インタビュー
「こだわりもん一家」や「博多劇場」、「ラムちゃん」などの居酒屋を展開する一家ダイニングプロジェクト。社長の武長太郎氏は、飲食業を経営する母親の影響もあり10代から会社経営を志した根っからの起業家だ。武長氏が徹底してこだわるのは「おもてなし」で、今ではブライダル事業が経営の大きな柱となっている。聞き手=ライター/中村芳平 Photo=横溝 敦(『経済界』2021年6月号より加筆・転載)
武長太郎・一家ダイニングプロジェクト社長プロフィール
経営危機をきっかけにボトムアップ型組織に
―― 武長さんはお母さんの背中を見ていて、自然にベンチャー精神を身につけられたようですね。お母さんが起業家のお手本だったといえますね。
武長 そうですね。私は小学生のころから母の店で働く女性たちに何かとかわいがってもらった覚えがあります。高校2年生の時バイク事故を起こし、骨折、1カ月入院したことがあります。高3の時に初めて真面目に勉強し、中大法学部夜間部に合格したのは母に心配をかけたくなかったからでした。しかし入学して目標を見失いました。そこで夏休みに、教習所に通って取得したばかりの自動車免許と5万円を持って、車を借りて九州へ旅行。母には「どうするか決めてくる」といって出発しました。
長崎、熊本と旅しているうちにお金が尽きて、土産物屋のスイカ売りのアルバイトを2、3日やらせてもらいました。そうしたら夜、店主が私をなじみのスナックに連れて行ってくれました。カウンター7~8席、ボックス席1つ、元トリスバーのような小さな店でしたが、地元客で満席。店主兼バーテンのおじさんの人柄の良さか、お客さんたちからは冗談や笑いがあふれ、楽しい時間を過ごしました。その時、「こういう店を経営したいな」と思いました。
帰宅して、大学を1単位も足らずに中退、地元のビジネスホテルに就職。給料は13万5千円、毎月10万円を開業資金として貯金しました。9カ月後、母の店の店長に抜擢されました。30人近いホステスさんのマネジメント、販促、経営管理などが大きな仕事です。
その1年後にチャンスがやって来ました。母の知人で本八幡駅南口でクラブ経営していたママが店舗を売りたいというのです。私は当時20歳、約100万円の貯金しかなかったのですが、これを機に独立、1997年12月、母の支援でその居抜き物件を改装し、「くいどころバー 一家」(現こだわりもん一家本八幡店)を開業、母の店の2号店のつもりでした。
駅前で女性をキャッチしホステスさん40人を確保しました。店のコンセプトは「第二の我が家」。ホステスさんにはお客さまに「いらっしゃいませ」ではなく、くつろいでもらうために、「お帰りなさい」と言うように指導しました。これが月に1500万円売る大繁盛店になったのです。
―― その後女性を集めるのが大変で、大衆居酒屋路線に舵を切り、「こだわりもん一家」を千葉県を中心に展開、やがて名物鍋餃子の「屋台屋 博多劇場」も展開していくのですが、日韓W杯のあった2002年、6~7店舗展開するころ経営危機に直面したようですが……。
武長 1店舗から4~5店舗展開するころまで順調で新卒採用も始めました。当時私はワンマンで経営のことは何でもトップダウンで決めていました。ところがこれに年配の店長クラスの中途社員が反発、何人かが会社を辞めていきました。このため客離れが起き、資金繰りが悪化したのです。
この頃、柏店の様子を見に行くと2人の新人社員が、私が指導したことを守って、心のこもった接客に努めていました。その時、私は何をしているんだ。私は彼らの夢を実現するために働いているのではないかと、気づかされました。以来私はトップダウンを放棄、何事も社員の意見を尊重するボトムアップ経営に切り替えました。それが経営危機を克服するポイントになったのです。
―― 商才にたけたお母さんがそばにいて相談に乗ってくれるのでやりやすかったのではないでしょうか。
武長 ええ。いろいろな意味で母の影響が大きかったのは確かです。母はこの前古希を迎え、お客さまから盛大に祝ってもらいました。何十年と古くから続く常連さんが多く、お祝いの花輪が30以上も並び、相当な売り上げがあったようです。
無謀と言われた結婚式場ビジネス
―― 話は少し飛びますが、東京タワーの真下に、結婚式場「ザ・プレイス・オブ・トウキョウ」をオープンしたのも大きなチャレンジでしたね。
武長 結婚式場の運営の話は、東日本大震災のあった11年頃に持ち込まれました。当社の財務コンサルタントの鈴木大徳さん(現The CFO Consuting社長兼CEO)から打診されました。
大徳さんはPlan Do Seeというブライダル事業を手掛ける会社の顧問もやっていて、私に白羽の矢を立てたということです。当社は創業期から「お客さま、関わるすべての人と喜びと感動を分かち合う」を理念に掲げ、「日本一のおもてなし集団」になることを目標にしています。それゆえ、結婚式場運営は会社の理念や目標にも合致している事業で、可能ならばやりたいと思っていました。
しかし、当時当社の店舗数は14~15店舗、売上高15億円規模にすぎません。それが家賃だけで2千万円以上するというのです。全店舗の家賃を合わせたより2倍以上もするのです。周りからは「絶対失敗するからやめておけ!」とさんざん言われました。
とにかく1歩間違えれば会社は破綻し、今までの苦労は吹き飛びます。2週間ほど悩みました。自分の挑戦であれほど悩んだことはありません。ただ、東京タワーの真下にチャペル、100席以上の披露宴会場が3つもあること、これ以上ない立地の良さ、景色の良さがあり、もしかしたら大ヒットするという予感もありました。銀行が5億円融資してくれるというのも後押ししました。最終的に決断したのは、私の人生が20歳から挑戦に次ぐ挑戦だったからです。
―― 12年8月1日に「ザ・プレイス・オブ・トウキョウ」はオープンします。
武長 当時、東京にはブライダル施設は950軒、成功するためには結婚情報誌『ゼクシィ』(リクルート)に広告を湯水のように出すことだと言われてきました。しかし、スマホのSNSが普及し、集客のやり方も変わりつつありました。
実は結婚式場はコスパが悪いと言われています。予算や見積もりをとっても、段となると何かが加算されて新郎新婦が支払う金額が高くなりがちで、よくもめることがあります。けれども私たちはコスパに厳しい居酒屋出身なので、「コスパの最も良い会場にしよう」と努力してきました。
それがSNSで拡散され、多くのファンを獲得、開業5年目には婚礼件数575件、売上高20億円以上、最高利益を実現したのです。今はみんなのウェディングとか、ウエディングパークなどの口コミサイトの影響が大きい。私たちの結婚式場は口コミナンバー1になりました。
「おもてなし」は業種を問わない
―― コロナ禍で結婚式場の運営も大変だと思いますが、プラスになったと思われることは何ですか。
武長 ウェディング事業を始めて良かったのは、居酒屋事業と異なって学生の就職人気事業であることです。特に女子学生に人気があり、その結果男子学生を引き寄せるところがあります。新卒のエントリーが1千人を超すほどです。
当社では居酒屋・飲食事業と組み合わせ、人事配置を行っています。居酒屋の現場を経験するとお客さまのコスパ意識に直接触れることになり、結果的にブライダル事業のコスパに敏感になり、よりお客さまに寄り添った結婚式を提案できるからです。ブライダル事業にはホテル事業に勝るとも劣らない「おもてなしの心」が求められます。また、あれだけ家賃の高い場所に結婚式場を開いていることで、店舗づくりの多様性を目指すことができます。
かといって大衆居酒屋としての志を忘れたわけではなく、現在ヒットしている「大衆ジンギスカン酒場 ラムちゃん」はコロナ前から展開しています。ラム肉、ジンギスカンは臭いと言われてきましたが、今はチルドでフレッシュなものが入ってきます。当社ではそれを4日間熟成させて提供しています。ラム肉は融点が低く、ヘルシーな肉です。
また全卓に強炭酸ハイボールタワーを設置、飲み放題500円~などを実施しています。全部直営で展開しているので店舗数の展開はゆっくりですが、その代わり「おもてなし」に徹したサービスを提供できるのが強みです。
ブライダル事業でのおもてなしの心は元気を売り物にする居酒屋はじめ、国内外のあらゆる業界に通用します。例えば古き良き旅館、飲食業などで事業承継で困っているところに、私たちが育てた人材を派遣したりすることができる思います。
今は300人社員がいますけど、これをやっぱり1千人ぐらいの塊にしてですね。将来的に「おもてなしアカデミー」といった学校をつくって勉強できるようにしたいと思っています。私は「おもてなし」を極めたら、それは絶対的に武器だと確信しています。中途半端では駄目で、徹底して突き詰める必要があります。日本のモノづくりとは別にサービス産業がもう一つの大きな柱になると思っています。
最近、DXとかAI、ロボット、デジタル化一辺倒ですが、私たちは「おもてなし」のリーディングカンパニーとしてやっていきたいと考えています。人材が素晴らしいと言われる会社を作りたいと思っています。