衆議院選挙制度改革で超多忙な大島理森衆議院議長。自民党の副総裁まで務めた党務の大重鎮で、閣僚経験も少なくない。それだけに風貌も物言いも重厚だ。私にとっては懐かしい昭和の政治家の雰囲気である。瀬戸内海出身者が目立つ安倍政権時代にあって、東北の政治家は目立たなくなってしまった(菅官房長官は秋田生まれだが神奈川県選出)が、大島議長は青森県から三権の長の座を射止めた。今回は、政治家・大島理森の誕生までの話を聞いた。
政治家の家が嫌だった少年時代の大島理森氏
德川 八戸はもとは津軽藩ではなく南部藩だったということで、同じ青森県でも肌合いが違うといわれています。
大島 ご存じのとおり、われわれ南部藩は明治維新の時は奥羽列藩同盟で会津の皆さんと共に德川幕府側で最後まで戦ったほうでございます(笑)。一方、日本海のほうは津軽藩でございますね。津軽藩は途中で列藩同盟をちょっと外れたという、そういうこともあるんでしょうね。言葉も津軽弁と南部弁というのはかなり違いまして。お祭も違います。それから、気候もかなり違います。
北国だから全部同じだろうと思われるかもしれませんが、私どもにはヤマセという偏東風が吹きまして、夏にオホーツクに高気圧が入り込んで、冷たい風が吹くんです。一方津軽のほうは奥羽山脈でそこが切られますので、冷たい風が行かない。そうすると江戸時代の米作中心の経済の中では、津軽のほうが豊かであったかもしれません。そういう地域ですから、農業以外で食べていかなくてはいかん、と。八戸は海がある漁業の町ですが、やはり工業で生きていこうということで、青森県の工業出荷高の4割くらいは八戸です。
德川 お父さまも政治家でいらっしゃいましたか。
大島 県議会が長く、県議会の議長をさせてもらっていました。叔父が実は衆議院議員をやっておりました。そういう政治的環境の中で生まれ育ったことになります。
德川 お父さま、また議長が育った頃の大島家はどういった具合だったでしょうか。
大島 父は寡黙でしてね。わが家はその地域では大きい農家でございまして、父は農業団体の長もやりましたが、家ではあまり喋らない。政治をやっている家ですから、絶えず誰かが来ていました。今のように事務所を構えてという時代ではございませんので、食事をしたり、あるいはお酒を飲んだり。わが家であってわが家でないというところがございました。私は、そういう環境が嫌でしてね。サラリーマンのお家が、家族だけでおられるというのが非常に羨ましかったですね。県庁は青森ですし、昔の県会議員さんは青森に行くと、今のように新幹線があるわけではないので、なかなか帰ってこないわけです。家に父がいる時には誰かが来てわいわいやっている。食事をする所も父は別なような感じですから、父と話したのは大学になってからじゃないですかね。
大島理森氏が時代の大きな変化を感じた新聞社時代
德川 慶応大学に行こうと思われたのは。
大島 高校は地元でしたが、早稲田か慶応に行きたいと漠然と思っておりました。残念ながら早稲田は入れなかったんですが、慶応に入って非常に良い友だちもできましたし、雰囲気も良くて、神様が「お前は慶応のほうが良かったんだ」と、言って下さったように思いましたね。
德川 お姉さまが東京で、すんなり順応できた。
大島 兄たちも東京の私大を出ておりまして、姉は嫁いで東京にいましたし、そういう意味ではすっとなじめました。
德川 慶応大学を卒業後、毎日新聞社に入られます。この進路はどう決まったのでしょうか。
大島 われわれの時代はちょうど全共闘とベトナム戦争の時代、団塊の世代の一番最初の時代です。激動の時代でしたが、学生時代には遊んでばかりいましたので、少し真面目に勉強したいと考えまして、それで新聞社に入ったというところもありました。私は広告局に入ったんですが、毎日新聞は当時、経済と外信が強いという評判で、先輩にスター的な記者が大勢いました。それから、中庸を行く新聞だと感じていましたね。
德川 毎日時代については。
大島 普通の新聞ではだんだん弱くなっていくのではないか、ということでコミュニティー新聞を作ろうという方針になりましてね。東京は大都会で、読者はそれにふさわしい記事を求めるわけですが、地域コミュニティーに合わせた30万部くらいの週刊新聞を地域区画を決めて作ろうということになったわけです。ちょうど量販店が郊外にどんどん出て来た時代で、それと協力してできないかと。編集、広告局、あるいは部外から人が集められた中に私も入って、全く新しい仕事を2年目からさせられました。
例えば、二子玉川に高島屋がございますが、あのエリアで『リバー』という、新聞なのか雑誌なのか分からない媒体でしたが、それを作れと。ちょっとした取材をしたり、広告を集めたり、選挙運動の戸別訪問みたいなこともやったり、楽しかったですよ。われわれが入社した時には三島由起夫さんが割腹自殺をしたり、成田闘争があったり、時代の変わり目ということでしょうか。高度成長が爛熟しかかって、大阪万博があって、よど号事件もありました。
政治家・大島理森の誕生へ
德川 政治家を志したのは、いつ頃でしたか。
大島 意識の中にはあまり政治の道というのはありませんでした。ただ大学に入って父の選挙を初めて手伝ったんです。そうしたら、落選しちゃった。その姿が非常に気持ちの中に残っていましたね。大学に行かせてもらって、遊びほうけて今日まできて、父が落選したな、と。悔しいという思いもありました。その一方で、三島事件から全共闘から世の中の激動は強く感じていました。しかも東京都の美濃部亮吉知事、横浜の飛鳥田一雄市長、それから大阪、京都は共産党の首長が生まれて、「世の中、どうなっていくんだろう」と思いました。父の影響もあるとは思います。政治の世界に生まれ育って染み付いた感覚として、世の中の動きに直接コミットしていきたいという思いが徐々に出てまいりました。
それで1975年が統一地方選だったんですが、前年の2月に休暇を取って父のところへ行きまして、父に「来年4月の選挙に出たい」と言いました。10年近く地元にいなかったわけですから、無謀ですよね。父は「4月になったら結論を出そう」と言いました。どこか私に期待していたところがあったのかもしれません。ところが4月のはじめにぽっくり亡くなっちゃったんです。選挙をやるとしても、私はサラリーマンだったから金があるわけでなく、物心両面で父の世話にならなくてはならなかったので、さてどうするかと。母には全く相談していない、父にだけ打ち明けていたんです。
ところが父の葬儀になると、昔の支持者の皆さんが集まって、誰かを出したいという話になったわけです(笑)。灰の中に残り火があるという、これが日本の政治です。古い連中は私のことを「タダモリ」とか「タダちゃん」と呼んでいましたが、「あんた、やれよ」と言いだすわけです。
結局9月30日に毎日新聞に辞職願いを出しまして、青森へ帰りました。ですから今まで私は「父の遺志を継いで政治をやります」と言ったことは一度もありません。ただ、相談した時に父は「お前が考えているほど選挙は甘くないんだよ」と言いました。私の志を打ち明けられた時、たぶん父はうれしかったんだと思いますが、結論を4月まで伸ばそうと言ったのは、それまでに息子が政治をやるための環境をつくれるかを考えたんだと思います。
一方、母は大反対です。「何で帰って来た。世のため人のために尽くすのは毎日新聞だってできるではないか」と。でも、いざ私が「辞めてきたんだ、俺は」と言った時に、一番心配してくれたのは母であり兄だったかもしれません。
初選挙では国民との対話を訴えた大島理森氏
德川 政界入りした当時、最大の大物は田中角栄さんでしたよね。角栄さんのことを、どう見ておいででしたか。
大島 田中先生というのはもう雲の上の方でした。毎日新聞社に勤務していた時は生意気に天下国家を議論したり、政治の本を読んだりはしていましたが、田中先生は論ずる対象ではなかったですね。会ったこともありませんでしたし。ただ、青森県議だった父は三木武夫元総理とのご縁があったんで、三木先生のお名前は父からよく聞かされていました。
田中先生のことを間接的に知ったのは、青森県議会議員から衆議院議員に初挑戦する頃のことです。当時は県議2期目でしたが、若き日の小沢一郎先生から「田中派から衆院選に出ろ」と言われて、びっくりしました。県議の時代はとにもかくにも青森県の地域のことを勉強し、県内を歩かなくてはならないので、中央政界の誰それとつながって、という感覚ではございませんでした。
德川 角栄さんは新潟をどうにかしたいということで著書『日本列島改造論』(日刊工業新聞社)を発表しましたが、青森県ご出身ですと共感するところがあったのでは。
大島 それはもちろんありました。私は最初に県議選に挑戦する時は「なぜ青森県がもう少し頑張れないのだろうか、頑張っていかなきゃならん」という強い思いがございました。それからもうひとつ、当時は何となく「革新勢力」がどんどん日本中に広がっていて、生意気ですけど「自民党の在り方を少し変えなくてはならないんじゃないか」と主張していました。「自民党はもっと国民との対話が必要であろう」と。
こんなことを28歳の初めての選挙の時に、演説をぶって歩いていました。「28歳の新人が演説で一体何を言うんだ?」という興味もあったんでしょうね。10人のうち2番目で当選させていただきました。それで地方議会に入っていろいろな先生の名前を聞いたり、政策を拝見したりしました。当時は大平正芳先生の「田園都市構想」に非常に感動しました。「これこそ日本の新しい道のりではないだろうか」と思ったことを鮮明に覚えています。
そうしていくうちに、自分の政治家としての流れみたいなものが少しずつできてきました。特に三木派の熊谷義雄先生とのご縁は、一言では言い難いものがございました。私も若かったものですから、熊谷先生の街頭応援演説でわんわんやったりしたりしていて、徐々に三木先生の流れに加わっていったのです。父も三木先生が自民党の前の国民協同党にいらっしゃる時代から尊敬しておったようでした。そんな経緯で三木派の次の河本敏夫先生にご指導いただくことになりました。
大島理森氏が語る 小沢一郎氏との印象深い出会い
德川 県議から衆議院議員に移られたのが1983年ですね。
大島 はい。ただ、最初は落選したんです。80年のことで、33歳でございました。あの時は自民党の大抗争があって、「これでもう自民党は駄目になるのかな」と思っておりました。そうしたら、熊谷先生がその前の選挙で落選されて、後援会の方たちから「大島君、衆院選に出ろ」と言われましてね。
ただ中選挙区の時代ですから。八戸では2回県議会に当選して「大島理森」の名前が少しは浸透し始めていましたが、とにかく広い下北半島、それこそ斗南藩から津軽の青森市までが衆院選挙区だったんです。結局、次点で落選。それから3年半浪人をしました。やはり浪人は辛いものですが、同時に人のありがたみもよく分かるものです。多分今日の私があるのは、あの時の経験ですね。
浪人中は誰でもそうですが「次は当選できるかできないか」という己の不安と戦いながら、後援会づくりをやらなきゃならない。それで83年に当選させていただいて、本当に何とも言えぬ喜びでございました。3年半、我慢して物心両面にわたって支援してくださった皆さまに対する恩返しができましたし、何より家内が一番ほっとしたと思います。衆議院の選挙は落選をいれて12回やりましたが、やはり最初の当選が一番思い出のある選挙でしたね。
德川 田中派に誘われたのは、83年の選挙ですか。
大島 いえ、最初の80年の選挙の時です。小沢一郎先生が八戸までやって来まして「大島君、君が田中派に来れば、自民党公認もちゃんと出るぞ」とおっしゃったんです。「大変に恐縮ですが、青森にも田中派の竹中修一先生がおられるじゃないですか」と答えると「いや、竹中サンは青森だ。君は八戸だ」と。まさに、これが田中派の強さ、政権というものの実態かと、こちらは聞いて震えるわけですよ。それが小沢先生との最初の出会いでした。
選挙は個人の戦いですが、政治の実態である権力闘争というのは、こういうことなんだろうなということを勉強させてもらいました。同時に「田中派というのはすごいんだな」とも思いました。地元の先輩たちや現職の議員たちにもご理解いただいて、最初から公認は頂けましたが、今でもあの場面は忘れられません。
大島理森氏が語る 派閥の長から学んだ政治家としての姿
德川 衆院選で初当選された時の総理大臣は中曽根康弘さんでしたが、総裁選で敗れたばかりの河本敏夫さんの派閥へ行かれましたね。河本さんはどういう政治家でしたか。
大島 私が衆議院選挙に出るという決意をしたところ、熊谷先生に「河本先生は非常に寡黙ではあるけれど経済では次のリーダーになれる人だから、ご指導を仰ぎなさい」と言われてごあいさつに行きました。それからずっとご指導いただいて河本先生から学んだのは「言い訳をしないということ」それから「言の葉に乗せた時にはそれをやり遂げる」という政治家の姿です。それと、やはり経世済民の信念でした。その後、河本先生が総裁選に立候補されて、私どもも必死に応援しましたが力不足で総理にはなれませんでした。
竹下内閣から宇野内閣になって、消費税にリクルート事件、宇野総理のスキャンダルなどが続き政権与党の自民党の支持率が低迷しきっていた時に、自民党をどう再生させるか、そしてこれが河本先生の最後のチャンスだと思って、一生懸命、各方面に頭を下げて回っていました。でも、河本先生は「僕はもう総裁選には出ない。海部君を推してくれ」とおっしゃいました。各派閥の事務総長の会合に私が呼び付けられて、「今度、海部先生が総理候補になる。また対抗馬を作って自民党を再生させなくてはならない。君はちょこまかと動くから、ともかく海部先生との連絡とか、そういうことをやりたまえ」と言われました。私は河本先生に総理の芽がなくなったことで涙が出そうになっていたのですが、河本先生は「俺は吉田松陰になる。若い者を育てるんだ」と一言おっしゃったのをよく覚えています。
德川 海部内閣はご覧になっていて、いかがでしたか。
大島 当時の海部内閣は政治改革を断行することを使命として出発したんですが、いきなり日米構造協議、それから湾岸戦争が降って沸いたわけです。海部総理には官邸で1年8カ月仕えましたが、「難しい問題を国民の皆さま方に分かりやすく説明する」という政治家として最も大事な技量をお持ちでした。三木先生の影響もあると思いますが、海部先生はやはり戦中派の最後の世代の政治家なので大変な平和主義者でした。そういう中で一生懸命、真面目に取り組んだと思います。ただ、河本先生のグループは非常に小さく、パワーがちょっと足りなかったことは事実だと思います。
文=德川家広 写真=幸田 森
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