経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

利他主義と自己中心的資本主義

松本紹圭「ひじりみち」(『経済界』2021年3月号より加筆・転載)

 関西のとある県で開かれる勉強会に定期的に参加し、県知事と一緒に学ばせていただいています。

 国内外から各界の学者や研究者といった有識者が参加されていることもあり、毎回新たな視点をいただきながら学びを深める場となっています。先日のオンライン勉強会には、仏の経済学者であり思想家のジャック・アタリ氏が登壇し、その思想に生で触れることのできる大変貴重な機会をいただきました。

 自身の近著『命の経済――パンデミック後、新しい世界が始まる』の帯で「欧州最高峰の知性」と紹介されている通り、EU統合の立役者であり、現在の世界の枠組みに少なからぬ影響を与えてきた人でもあります。ご高齢となり第一線から退かれた今、恐らく以前より丸くなられたのでしょうか、穏やかで優しい雰囲気をまとった様子が画面越しにも伝わってきました。

西洋で失われつつあるスピリチュアリティの伝統

 ここに、近著で書かれたことをベースとしたアタリ氏のお話を、書き留めておきたいと思います。

 コロナになって、人間は死を恐れるだけでなく、「死の選択」を恐れるようになった。医療などのリソースが逼迫し、どの命を救うのか選ばなければならない局面に立たされている。平均寿命の短かった昔は人の一生に今ほど価値はなかったが、寿命が延びた今は皆が慌てふためいている。

 特に、スピリチュアリティの伝統を失った西洋においては今生の人生しか考えられることがなく、ショックが大きい。そのため当初は対岸の火事のように見ていたパンデミックに十分な備えもできておらず、結果的に津波のように感染が広がった。

 これからは、「Positive Society(ポジティブ社会)」と「Economy of life(命の経済)」によってもたらされる、「Rational Altruism(理性的な利他主義)」が大切になるだろう。利他主義と対を成すのが、現在の消費社会の根底にある自己中心的資本主義(Selfish Capitalism)であり、ナショナリズムは集団としての自己中心主義であると言ってもいいだろう。

利他主義と自己中心性の戦い

 最近は仏教のメディテーションが注目されているが、それとてある見方からすれば、社会の苦しみから目を背けて自分のうちに閉じこもる自己中心性に紐付けられることもある。実に、ポピュリズムを媒介として、仏教と資本主義が結ばれる可能性もあるのだ。

 これは、自己中心性と利他主義との戦いだ。アダム・スミスは有名な『資本論』を著す数年前に、実は利他主義についても書いている。利他主義の実践は、いきなりは難しい。まずは理性的な利他主義(Rational Altruism)を育てた上で、本当の利他主義、「利他的な利他主義」へと向かっていかねばならない。

 将来世代をステークホルダーとして勘定に入れ、彼らに投票権を持たせるような「Positive Society」がどれだけ実現されているか、Positivity Indexというのを設定し、ここ数年、OECD諸国に当てはめて評価している。視点は4つ。Economically(経済的に)、Ecologically(環境的に)、Socially(社会的に)、Democratically(民主制的に)、持続可能あるかどうかを問うものだ。

 残念ながら、日本もフランスも、評価は高くない。やはり高いのは、北欧諸国やニュージーランド。「Economy of life」の観点から見ると、現在のGDPのうちでそれに当てはまるのは40~60%にすぎない。これを80%に上げていく必要がある。

田村記久恵
イラスト=田村記久恵

人はどうしたら利他主義に向かうのか

 アタリ氏の言葉に「Selfishness(自己中心性)」が頻出したのが印象的だった。企業組織を見ても、政治状況を見ても、現代社会の抱える大きな問題は、確かにそこに尽きるかもしれない。そして、それに対抗するのが、「Altruism(利他主義)」であると。

 これからの世界を利他主義者が率いることが大切になることは、間違いありません。では、どうしたら人は利他主義へと向かっていくのでしょうか。

 仏教的なアプローチで言えば、もちろんその中心は、自分自身のエゴを見つめ、乗り越え、一切の執着から離れる道を行くこと。でも、その道は誰にでも容易に歩ける道ではなく、難行とも言われます。

 だからこそ、誰でも歩ける仏道として発明されたのが、易行道、念仏の道でした。それは一切衆生を無条件で救う阿弥陀仏の絶対他力に身を投げ出す形で、利他的な生き方、あり方を引き出す宗教構造を持っていたようにも思います。

 思えば、「私」という個人に閉じ込められた自己を時間的にも空間的にも拡張してとらえ直す視座を与えることで、放っておくと収縮してしまい、自己中心的に生きる傾向にある人間を利他主義へと誘ってきたのが、古今東西の宗教の役割であったのかもしれません。宗教の大きな物語が利他主義を支える一つの装置だと仮定した時、自己中心性が蔓延する現代社会の病理は、宗教の衰退と呼応するかのようにも見受けられます。

 「私」という個人に閉じ込められた自己を時間的にも空間的にも拡張してとらえ直す感覚をスピリチュアリティと呼ぶならば、日本において、特に近代においては、阿弥陀仏よりも先祖や死者との関係性に、それが託されてきたのではないでしょうか。しかしそれとて、今は心許ない状況にあります。

利他主義は企業組織や民主制とどう結びつくのか

 これからは、何にもとらわれることのない、大いなる自らの存在に託されゆく時代を迎えている気がしてなりません。それはジャック・アタリ氏のとらえる、かつての西洋にあった本来のスピリチュアリティであり、東洋においては仏陀が唱えた本来の道。私たち自身、その源には利他が既に備わっていることに、あらためて気付いていく過程へと向かっているように感じます。

 その途上で、私たちは再び死をとらえ直し、先祖と出逢う。そして自らが死を迎え、先祖となっていく拡張された視点に目覚めていくのでしょう。

 利他主義。死者との関係性。スピリチュアリティ。それらが、企業組織でのクリエイティビティや、政治における民主制の未来と、どう結ばれていくのか。そのあたりに、これからの自分の仕事があるような気がしています。