AGC、日本IBM、ファーストリテイリング、ローソン、デジタルハーツ、ロッテホールディングス。玉塚元一氏の歩んできた道はあまりにも華々しい。その時々、どのような価値観で道を決めてきたのだろうか。玉塚氏に会社の選び方を語ってもらった。文=和田一樹 Photo=山内信也(雑誌『経済界』2024年6月号巻頭特集「会社の選び方」より)
玉塚元一 ロッテホールディングス社長CEOのプロフィール
グローバルな仕事がしたいシンガポールでの挑戦
―― 玉塚さんは2021年にロッテホールディングスの社長になる以前にも、複数の企業で社長を経験しています。こうしたキャリアは昔から思い描いていたのでしょうか。
玉塚 そんなことはなくて、その時々で向き合わざるを得ない問題に正面から向き合ってきた結果です。だから私のキャリアプランは全然戦略的ではない。ラグビーではないですけど、「前へ、前へ」。それがコンセプトですね(笑)。
―― 玉塚さんが中学時代からラグビーをやっていたことは有名ですね。大学は慶應で、1985年に卒業してAGC(当時は旭硝子)に入社しました。
玉塚 大学時代にラグビーでイギリス遠征に行き、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学と試合をしました。ラグビーは試合後にレセプションという慣習があって、敵味方関係なく懇親会があります。その時にいろいろと質問を受けたのですが、私は英語が喋れなくて非常に悔しく、もったいない思いをしました。それでグローバルに活躍するビジネスマンになろうと思ったわけです。
すると、ある人から「海外の拠点数を分子に置いて、同期の事務系の社員数を分母にすれば、海外拠点で仕事をするチャンスの大きい企業が分かる」とアドバイスを頂きました。それが旭硝子に入社する大きなきっかけになりました。
―― かなり緻密に計算して決めたのですね。
玉塚 当時は製造業が経済の根幹だと考えていた事も理由の一つです。結果的に、入社4年目でシンガポールに赴任させてもらいました。小さい所帯でしたけど、生産拠点のキャパシティを拡大したり現地の企業と組んでJVを作ったり、さまざまな経験を積みました。
―― 帰国するタイミングで、会社が公募したMBA留学に手を挙げています。今度は経営の面白みに覚醒した時期だったのでしょうか。
玉塚 というよりも、シンガポールで子会社の役員をやったり、買収案件の評価をしたりする中で、経営は非常に面白いけれど、私自身、基礎的な知識がまだ足りないなと感じていました。MBA留学を望んだのも、いずれ経営者を目指すための計画的なステップということは全くなくて、今、自分の足りないものを徹底的に補いたい気持ちが大きかったです。
―― 玉塚さんは社長になるとまずは社員へインタビューを実施して現場の感覚をつかむそうですが、ある意味、MBAは座学です。現場を重視する玉塚さんにとってMBAはどんな意味がありましたか。
玉塚 留学して一番良かったことは、アメリカの起業家たちに出会えたことです。その熱量とアイデアを目の当たりにして「日本の経営者は絶対に敵わない」と衝撃を受けました。そこでスイッチが入って、自分が経営者になれるかは分からないけれど、事業に挑戦してみたいと思ったのです。だけど先立つものもないし、革新的なアイデアもない。
そんな時にファーストリテイリングの柳井さん(正氏)にお会いして、この人の下で働けば自分がやりたい事業がつかめるかもしれないと直感してファーストリテイリングに飛び込みました。
柳井正との衝撃的な出会い年商700億円のファストリへ
―― ファーストリテイリングは今でこそ売上収益が3兆円に到達する規模になりましたが、98年当時は700億円ぐらいだったはずです。迷いはなかったですか。
玉塚 そんなことよりも、柳井さんのそばで仕事をすれば経営者としての原理原則が学べると思ったのです。あの頃のファーストリテイリングは強烈に成長していた時期で、常に人が足りなかった。柳井さんを中心に、澤田さん(貴司氏。ファミリーマート社長などを歴任)、堂前さん(宣夫氏。現在、良品計画社長)、柚木さん(治氏。現在、ジーユー社長)など、みんなで走り回った。ユニクロブランドが確立され、売り上げが4千億円規模にまで一気に成長していく過程を味わえたのは、本当に得難い経験でした。
―― 玉塚さん自身は、2002年から社長COOを務めました。MBAで学び柳井さんの薫陶を受け、満を持しての就任だったのでしょうか。
玉塚 正直、やらざるを得なかったという感じかな(笑)。それは少し冗談ですけど、当時こんなエピソードがありました。私は社長になる直前に、イギリス事業を任されました。ただ、現地では知名度もない中で全然うまくいかなくて。一気に30店舗くらい展開したのに、あっという間に5店舗程にまで縮小した経験もあります。一方で日本の事業も苦戦する時期を迎えていました。製造小売業は自分たちでリスクを取って製造を行うので、トップラインが落ち込んでくると一気に在庫がたまって逆回転します。ある意味で会社がおかしくなりかけていた。それで柳井さんは一度社長を降りるという決断を下すわけです。
私はイギリスでの経験を踏まえて、日本は人材が揃っているし、ほとんどの人がユニクロというブランドを知っている。もう一度お客さまに向き合って商品や店舗を磨き込めば必ず回復できる。そんなことをすごく申し上げていました。だから、それだけ言った手前、社長を引き受けました。やるべきことはやって、売り上げも回復させ、組織の構造改革にも着手しました。そのくらいしたところで、もう一度、柳井さんが全権を持ってやり切った方がよいだろうと判断して、私は失礼したのです。
―― ファーストリテイリングにとどまる選択肢もあったはずです。
玉塚 それも非常に魅力的な選択肢でした。ただ、雇われている経営者では経営の本質が分からない。柳井さんのそばにいたからこそ痛感しました。自分でリスクを取って事業をやらないと、経営者として次のステージにいけない。どうせやるなら早い方がいい。だから答えははっきりしていました。
プロ経営者として恩義とご縁で渡り歩く
―― それで05年、ファーストリテイリング時代の同僚、澤田貴司さんと企業再生事業を手掛けるリヴァンプ創業につながるわけですね。
玉塚 澤田さんが、私が辞めるよりも先にファーストリテイリングを去っていて、キアコンというファンドを設立していました。キアコンは投資をメインに行う金融型の企業再生を手掛けていたのですが、当時彼もすごく限界を感じていた。金融面からではなく、企業内部のオペレーションに特化した再生チームを作ろうじゃないかということで、リヴァンプを創業するに至りました。コンセプトは、組織の中に突入して企業を刷新する、元気にすること。そういう軍団がリヴァンプでした。
―― 玉塚さんはこれ以降、複数企業を社長として渡り歩いていきます。リヴァンプを続ける選択をしなかったのはどうしてですか。
玉塚 私の中では一貫していて〝一人リヴァンプ〟です。リヴァンプには、いずれは経営者を目指すメンバーがいて、互いに高め合う梁山泊のような場所を目指していました。だから時には創業者で代表の私が再生案件に突入していくことがあってもいいじゃないか、ちょっと行ってくるよと。そんな感覚で飛び出て結果として戻らなかったというだけです。
―― それで11年以降に玉塚さんが一人リヴァンプで突入した先がローソンだったわけですね。
玉塚 そういうことです。当時、ローソンの社長だった新浪さん(剛史氏)から事業を手伝ってほしいとアプローチがありました。最初はリヴァンプとしてお受けする話でしたが、比較的早い段階で私が代表になることになった。ローソンは公開企業ですし、加盟店を多く抱えています。リヴァンプとふたつの帽子だとまずいということで、一人で突入することになりました。ただ、そういう背景は別にしても、もともと小売業にいた人間としては、コンビニという日本における究極の小売業の経営に挑戦するのは、非常に価値あることだと感じていたことも理由でした。
―― ローソン社長、会長と歴任し、17年にソフトウェアのテストをメイン事業にするデジタルハーツホールディングス(当時はハーツユナイテッドグループ)社長に転じました。どうやって道を決めたのですか。
玉塚 一言で言えばご縁を大事にしたということです。創業者の宮澤さん(栄一氏)はあまりメディアに出ない方ですけど、01年にデジタルハーツを創業して、ベンチャーキャピタルなどの支援を受けることもせずに08年にはマザーズ上場を成し遂げた稀有な経営者です。いつかの経営者が集まる会議でごあいさつしたのが最初の縁で、それから時々食事などご一緒していました。何かにこだわったら徹底的にやり切るオタク気質なところがあって非常に魅力的な方です。経営を手伝ってほしいと言われたときはびっくりしましたが。
―― 縁を大事にして道を決めたのはロッテのケースも同様ですか。
玉塚 リヴァンプ時代、立ち上げ当初は本当に苦労しました。そんな頃に、現在の重光昭夫・ロッテグループ会長に任せていただいたのが、ロッテリアの再生案件だったのです。あれがなかったらリヴァンプは立ち上がらなかったかもしれません。そういう意味で、すごく恩義があった。そんな重光会長から、ロッテグループは韓国に比べて日本事業はまだ十分に成長し切れていない。グループ全体の価値を最大限に活用する取り組みを一緒にやってくれないかと相談を受けました。
―― 15年越しの恩返しというわけですね。
玉塚 言うは易しですが、難易度はとても高い。それでも重光会長からご依頼を受けたので、向き合わざるを得なかった。これが正直なところですね。創業者であり、先代の重光武雄名誉会長は、強烈なリーダーであり、尊敬する経営者でした。ただ、その分だけ組織として指示待ちの傾向があったり、新しいチャレンジ精神を失っていたり、官僚的な空気があったりする。それを改革しているところです。また、韓国法人も資本構造としては同じファミリーなはずなのに、なかなか対話をしてこなかった。日韓の壁をとっぱらい、相互に協力し合うことでロッテグループを真のグローバルグループに進化させるのも私の仕事です。とにかく必死に向き合っているところです。
エイジレスの時代。70歳で起業する
―― 玉塚さんは、キャリアに悩む人にどのような言葉をかけますか。
玉塚 10年単位くらいで自分のスキルを棚卸しして、場合によってはキャリアシフトを考えることはやった方がいい。ただ、私はあまり安易に転職を考えるべきではないと思っています。本当に今、目の前のことをやり切っているのか。そこにまず向き合うべきですね。石の上にも3年では少し短くて、5年くらい。それをやり尽くしていく中で、また全然違う方向性で成長できると思えたらキャリアシフトしたらいいと思います。
―― 盟友の澤田さんは今年、再生医療を手掛けるセルソースの社長に就任しました。
玉塚 これは非常に良い事例だと思います。セルソースは裙本理人さんという住友商事出身の優秀な社長がいて、会社の規模が大きくなっていくにつれて経営のフェーズが変わり、自身はCXOになってCEOは澤田さんに任せることが最適だと判断した。私や澤田さんはそれなりの経験・人脈があるし、過去の事例からノウハウもある。だから60代の人間が30代、40代の人とチームを組んで事業を再構築するのは素晴らしい事じゃないかな。今は年齢関係なく適材適所で活躍できるエイジレスな時代ではないでしょうか。
―― 玉塚さんも今年62歳になります。その後のことを考えることはありますか。
玉塚 ロッテグループが真のグルーバル企業として持続的な企業価値の向上が可能になっていく基盤を強化するというのが私のミッションです。その確かな手ごたえを感じることができたなら、次のロッテグループの課題を達成しうるにふさわしい経営体制に移行していくかと思います。 私は大きな組織に居座るような生き方はしたくないし、誰かに迷惑もかけたくない。だったら起業してしまえばいい。起業=若者みたいなイメージもありますけど、別にそんなことはないと思います。なにより、市場があって、お客さまがいて、そこに価値ある商品やサービスを届けることが好きなのだと思います。