自らの手で未来をつかみ取る革新者たちは、自分の可能性をどう開花させてきたのか。今回インタビューしたのは、学生でありながら自力で資金を集め、世界最年少で探検家グランドスラムを制した南谷真鈴さんだ。文=唐島明子 Photo=山田朋和(『経済界』2020年1月号より転載)
南谷真鈴さんプロフィール
南谷真鈴さんがエベレスト登頂を決意するまで
海外を転々とした子ども時代
これまでメディアで見てきた南谷真鈴さんの姿は、フェミニンな栗色ロングヘアと端正な顔立ちが印象的だったが、今回の取材には清々しい黒髪のショートカットで現れた。その大きな変化に驚き、「髪を切ったんですね」と言うと、「ヘアドネーションしました」と優しく柔らかい声が返ってきた。
南谷さんが世界最高峰のエベレスト登頂を実現するため、自力で資金を集めようと動き出したのは高校3年生の秋だった。どうすればいいか分からないところからのスタートだったが、最終的にはエベレスト登頂だけではなく、探検家グランドスラムを世界最年少の20歳112日で達成した。
探検家グランドスラムとは、七大陸最高峰登頂と北極点・南極点到達を目指したチャレンジのこと。世界でまだ50人程度しか成功していない中、南谷さんはその世界最年少記録を塗り替え、大きな注目を集めている。
南谷さんが登山を始めたきっかけは、香港で暮らしていた中学生の頃までさかのぼる。父親の仕事の関係で、1歳半からマレーシア、中国の大連、上海など海外を転々とし、中2で香港へ行った。
現地で通った中高一貫のインターナショナルスクールでは、生徒1人に1台のPCが配られ、授業も宿題もすべてPCで行うという、一風変わった無機質な学校生活を送っていた。
「校舎は8階建てで、私が1階にいて親友が8階にいると、ビデオチャットしながらランチするような環境でした」
不安、心配、恐怖からエベレスト登頂を決意
また当時、南谷さんの両親はとても不仲であり、家でも心が落ち着かない生活を送っていた。そんな時に出会ったのが山登りだった。
「アナログなコンパスと地図を持ち、友達と役割分担しながら、登頂という一つの目標に向かって進むのがすごく新鮮でした。学校でも家でも安心感を得られなかったのですが、山を登ることは瞑想のようにも思えたし、一歩一歩が心のモヤモヤをひも解いてくれる感覚でした」
その経験をした後、ボランティア活動で行ったネパールで、ヒマラヤ山脈をトレッキングする機会があった。その時に
「こんなに美しく壮大なヒマラヤ山脈の中で最も高いエベレストに登ったら、どんな人と出会って心を通わせ、どんなチームワークを体験でき、どんな成長が得られるんだろう。いつか絶対ここに戻ってきて、エベレストに登るんだ」と決意したという。
それからしばらくの間、エベレスト登頂については記憶の片隅にしまっていた。
だが、高2の時に両親の離婚が決まり、その大変な生活の中でエベレストの夢を思い出す。
「両親の離婚は少し普通の状態ではなくて。母は虐待の疑いで香港現地で拘束されたりして、とても大変でした」
南谷さんは家に引きこもるようになり、それを心配した父親は南谷さんを日本に送り返した。住み慣れない日本で一人暮らしを始め、日本の高校に転入した。すると次第に不安や心配な気持ち、恐怖が南谷さんの中でうごめき始める。
「父は香港にいるし、私は今後どうなってしまうのか。学年の始まりが違う香港の高校の友達は9月で卒業して好きな大学に行っているのに、私は日本でまだ高校に通っていて、友達も作り直さないといけない……」
今では日本が大好きだという南谷さんだが、中国に住んでいた頃に通った現地校では、反日教育を受けたこともある。「日本に生まれたけど日本にはあまり住んだことがなく、自分が誰なのか分からない、自分がどこに所属するのか分からなくなっていました。そんな時にエベレストを登る夢を思い出したんです」。
その時の気持ちについて、南谷さんはこう振り返る。
「これまでのインタビュー記事ではシンプルにまとめて『アイデンティティを探して』というフレーズにはなっていますが、アイデンティティとか中学・高校生のモヤモヤ、尾崎豊の曲にある葛藤、怒りみたいなものが一気に出てきました。そこで『じゃあなんらかの活動をしよう。自分のアイデンティティを探究しながら形に残したい』と考えました」
いざ実行に移すべく、南谷さんは香港にいる父親に電話をかけ、「エベレストに登りたいんだけど」と相談した。
すると父親からは「いいんじゃない。でも資金は自分でどうにかしなさい」とあっさりとした反応が返ってきた。
孤独を感じながらも、自分の影から這い上がろうと必死になって資金を集める方法を思案した。いろいろと調べて分かったのは、20歳になる前にエベレストを登れば日本人最年少になるということだった。そこで「これを売り文句にスポンサーを探すんだ」と方針を固めた。
登山家としてのスタート、挫折、復活まで
自力で資金を集め100万円の寄付を獲得
ただし、高3の南谷さんには、企業に知り合いはいない。誰にメールを送ればいいのか分からず、「info@xxx.co.jp」など企業の問い合わせ先に片っ端から送った。
高校の授業が終わってから、時には1日100通近くメールを送ったが、1週間に1通、返事が返ってくればラッキーという感じだったという。
しかし、少し手ごたえはあった。
南谷さんは当時を思い出し、
「メールを読んでくださってるんですね、東京新聞さんと読売新聞さんが返事をくださり、記事にしてくれたんです。そしてそれを読んだ心優しいおばあさまが、『私は登山が好きだけど足腰が痛くて自分は登れない。若い人にぜひチャレンジして、景色を見てきてほしい』と100万円を寄付してくださいました」と笑顔を見せる。
エベレストの前哨戦で南米大陸最高峰に挑戦
その寄付を元手に、高3の2学期の期末テストが終わってから、すぐ部屋に戻って荷造りをして、飛行機に乗ってアルゼンチンへ行き、バスで南米大陸最高峰のアコンカグアのふもとまで行った。アコンカグアはエベレスト登頂の前哨戦だ。現地で受験勉強をしながら、登山のメンバーを探し、山に登り、登頂してから無事日本に帰国した。
高3の女の子が一人でアルゼンチンへ行き、しかも見知らぬ人の中から一緒に山を登る人を探すことに、不安や身の危険を感じたりしそうだが、そんなことはなかったと南谷さんは言う。
「恐怖とか不安は一度も感じませんでした。それより一人で家にいて、父も母も何をしているのか分からない、今後自分がどうなるのかも分からない状況のほうが怖かったです。
また実際に行動を起こし、自分の成長やアイデンティティを形成するといったインセンティブがありました。周りの17、18歳の若者が、『こういうことやりたいけど、親はお金を出してくれないし、まだ実現できないんだよね』と言っている中、『じゃあ私は何とか自分で資金を集めて夢を実現する』というのを証明したかったというのもあります」
アルゼンチンから戻ってきてからは進学先の大学も決まり、高校も卒業した。南米大陸最高峰のアコンカグアも登れたこともあり、「ちょっと自信がついていてすべてが順調にいってる」と南谷さんは感じていた。
しかしその後、エベレスト登頂に向けたトレーニングの一環で3月の冬山に挑んだ時に、滑落事故に遭ってしまう。
滑落後はうつ病に ドン底から這い上がる
「足元の雪が崩れて、250メートルほど滑落してしまいました。その夜は雪の斜面に穴を掘って休みましたが、寒くてほとんど眠れません。翌日ヘリで救助されて死は免れましたが、この事故をきっかけに今までの不安とか恐怖が一気に噴き出てきました」と当時の苦悩を語る。
入院中は頭の中をマイナスな考えに支配された。エベレスト登頂のアドバイスをくださいと相談していた登山家から言われた、「君には絶対できるはずない。茶髪のギャルみたいな女子高生がエベレストに登ろうだなんて、僕に対する侮辱だ」というようなフレーズが、ガンガン頭の中を回り、激しく落ち込んだという。
また南谷さんの父親と母親は、一度も見舞いに訪れなかった。退院してからは一人で新幹線に乗り、一人で家のドアを開け、誰もいない真っ暗な部屋に帰った。
「その時が一番つらかった。からっぽでガラーンとした部屋に一人になり、『どこに行けば温かいぬくもりがあるのか。おかえりって言ってくれるんだろう』と。もう永遠に抜け出せない暗いトンネルの中にいたような気がしてうつ病になってしまい、食器も洗えず洗濯もできない状態になりました」
しかし、どん底を経験しながらも病院で処方されたうつ病の薬を服用し、また高校で一番仲が良かった女の子の友達による泊まり込みの看病を力に、何とか暗いトンネルから脱出する。そして改めてエベレスト登頂に向けて再び動き出した。
「熱意が周りの人に伝わったのか、その後サポートしてくれる方が増えました。山と渓谷社さんの登山雑誌に連載させていただき、そこから早稲田大学OBでユニクロの柳井正会長に出会い、エベレスト登頂だった夢が七大陸最高峰になり、さらに火がついて南極点と北極点到達まで夢が大きくなって。大学の休学を決めて、一気に達成しました」
南谷真鈴さんの今後の活動
ライフワークとして取り組む登山
探検家グランドスラムの総仕上げとして2017年に北極点に到達した後、南谷さんは南アフリカで約1年ほど過ごし、ヨット学校に通った。次なる挑戦として、ヨットでの世界一周という声もあるが、「今すぐにではなく時間をかけてゆっくり、いつかヨットで世界一周したいと考えています。50歳とか60歳とかになるかもしれません」と語る。
南谷さんには「登山家」「冒険家」などの肩書がつけられるが、自分自身ではそう認識していないという。登山やヨットは「キャリア」ではなく、あくまでも「ライフワーク」という位置付けだ。そしてそのライフワークに、今は東北の活動も加わった。
卒業後は企業に就職
「私の父をはじめ、ご先祖は東北出身なのですが、2019年は東北で活動させていただく機会が何度かあり、それをとても嬉しく感じています。また、11年の東北大震災の影響で、三陸の海底にはがれきがたくさん残っている一方で、昆布やサンゴは根こそぎなくなったままの砂漠状態です。がれき撤去やワカメの種まき、そして養殖アワビを海に戻すなど、三陸に海の森を取り戻す活動を東北のダイバーの皆さんと一緒にやっていきたいです」
今後のキャリアについては、普通の大学生として就活することを考えており、企業に就職する予定だ。
「就職する理由は、組織の中で働く能力はすごく重要だと私は思っているからです。チームプレーでは、一人の人間が実現できることよりもっとすごいレベルのものを実現できます」
企業での実務経験を数年積んだ後は、大学院へ進学したり、法人化した個人事務所をさらに多角化し経営することも考えているという。
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