インタビュー
田中邦裕社長が18歳の時に起業したさくらインターネットは、1996年の創業から25年がたち、社員数は約700人、売り上げは約230億円まで成長した。その間、社長退任、株式上場、債務超過の危機、社長復帰などの荒波を乗り越えてきた田中社長は、経営者としてどう変化してきたのか。聞き手=唐島明子 Photo=山田朋和(『経済界』2021年6月号より加筆・転載)
田中邦裕・さくらインターネット社長プロフィール
さくらインターネットの現在
―― さくらインターネットはどんな事業を展開していますか。
田中 今から25年前に創業し、当初はホームページを作るお客さまのためのレンタルサーバー事業から始め、20年ほど前からサーバービジネスに転向しました。そして10年前の2011年には石狩データセンターを開所し、データセンター事業を中心にクラウドサービスなどを展開しています。
―― クラウドというと、アマゾンなどの海外勢の存在が気になります。
田中 アマゾンは完全に私たちの市場を取って行っています。ただ、この市場は常に成長している。競争は厳しいけどそれ以上に需要が増えていますので、私たちのクラウドのビジネスも伸びています。
クラウドの事業者にもそれぞれの強みがあり、長年日本でやっている私たちは通信環境に強みがあります。弊社の主力サービスで、著しく成長しているのが画像配信サービスです。フリマアプリなどを開くと商品画像がたくさん並んでいますが、あのデータは弊社のサーバーから送信されていたりします。
また、アマゾン、マイクロソフトなど多くのクラウド事業者は、東京や大阪にデータセンターを持っていますが、私たちの石狩データセンターは北海道にあるため、非常にエネルギー効率がいいんです。特にCO2排出を気にする案件では私たちのクラウドが有効です。メインのシステムはアマゾンに置き、画像配信システムは弊社を採用するなど、複数のクラウドを組み合わせて利用されるお客さまもいらっしゃいます。
さくらインターネットは債務超過の危機をどう乗り越えたか
―― 学生起業した当時を振り返り、どんなことを思い出しますか。
田中 高専在学中の18歳で起業しました。今となっては18歳って本当に子どものように見えますし、よく起業したなと思います。しかしその当時は、自分がやりたいことのためには起業という選択肢が最も適していると肌身で感じていて、本当にうれしかったのを記憶しています。
ただ、私はアルバイトすらしたこともありませんでしたので、そもそも会社がどんなものかもよく分かっていませんでした。プログラミングはできるけど、世間を知らない。そんな状況で事務所を借りて、自分たちのサーバーを作って、日々苦しいながらも受注をいただき、一緒に始めた後輩と会社をどんどん大きくしていく。非常に刺激的な毎日でした。
―― その4年後の00年末に社長を退任しましたが、慰留されて副社長として在籍。05年には株式上場し、その後07年に債務超過に陥ってから社長復帰しました。創業者として責任を取り、会社を立て直すための登板ですか。
田中 そうですね。責任を取るのは、辞めることより、その事態を収拾することだと思います。私は起業家であり、立て直し屋ではありませんが、ほかに社長をする人もいないので引き受けました。当時、ファンドとかプロの社長に入ってもらっていたら、もしかしたら今よりもっと成長していたかもしれない。でもそれは自分が望むところではありませんでした。
債務超過になったのは、上場したことで売り上げを上げることが目的化し、売り上げのためにいくつも企業を買収してしまったからです。自分たちにスキルもないのにどんどん子会社が増えていく。また乗り気でもないのに、あえて反対するのが面倒で、ハウジング用のデータセンターを作った。オンラインゲーム事業にも進出した。本業とはちょっと違うことばかりでした。
―― 債務超過で社長になった時はどんな心境でしたか。
田中 3つあります。厳しいなということと、怖さみたいなもの、あとはやる気です。
厳しさは怖さと表裏一体かもしれません。銀行には借入の猶予をお願いしたり、知り合いには債務超過で二束三文になった株を担保にお金を借りに行ったり、みんなに頭を下げないといけません。5千万円くらい借りましたが、利息は3カ月で1割にしたので、500万円の利子を付ける自転車操業で。首の皮一枚でよくつながったなと思います。
でも、借金をして返せないかもというのは気にしても仕方がありません。そういう怖さはありましたが、何とかそれで事態を収拾し、債務超過を解消して株の取引ができるようになり、私の借金も返して、何とか半年くらいで最初のまずい状況は乗り越えました。そして子会社をすべて売却し、1年半後には黒字に戻しました。
社長復帰後の田中氏の経営者としての変化とは
―― 社長に復帰してから、経営者として変化したことはありますか。
田中 私は人と話をするのがあまり好きではない。フランクに話すのはいいけど、真相に迫るような、言いにくい話題は避けてきました。役割変更とか、辞めてほしいとか、相手の行動変容とか。相手への要求ですね。でも経営者としては、伝えるべきことは伝えなければなりませんので、かなり踏み込んで話をするようになりました。
あと当時、社員からコーチングを受けろと言われました。それでコーチングについてウェブで調べたら、「社長を変える」みたいなことが出てきましたが、社員にそれを言われるのもしゃくで(笑)。乗り気もしませんでしたが、私も変化しないといけないと悩んでいたこともあり、コーチングを受けました。はじめは斜に構えていましたが、3、4年たって、自分の考えも変わりましたし、多くの気づきがありました。
―― どんな気づきがありましたか。
田中 いろいろありますが、例えば社員の皆さんに対しても役員に対しても、それこそ株主に対しても、「なんでこんなことを言うんだろう」というのを客観的に問うていくと、腹が立たなくなります。
―― 創業当初は経営者というより自分で手を動かすプログラマーだったけど、2回目の登板以降は経営者目線が強くなった感じですね。
田中 その通りです。なので初めの頃は、言い方は乱暴ですが、自分がやっていることを肩代わりできる人を探していました。ほとんどのことを自分がやるし、社員には指示したとおりにやってもらう。社員に対して、「なんでこんなこともできないんだ」となってしまう背景もそこにあったと思います。自分より能力が高い人がいたら、自分はいらないなと考えることもありました。
しかし自分より能力が高い人はたくさんいるし、若い人のほうがプログラミングも早い。MBAや専門知識を習得した人のほうが数字をみる能力も高いんですよね。結局のところ、自分より能力が高い人をうまく活用すると結果が良くなります。それが経営者として重要だと腹落ちしてきたのはこの5~6年です。
―― 腹落ちするきっかけとなった出来事はありますか。
田中 大きなデータセンターを作るときもそうだし、新しいサービスの開発でもそうですが、最初は全部自分で作ったものでも、5年くらいたつとチームがいいものを作り始めています。石狩データセンターも、今では私だけでは絶対にたどり着けない領域まで来ています。
例えば3年半ほど前、北海道全域が停電になった北海道胆振東部地震が発生しました。実はその前日、私はお酒を飲みすぎて泥酔して寝ていて、夜中3時半くらいに電話がかかってきていたけど全然気が付かなくて。朝になって北海道が大地震で全域停電していると知り、社内のチャットを見るとすごい勢いで書き込みがあるし、スマホには着信履歴が残っている。でも、起きたときには、既に事態は収拾されていました。
責任感ともなう正社員が現場を守ってくれる
―― 現場が収拾していたんですね。
田中 現場の社員が責任を持って事態を収拾していく様を目の当たりにしました。私の役割なんて、まずは朝に全社へ向けて「安全第一、ちゃんと寝て食べて、家族を配慮するように」とメッセージを送ること。そして現場に邪魔が入らずにうまく回るように取り計らい、みんなを鼓舞して、ある程度落ち着いたら焼肉に連れて行く。
あとは兵站を用意するくらいです。現場から発電用のオイルが足りないと言われれば行政と交渉して用意したり、当時は空港も使えない状況の中で東京や大阪から人員を送り込みました。
―― なかなかの修羅場です。
田中 一部トラブルもありましたが、おおむねサービスに支障が出ることもなく乗り切りました。その時に1つ良かったなと思ったのは、全員正規雇用にしていて、日ごろのコミュニケーションを密にしていたことです。なので現場の社員も、自分たちのデータセンターは自分たちで守らないと仕事がなくなってしまうという責任感があったんだと思います。
経営の効率や流動性を上げるには、非正規雇用が優先されるかもしれませんが、何かあった時には人がいないと動かない。正社員が自分たちの仕事を守り、それを通じてお客さまを守ることができ、会社は中長期で儲かる。これからはそんなチームが重要になるのではないでしょうか。
田中邦裕社長が経営者として重視すること
―― 今後の経営では、何を大切にしようと考えていますか。
田中 中長期の繁栄です。平均寿命も高まっていて、健康に長生きすることが求めらるようになってきました。そういう中で社員が安心できるようになるには、会社が長く存続し、社員が長く仕事を続けられることが重要です。ただ、会社の存続のために社員を解雇しては意味がありません。
社員も儲かって、お客さまも儲かって、最終的には株主も儲かる。そういう中長期の視点が重要だと考えています。