1908年、川村喜十郎氏が興した印刷インキ企業「川村インキ製造所」は、大日本インキ化学工業、DIC(ディーアイシー)と社名を変えながら事業を多角化し、印刷インキ、有機顔料、耐熱性ポリマーであるPPSコンパウンドで世界トップシェアの化学メーカーへと成長した。技術出身の新社長、池田尚志氏の横顔とは。聞き手=和田一樹 Photo=山内信也(雑誌『経済界』2024年5月号より)
池田尚志 DIC社長のプロフィール
大阪生まれ英国育ち。16歳までに8回引っ越し
―― 1月1日、DICの新社長に池田さんが就任しました。生まれは大阪ですが、幼少期は海外で生活していたそうですね。
池田 父親の仕事の関係で小学1年から5年までイギリスで暮らしました。当時はまだ日本人の駐在員が少なくて、一人ポツンと現地校に通っていました。結局、16歳までに8回引っ越しをしました。ほぼ2年おきですね(笑)。
ですから小さい頃から異文化の中で暮らす経験が多く、生まれ故郷的な意識は薄くてノマド的な感覚があります。ベースは日本人だと思っていますが、強いて言えばイギリスがホーム的な感覚が強いです。
―― ビジネスマンとしてのキャリアを振り返っても、1999年から2年間MBA留学するなど国際的な挑戦がありますね。
池田 社内で初めてMBA留学制度ができたので、応募して選ばれました。全社にアナウンスされたのですが、最終的に選ばれた14人のうち技術職からは私だけでした。
―― たしかに留学制度は企画職の人が多いイメージがあります。池田さんはどうして手を挙げたのですか。
池田 90年代の私の仕事は、主に合成樹脂の研究開発でした。自分の研究素材がある程度評価されれば製造のスケールを拡大する。ダメならまた研究を繰り返す。そこで、6年、7年と経験を積んで、徐々にオリジナルの製品を開発したりもしました。自分がフラスコで作ったものが10トン、20トンというスケールで製造されて世の中で役に立つ。なんて面白い仕事だと思っていました。
ただ毎日の仕事に満足しながらも、もしマーケティングや財務的な知見を持ち込んだら今の仕事はどれくらい拡大できるのだろうかと考えるようにもなっていました。経営的なというか、ゼネラルマネジャー的な興味が湧いていたので、まさに渡りに船と思いMBA留学に応募しました。
「君は将来、社長になるよ」転機になった出会いと言葉
―― いつかは社長になりたいと思っていたのですか。
池田 実は社長になりたいと思ったことは、一度もないです。ポストないし職というのは、やりたいこと、やらなければいけないこと、果たすべき使命、それらを成し遂げるための手段だと思っています。
それは今に至るまで変わらぬ考えですが、転機のようなものはありました。MBAから帰ってきた後、同年にノーベル化学賞を受賞した野依良治先生が主宰された、さまざまな企業から技術者が集まるフォーラムに参加し、先生と直接話をする機会がありました。
MBAから帰国した私は経営企画部に配属されて少し頭でっかちになっていました。ひょっとすると理詰めで偉そうな感じもあったかもしれないですね。そういう頭でっかちなところも持ちつつ、日本の化学産業の在り方について違和感を覚えたり疑問を持ったりしたことを好き勝手に言っていたりして(笑)。
野依先生とお話しさせていただいた際に「君いいね、将来社長になるよ」と言われたことがあって、私としては全くそんなつもりはなかったのですが、少なくとも自分が考えていることはある程度は正しいのかな、このままでいいのかなと、自信というか励みになることがありました。それから薄ぼんやりと経営について考えるようになっていました。
―― 池田さんは積極的にリーダーシップを取るタイプですか。
池田 どうですかね。比較的、物を言う方ではあったかもしれないのです。それがリーダーシップなのか、ただ煙たがられたのかは分かりませんが(笑)。研修など人が集まる場では率先してまとめ役を買って出ることは多かったですね。あと、DICの経営ビジョン「化学で彩りと快適を提案する-Color & Comfort by Chemistry-」も私が決めました。
―― それはいつ頃のことだったのでしょうか。
池田 2005年です。中堅・若手社員が最大100人くらい集まってDICの未来を考える「プロジェクトiD」という取り組みがあり、その一環で当時の経営陣に提言しました。提言の中核として、これから会社が目指すべきビジョンとして先ほどの言葉を提案しました。
―― ビジョンの言葉にある「彩り」は祖業のインキ事業から連想しやすいですが、「快適」は事業とどう関係するのでしょうか。
池田 DICの製品は、大規模に大量生産しているのではなく、スペシャリティでニッチなものかつ、人々の暮らしに密着していることが特徴です。例えば、各種印刷物、食品パッケージ、合成皮革などです。ですから、私たちの製品を通じて生活空間の快適さを追求できる。そこに果たすべき役割があるのではないか。そんな思いをビジョンに込めました。
現在、DICは事業ポートフォリオの組み換えを進めており、5つの重点領域を掲げています。
二次電池用材料などを扱うサステナブルエネルギー領域、藻類(天然)由来の食品・スキンケア素材などを手掛けるヘルスケア領域、次世代半導体用樹脂などのスマートリビング領域、色に機能を付加した機能性顔料などのカラーサイエンス領域、バイオマスパッケージやパッケージング材料のリサイクルを手掛けるサステナブルパッケージ領域の5つです。
特にスマートリビング領域は快適性と深く関係していて、今後も大きな発展の可能性があります。
―― DICは22年から30年までの長期ビジョンを進めている最中です。進捗はどう見ますか。
池田 非常に高い理想を掲げてスタートしました。2年間、可能性の探索のために多彩なチャレンジを重ねましたので、見えた可能性の中から果実を刈り取っていかなければと感じています。
ただ、これは外部環境も関係します。やはりコロナを契機にして、ヨーロッパの経済環境が非常に悪いです。顔料事業は欧州の比率が大きいこともあり、思うような回復には至っていない状況です。半導体関係の材料も自動車の一時的な落ち込みの影響もありましたし、今しばらくは乗り切る努力を徹底するしかありません。
日本の未来に適したワークライフシェア
―― 外部環境が厳しい中での社長就任となりましたが、池田さん自身はキャリアの中で一番大変だった時期はいつですか。
池田 やはり入社直後でした。先ほども申したように私は技術職で入社したのですが、合成樹脂の研究開発をしながら営業の売り込みにも同行し、導入先の現場対応もやり、非常に多岐にわたる業務がありました。
合成樹脂は巨大な釜の反応装置でつくるのですが、うまくいかないと固まる素材もあります。私の担当する製品が固まってしまった時は慌てて飛んでいき装置の中に入り、大汗をかきながら必死でミノと金づちで固まった樹脂を剥がし落とす。この作業を「カンカン」と呼んでいました。先輩から「カンカンいくぞ!」と言われることもよくありましたよ
(笑)。もちろんそれ以降もいろんな意味で忙しい時期もありましたが、いの一番にあの時を思い出します。
―― さまざまな経験をしても若手の頃が一番忙しかったんですね。
池田 そうですね。これはあくまで私見ですが、将来的に世代ごとの仕事量を平準化できたら面白いなと感じます。ワークライフバランスではなく、ワークライフシェア。これまでの働き方は60歳くらいまで一生懸命働いて、定年でスパッと終わってしまう人が多かったと思います。それを、20代から80代まで、みんな30%くらいの出力で仕事をシェアする。高齢化社会で70歳、80歳でも働く人が多くなればそれができますし、若い世代も多様な生き方、働き方が実現できます。これはほんの思考実験のようなものですけど、いつかDICでも近しい取り組みをできたらいいなと考えています。
DICは藻類由来のヘルスケア・スキンケア素材の生産・販売もしており、「ただの藻だけど、ただものじゃない」というコピーをCM等で使っています。事業も働き方の制度も、ただものじゃない企業を目指していきたいと思っています。