経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

「不況下の経営者はどうあるべきか」対談:松下幸之助(松下電器産業相談役)×伊藤淳二(鐘紡社長)

松下幸之助

ついに夢の対談が実現した。“経営の神様”松下幸之助・松下電器産業相談役と、当代随一の若手理論家、伊藤淳二・鐘紡社長が、古くからの“師弟”のように意気投合。堂々二時間にわたって熱気あふれる“心”の対談が嵐のように過ぎ去っていった。そこで本誌では、初顔合わせの対談内容を公開することにした。(『経済界』1983年7月10日号収録)*社名、肩書はすべて当時

松下幸之助氏と伊藤淳二氏
対談に臨んだ松下幸之助氏(左)と伊藤淳二氏

50歳で本当の勝負が決まる

―― 今日は、「不況下の経営者はいかにあるべきか」のテーマで1つお話し合いをしていただきたいと思います。まず、伊藤社長からどうぞ。

伊藤 3年前にちょうど飛行場で、松下相談役にお目にかかった時に、「こりゃえらいことになった。これからは耐え忍ぶしかない」ということをおっしゃったことがございました。事実あれからずっと不況が続いており、深刻な事態が今日まで続いております。それが本物なのかどうか、相談役にぜひお教えいただきたいと思いますが。

松下 伊藤さんは社長に45歳のときになられたでしょう。天下の鐘紡いうたら、僕らの青年時代でも繊維産業のナンバーワンやった。武藤山治さんから津田信吾さんに代わって、われわれもその時分中小企業やから、富士山みたいなもんやな(笑)。

 その会社の社長に伊藤さんが若くしてなられたということ自体が、非常に財界をアッと言わせた。だから当時、伊藤さんがうまくやるかどうかということは、注目の的やった。

伊藤 あの時ちょうど松下さんと、ある銀行の会合の夕食にご招待を受けて一緒になりました。その帰りに私のところにわざわざ寄られ、手を握っていただき、「これから大変やろうけども、あんたが上手くいくかいかないかが、日本の経済界の若返りができるかどうかの瀬戸際でっせ。しっかりやりなはれ」と言われたのが、心の支えになりました。

松下 あの時、あなたが非常に若くって、しかも先輩がたくさんあって、僕自身もそういう例が少ないから非常に関心を持ったわけですよ。だから、あなたが上手くやったら、それはいろんな点で好影響を与えるということで、僕自身非常に興味を持ったわけですよ。

伊藤 あれからもう8年になります。特にこの3年間の不況はいつの間にか過ぎまして….。

松下 そうですか。しかし、見事にそれをやりなはって、先輩が沢山いるのに上手くやっていかれたということは、なかなかできんことやという感じがして、今でも尊敬してますねんや。

伊藤 恐縮します。

松下 先輩がいれば、上の人がいっぱいおるわけやから、人事問題が非常にややこしいでしょう。人事問題が上手く行きゃ上手くいくけどね。先輩でもなかなか後輩に言うことをきかすことできへんのに、後輩が先輩を使うんやから、よくやりなはったと思います。

伊藤 まだまだ道遠しです。十分なことは出来ていません。

松下 そこへまた、石油ショックがおきて突如として不景気が襲ってきたから、これまた大変だったろうと思うな。それを上手くやられたし、ことに労働組合の問題ね。あれも天下が注目したもんな。

 それで労働組合としては、かつてないような争議を進められて、いいか悪いかということについてはいろんな議論がありますが、そやけどあんたとしては初心をずっと貫いた。ということは、僕は幾多の教訓を成すものであると思います。

伊藤 ちょうどオイルショックが48年にございましたね。あの次の年の49年があけた時、やっぱり飛行機の中で、しばらくぶりにお目にかかった時に、「あんた、今いくつになりなはったか」と松下さんに聞かれました。ちょうどあの時50になったばかりでした。「自分が終戦を迎えた時が50でしたな。それから今日まで30年、50になってからが本当の勝負だった」ということをおっしゃいましたね。あの一言は本当に心にずっしり響きました。

松下 あんた、よう覚えてはりまんな(笑)。若いだけあって頭が….。

伊藤淳二と松下幸之助
松下幸之助氏(右)の言葉がズシンと響いたという伊藤淳二氏

不況を乗り越えた秘密

―― 松下相談役は創業して50年になられるわけですけれども、その中で今回の不況を含めて何べんか大変なことがおありだったと思うんですけど….。

松下 不況も大抵5年に一ぺんは巡ってきますわ。しかし、大きな不況というのはそうありませんわな。大きな不況は大正の初め、台湾銀行とかああいうとこが潰れたことありましょう? 銀行が皆倒れたですよ。僕が預けてる銀行は十五銀行だった。それも潰れたでしょう。メインバンクやったんです。そういう時に弱りましたな。

伊藤 あれは昭和に入ってからでございましょう?

松下 昭和の2年かね。その時は相当大きくて、鐘紡も津田信吾さんがやってた時分に争議があったんですよ。

伊藤 あの時は昭和5年で賃金を4割ぐらい切り下げまして、大争議が起こりましてね。この間、西尾末広(※日本の労働運動家・政治家。 副総理、官房長官、衆議院議員、民社党初代委員長などを歴任)さんにお会いしましたら、あの争議のリーダーのお一人だったと言われました。

松下 政府が官吏の賃金を1割程度下げた時です。それで乗用車全部売ってしまったと。緊縮で。浜口(雄幸)内閣の時でしたかな。

伊藤 あの時はまだ創業の当初でございましょう? その時にそこを克服されました秘訣は何でございましたか。

松下 それは品物がパタっと売れんようになったですよ。そやからたちまち倉庫が一杯になりますがな。それでもうかなわんから、首切りということになったわけですよ。

 けど、その時にせっかく得た人を首切るようなことはいかんと。将来もっと使うてやろうと思うてるのに、途中でいったん雇った人を辞めさせるということは、いかにも残念やと。何かないかと….。それでフッと気が付いた。半日勤務にすると。半日勤務にしたら、半分人が辞めるのと同じでしょう? 

 そうやって全部給料を毎月出そうと勤務は半日やと、しかし賃金は1日分出そうと、これは誰も文句言いませんわ。そうしたらふた月したら、倉庫空になったです、えらいもんで。製品は半減でしょう。で、売るのは一所懸命売るのやから、そしたら上手くいったですよ。それで私はやったらやれるもんやということ、その時初めて信念というものが生まれたわけですな。

 しかもそれが成功したということによって、非常に経営の上に大きな信念ができたということが、1つの得たもんですな。だから不況もまたええなと。こういう1つの力強いものを自分の胸に刻みこむと、それから大胆にしごとするようになったですな。

松下も財閥解体の危機に

―― 終戦を迎えた時はどうなったんですか。

松下 ええ。あれも大変ですわ。というのは、私のほうはあの時に飛行機会社やったんですよ。飛行機作ってたんですよ。

伊藤 軍需会社ですね。鐘紡も同じようでした。飛行機も作ったんです。

松下 うん、しかもそれ、木製戦闘機(笑)。ジュラルミンがないんですよ。それで木製の飛行機を作った。それで航空機会社だと、それから銃剣をつくって兵器やってるということで、財閥の指定になったんですよ。

伊藤 そうするとやっぱり解体の指定があったわけですね。

松下 買いたいですな。僕はその時思うたんです。どう考えてもうちは財閥やない。それが三井や三菱同じだと判定されたのは、進駐軍の間違いやと感じたから、僕は不服を訴えた。ところが承知しましたと言いませんわな(笑)。それから5年間財閥指定の待遇受けたんですよ。非常に困ったけど、会社の社長だけは辞めなんだ、頑張って。そういうことありましたな。

 ところがそれが24年の12月に解除になったんですね。分かりましたと。それで青天白日になったですよ。それまではできしまへんでしょ、経済行為を。そやから社長だけの肩書しかなかったんですよ。

急成長した松下の原動力

―― 戦前の不況と比べて今回の不況はどうですか。

伊藤 今回の不況は全然質が違いますね。

松下 違いますな。

伊藤 ところで、たとえば御社のように弱電という経済の成長に方向が合った事業であったにせよ、この事業も無論たくさんの競争会社がございますね。その中で松下電器産業が際立った成長をしたということについて、いろんな世間の見方があるんですが、ご自身としてはどういうところが発展の原動力だと評価なさいますか。

松下 何という手も戦後の勃興期に、電気器具とかそういうものに国民の要求が増えた。そこへ日本の人々がアメリカの生活というものを見られるようになった。アメリカでは家庭電化というものが盛んですわな。それで電器というものを皆欲しがるわけですわ。で、家庭電化というものが非常に興隆したわけですわな。それに乗ったわけです。

伊藤 しかし、同じように電器を志向した会社がたくさんありますけど、御社だけがそういう中にあって、発展した理由は何だったと思われますか。

松下 それはやっぱりそれまで、商売というのは50歳になるまで、満で23歳ですな、25やけど、それから50歳まで商売しとったんですわ。

伊藤 本当の意味の商売のコツといいますか、真髄が体験的に身についておられたということですね。

松下 知らず知らずのうちに身に浸みとるわけですな。自分でやってたでしょ。だから50年の、いよいよ戦後の勃興期に入って商売するというときに、その体験というものが非常に生きたわけですな。

 それで一定の方針というもの、つまり理念、経営理念というものはかくあるべきものだというものは、前から続いとったわけですわ。それが幸いに当を得とったわけですわな。それを戦後もその通りやったわけです。そやから非常に信念はあったわけですな。

 それが1つの原因でしょうな。その時分はまだ日立さんと東芝さんは、一部作ってたけど、家庭電器全般は作ってまへんからな。私のほうが一歩早かった。そやから、そういう小売屋さんの呼びかけでんな。

 どうすれば、小売屋さんが繁盛するかと、お得意さんが繁栄せんとあかんからねぇ。お得意さんの繁栄というものを考えたんですよ。そやからいろんな会を作ったり、小売屋さんの講習会をやったり、そういうことを盛んにやったわけですな。それで小売り屋さんの信頼をだんだん集めて、おんなじことやったらナショナル買おうかと、こうなったですな。

伊藤 販売店に対する考え方の徹底というか、その呼びかけ、その思惑に共鳴を得たということでございますかね。

松下 そうですね。それにやっぱり利益を与えるとこがええと、利益がないと誰も働けないわな。商売っていうものは私でするのやないと、商売ってものは世のために存在するんやと。

 しかも公の仕事や、小売屋さんが自分の公の仕事をしているという信念に立ってるかどうかというと、儲けるためにやっとるというんでは正しくないと。それでは違うんやと。小売屋さんと言えども、われわれと言えども、政府がやってるごとくに、公の仕事をやってるんやと、そういう信念に立ってやったら、問屋さんは小売屋さんを説得できると。小売屋さんは利用者を説得できると。

不況こそ進展のチャンス

―― 不況の時に一番心がけておられることは何ですか。

松下 39年に非常に不景気がきましたでしょ。それで山一証券も潰れかけて、政府が助けた。山陽特殊鋼とかね、日本特殊鋼が潰れたでしょ。ああいう不景気な時にうちも直面した。そうすると当然、経済界が非常に混乱したでしょう? その時に新しい販売法というのを考えるわけですな。販売政策というのを。

 ということはどこの販売店を調べてみても、皆損をしとるですよ。乱売競争でな。それをまあ初めて知って、私がもう社長辞めて会長になった時に、これはいかんなということで、一ぺん皆を呼んだですよ。箱根、熱海の会なんていうの。

 「皆さん儲けていますか」と質問したら、「損してます」と言う。しかし、その中にも「儲けてる方いますか」と言うたら、二百何軒のうち、二、三十人は手を挙げますな。そういうことから三日間会議したですよ。それで儲かる方法は、現に儲かっている人もあるねんやから、その儲かる人がどうやってるかというたら、ピシッと方針立てて方針通り動いてますわ。それで小売屋さんに共鳴してもろうてますわ。

伊藤 そういう何ていうか、一番のポイントになるところをピシッとあの時に押さえられて、断乎として大きな方向転換をなさったことが一つの転機でございましたかねぇ。

松下 転機でしょうなぁ。そういう点考えますと、私はやはり景気がええことが続くことも結構やけど、たまに困るなという不景気に合うことも、大きな進展の機会になりまんな。

伊藤 ですから本当に、今の時代が当たり前だというふうに思ってやることが必要かもしれませんね。

松下 そうですね。早く言えば3年に一ぺんはちょっと不景気になるということが、経営者としてはやりやすいんじゃないですか。

伊藤 そこで一つひとつ節をつけて反省してみるといいますか。

松下 ええ、十年に一ぺんはちょっと相当深刻な不景気が来ると。十年も高度成長を続けると、頭がボケてしまいますよ(笑)。

伊藤 不況の時と言うのは、一つのぜい肉を落とすというか、自分の会社に本当に合ってる事業が何かと言うことを反省するまたとない機会ですね。

松下 そうね。そういう時期機会が与えられるわけでんな。不況になると。

伊藤 そういうときじゃないとできませんです。

松下 ええ、だから十年というか、5年に一ぺんでもいいが、多少不景気だなということが、身を引き締める上において非常に大事ですな。だから私は、不景気もまた結構やないかという考えも言えると思います。

伊藤 それに事業に対する徹底的な反省とか、中途半端な考え方がもう許されませんしね。

松下 そうですね。それに、社員を訓育するのでも、好景気の時は訓育しにくい。本当は不景気で危ないなぁと思うているときに、適当なことを言えば、これ耳に入りますね。

伊藤 身に浸みるといいますか。

松下 うん。だから経営者としては、時々不景気が来てくれるほうがええ(笑)。本当は。