松本紹圭「ひじりみち」(『経済界』2020年11月号より加筆・転載)
新しい座標軸を引き直す必要性
ブルーノ・ラトゥールの『地球に降り立つ 新気候体制を生き抜くための政治』は、今世界で起こっている変化を鮮やかにとらえた良書です。
2017年、コロナ前に書かれたものですが、ここでなされている議論は全く色褪せないどころか、新型コロナで加速した社会の変化をとらえる上で、ますます重要性が増しています。
人間と自然、グローバルとローカル、右派と左派といった、拗れに拗れた近代の二元的な思考を問い直し、近代を超える新しい座標軸を設定し直した上で「テレストリアル」という方向性を示す著者の思考は、社会の行き詰まりを前に無力感に打ちひしがれそうになる私たちに、刺激と勇気を与えてくれます。
ラトゥールも言うように、近代は完全に終わりつつあります。右翼・左翼、グローバル・ローカルといった二元論のすれ違いが拡大し続けるツイッターの言論空間を見ても、それは感じられるところです。
近代の枠組みが死につつある中で、私たちは考え行動する座標軸を失っています。ラトゥールは新しい座標軸を設定し、ベクトルの先にテレストリアルという方向性を示しましたが、彼がしたように、私たち一人一人が、新しい座標軸を自分で考えて、自分で引き直すことが必要なのだと思います。
宗教や仏教のこれからの役割とは
ここ10年ほど、マインドフルネスが世界的に注目されるようになりました。グローバル資本主義によって世界がひとつのマーケットとしてつながり、貨幣という共通のモノサシで計られ、売り買いされる世界が完成しかけた。
そこへ投げ込まれた「これからのフロンティアは人間の内面にある」という呼び掛けが、マインドフルネスの商品化を通じて世界に広がったことは、ラトゥール的な世界の見方をするならば、もしかしたらそれも一握りのエリート層が中間層にしかけた、真の問題から目をそらせるための罠だったのかもしれません。
今、気候変動という現実を前に見えているのは、基本的な生存欲求について人類の大部分が充足を得て、いよいよ上位の自己実現や自己超越欲求に向かっていくというユートピアの時代ではなく、自然の猛威によって安全・安心の基盤が常に脅かされる、〝大洪水〟の時代の到来です。
そう考えると、これからの宗教や仏教の役割は大きいといえます。近代が終わり、人々が座標軸を見失って右往左往している時に、今までの発想の延長線上ではなく、世界の外部から全く別の座標軸を提案することこそ、宗教の真の役割ではないかと思うからです。
仏道の学びの基本は「戒律」「集中力」「智慧」
さて、仏道における学びの基本は「戒定慧」の三学であると言われます。
・「戒」は戒律。生活を整え良き習慣を身につけること
・「定」は集中力。心を制御して平静を保つこと
・「慧」は智慧。究極的に覚りであり、自己と世界を正しく見ること
八正道も、大きく括ればこの「戒定慧」に収まると言われ、その8つのうち「正語 正しい言葉を保つこと」「正業 正しい行いを保つこと」「正命 正しい生活を保つこと」が「戒」に当たります。つまり、正しい言葉・行い・生活という習慣を保ち、正しく気づきと集中を保つよう努め励むことにより、正しく物事を見て、考える智慧が生まれるということです。
マインドフルネスはこのうちの「定」に当たります。そこでは、日常的な空間や時間の感覚から離れ、「いま、ここ」が強調されます。
思うに、この「定」はもちろん大切ですけれど、あまりここばかりを強調してしまうと、私たちが離れることのできない日常的な暮らしの中で、自己と世界をどう認識し、いかに生きるかという問題が、棚上げされてしまいかねません。
今後の仏教は「戒」つまり、私たちがこの世界や身体という空間をどのようにとらえ、日々の時間をいかに生きるのかというテーマが、マインドフルネスが強調する「いま、ここ」と合わせて、より重要になっていくでしょう。
近代を成仏させる僧侶として
ところで、最近考えずにはいられないのが、自分の肩書きはなんなのか、ということ。
23歳で仏門をくぐってから、これまで随分いろいろなことをやってきたとはいえ、それでも自分のアイデンティティは「お坊さん」でしたし、そのことにそれなりに誇りも持ち、「僧侶の松本です」と名乗ることにためらいもありませんでした。しかし最近、急に「僧侶の松本です」と名乗ることに、違和感を感じ始めています。
違和感を感じることは、悪くありません。違和感こそ、正気を取り戻すための良いきっかけですから。僧侶であることが、嫌になったわけではないのです。
これからも僧侶をやっていきたいですし、むしろもっと突き詰めてやっていきたい。そのためには、今まで漠然と、剃髪して、作務衣を着て、お寺にかかわる仕事をすることをもって「僧侶です」と名乗ってきたものを、再定義する必要があるところに差し掛かっているのでしょう。
「中心はどこにでもあり、周辺はどこにもない」中で、自分が自分のど真ん中を生きることが、仏教の言う「中道」であると私は解釈しています。近代後の世界が座標軸を失う時、中道はますます難しく、ますます重要に、ますますクリエーティビティを要求されるものとなります。
お坊さんの在り方にしても、ありふれた二元論を捨てて、新しい座標軸を探求し続けるところに、「既存の価値観から距離をとりながらも、既存の価値観に影響を与え続ける」出家的な存在の意味を見いだしたいところです。
僧侶といえば、まだまだ一般的に、「法事や葬式の時にお経を読む人」というイメージが根強くあります。でも私は、ほとんどそういう活動をしていません。そのことも「僧侶です」と名乗る違和感につながっているように思います。でも、人のイメージはそう簡単には変えられない。ならば、私の自己紹介はこんなのはどうでしょう。
〝私は僧侶です。「近代」の死を弔っています〟
「近代」亡き後の世界で新しい座標軸をスムーズに引くためにも、弔いという区切りは必要でしょう。さて、私たちは無事に「近代」を成仏させることができるでしょうか。
筆者プロフィール
(まつもと・しょうけい)東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。東京大学文学部卒。武蔵野大学客員准教授。世界経済フォーラムYoung Global Leader。海外でMBA取得後、お寺運営を学ぶ「未来の住職塾」を開講。著書に『お坊さんが教える心が整う掃除の本』(ディスカバートゥエンティワン)●Twitter ID shoukeim●komyo.net