入れる形で存続できたのだと思います。
そのためにも人材の抜擢は珍しいことではありませんでした。どんなに統制を厳しくしても、能力のある人間の台頭を抑えることはできません。
德川将軍家がすごいのは、そういう人材を抜擢し、建設的な方向にそのエネルギーを使ったことです。ただし、抜擢するのは能力のある人一代限り。その子孫には引き継がない。そのため江戸時代、御家人が大名になるような、家の格の変更はほとんどありませんでした。
宗家二十代の選定は「流れにまかせて」
―― さらには血筋を絶やさないためのシステムもありました。実際、德川十五代のうち、6人が養子による関係です。御三家や御三卿がきちんと機能していた証拠です。
德川 江戸時代初期には德川姓の大名はほかにもいて、さらには同格の越前松平家もありました。ですから尾張、紀伊、水戸の御三家になったのは結果であって、最初から御三家として定めたものではないと思います。一方、御三卿は幕府の混乱を抑えるために機能していました。
八代将軍吉宗は、紀伊德川家でしたが、将軍を継ぐにあたり、紀伊から家臣団を連れてきました。当然、それまでの将軍家の家臣とはやり方が違いますから、幕府の政治が混乱しました。そこでそれを繰り返さないように、御三卿に養子に入り、いったん家臣団から切り離す。そうすることで幕府の連続性を担保したのだと思います。こういう仕組みは、中国の例などを見ながら試行錯誤を繰り返して徐々に整えられていったと考えられます。
―― そうやって綿々と宗家はつながってきたわけですが、継宗の儀の会見で、「父が守ってきたものを引き継ぎ、また未来につないでいく」と語っていました。文化財以外につないでいくものは何ですか。
德川 平和主義だと思います。十七代の家正は外交官、十八代の恒孝は日本郵船副社長を務めた国際派ビジネスマンでした。人種や国籍を超えて誰とでも分け隔てなくつきあってきました。こういう姿勢はとても大切です。日本は平和を希求するべきですし、何が何でも戦争はしない。それは訴え続けていきたいですね。
―― 家広さんには子供がいません。宗家を継承していくには養子をとる必要がありますが、どうやって人選を行うかの決まりはあるんですか。
德川 そういうものは全然ありません。父も養子ですが、なかなか最後まで決まりませんでした。その流れの中で自然と決まっていくものだと思います。ですから二十代についても、そのうちに落ち着くところに落ち着いていくと思います。