経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

宮商和して自然なり

松本紹圭「ひじりみち」(『経済界』2021年4月号より加筆・転載)


 2020年の春より、オンラインアプリのポッドキャストを通じて、宗派を超えた全国の僧侶の方との一対一の対話を配信しています(「テンプルモーニングラジオ」平日朝6時より毎日配信中)。40人を超えた現在、回によってさまざまな対話の流れがありますが、時に、番組の聴衆(聴き手)の存在を忘れ、あたかも対話そのものが人格を持って主体的に展開していくような感覚に運ばれることがあります。

 経験上、そうした状況は対面収録の場で生じやすいのですが、私自身も手応えを感じますし、ゲストの方からは「気づいたら思ってもみなかったことを話していました」といった感想をいただきます。ここにお互いの意図はなく、民芸的とでもいうのでしょうか、奇をてらうこともなく、作家性は要らず、ごく普通の対話の中に、何か聖なるものがあるように感じるのです。

クリエーティビティは誰の身の上にも存在し得る

 クリエーティビティ(創造性)とは、「クリエーティブな人」に宿り、「創造性の源泉にアクセスできる性質の人」が手にした特別なギフトでしょうか。私は、それは「創造性の源泉にアクセスできる縁が整う瞬間」に生じ、誰の身の上にも存在し得るものと思っています。

 以前、縁あってお会いした、オート・ポイエーシス研究で有名な慶應義塾大学の伊庭先生による「パターン・ランゲージ」の論文に、こんな内容がありました。古今東西、真にクリエーティブで偉大な作品というものは、作者個人の創造性から生まれるのではなく、人類の集合意識の底の方にある創造性の源泉のような流れから生まれる。底の底にアクセスすると、キャラクター自身が語り出す、と。論文では、そんな不思議な現象について真摯に論じられいます。

 村上春樹や宮崎駿が自らの制作過程を振り返るインタビューでも、意図して登場人物に語らせるのではなく、彼らが語り出す物語を代わりに記述していくような場面に遭遇します。東北学の赤坂憲雄先生が、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を巡って論考された『ナウシカ考』では、ドストエフスキー作品を論評したミハエル・バフチンの「ポリフォニー」という概念を自身の考察に援用されています。

人類の集合意識の底に流れるポリフォニー

 ポリフォニーとは、もともと音楽の概念で「多声音楽」を指し、そこでは「主旋律・伴奏といった区別はなく、どの声部も対等に扱われる」といいます。そんなポリフォニーが、実は人類の集合意識の底に流れているとは不思議な感じがしますが、考えてみれば、私たちは街の雑踏に立てば通り過ぎる人々のポリフォニーにアクセスすることができますし、友人との何気ない対話もポリフォニーと言えるでしょう。

 エゴによって自己を中心とする世界観に陥りがちなことも確かですが、一方で、じっと耳を済ませ、素直にあらゆる声に耳を傾ければ、そこにひろがるポリフォニーに出逢い、それはそのまま創造性の源泉となり得るかもしれません。

 これまでポスト宗教(Post–religion)を語る上で「古の智慧」や「人類の叡智」という言葉を使うとき、具体性を問われるとうまく答えられないもどかしさがありました。それが、このポリフォニーという概念を使うと少しクリアになる予感がするのです。

 現在の世界人口が80億とした時、過去5千年のうちに生きた人の数はどれほどでしょう。バタフライ効果を考慮しても想像できるように、彼ら彼女らの発したあらゆる声は、現代まで何らかの波として連綿と押し寄せ続けているはずです。

 中でも、文字に起こして書(本)に残した人々の声は、今でもかなりはっきりと聴き取れます。本は、過去に生きた人々がなんらかの形で残そうと努力した声の総体であり、死者との出会いであり、開けばそこからポリフォニーが聴こえてきます。そうして死者の声を聴くような、死者と存在を共にするような、これまで生きたあらゆる人々のポリフォニーに身を浸すような、そんな感覚こそが「古の智慧」「人類の叡智」に触れることのように思います。

 ネットワークサイエンスによれば、同質性の高いコミュニティの中でどれほど多くの人に触れても「革新」は起きにくく、少数でも複数の異質なコミュニティを跨いで人とつながる方が、それは起きやすいのだそうです。ここで重要なのは「つながり」のクオリティであり、一見、異質な人同士のつながりに見えても、当人が単一(モノフォニック)な世界に閉じている限り深い対話は起こらず、変化は生じません。本や記憶を通じた死者の声であれ、対話を通じての生者の声であれ、「どの声部も対等に扱われる」ポリフォニックな感覚に身を浸した時に初めて、そこに創発が生まれるのでしょう。

 今、ハイパーコネクティッド社会と言われる一方で、実は私たちは、思った以上にモノフォニックな世界に閉じて生きているかもしれません。人類の集合意識の底に流れるポリフォニーから遠ざかり、氷山の上の浅いところで完結した日々を生きてしまってはいないでしょうか。

不協和音の宮と商の音も素晴らしいハーモニー

 親鸞聖人の和讃に「宮商和して自然なり」という言葉があります。

 清風宝樹をふくときは
 いつつの音声いだしつつ
 宮商和して自然なり
 清浄薫を礼すべし

 浄土に清らかな風が木々の間を吹き渡るとき、宝石でできた木々の葉や枝を揺らし、5つの音が奏でられる。本来不協和音の宮と商の音も、そこでは素晴らしいハーモニーとなって聞こえる。煩悩に染まらない清らかな薫りに礼拝しよう。

 思えばこれも、私たちが暮らす世界の本来的なポリフォニー性を示したものかもしれません。

 「どの時代においても、人類は、恐怖、病気、苦悩、死に直面してきた。そして、文明を定義するのはいつも死との関係に他ならない。死に意味を付与することに成功すると、その文明は繁栄する。逆に、死に意味を見いだすことができないと、その文明は消滅する」と、フランスの哲学者、ジャック・アタリは言います。

 生きている私たちは、常に死者を通じてしか死を体験できないことを考えれば、死に意味を付与することは、死者の声に耳を傾け、死者と対話することから始まります。

 さあ、ただ静かに、耳を済ませてみよう。

イラスト=田村記久恵