経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

龍樹の縁と空

松本紹圭

松本紹圭「ひじりみち」(『経済界』2021年6月号より加筆・転載)

龍樹の説いた「空」の思想とは

 2世紀を生きたインドの仏教僧にして、大乗仏教の祖師であり、中観派の開祖でもある龍樹――。伝統的な大乗仏教の流れを汲んで生まれた日本仏教にとって、宗派を問わず、龍樹はもっとも尊敬される歴史上の僧侶の1人であり、釈尊と並んで広く尊敬を集めてきました。

 日本において龍樹は、その名よりもむしろ、彼の説いた「空」の思想こそ広く認知されているかもしれません。色即是空・空即是色の「空」。ここでは、仏教学の一郷正道先生の説明を引用しつつ、少しだけそれに触れたいと思います。

 「空」は無と有、否定と肯定の両方をもつ。そのサンスクリット語の語根にある意味は「膨れる、成長する」状態。私たちの個的存在もまた、肉体、精神の諸要素から成る点で「膨らんだもの」である一方、自己の本質、我を見出せない点からすれば「うつろな、非実体的存在」である。

 龍樹は「此れあれば彼あり、此れ生ずれば彼生ず(すべてはなんらかの他に相互依存して存在する相対的なものである)」と、縁起思想にもとづき「空」を理解した。すべては絶対的、実体的存在の無い「空」。聖でも俗でもないものを、聖とか俗とか判断するのは、私の心の区別、分別作用である。聖も俗も言語上の区別にすぎず、両者は不二である。

「幸福」は掴めない

 今、いかに幸福な人生を送るかが問われる中、欲望を満たすものを追い求めても幸せは訪れないと言われます。さらに、「マインドフルネスに心を整え、真に幸福な人生を送ろう」とも。

 しかし、マインドフルネスで人の幸福を語れるかと言えば、そうは言い切れなさそうです。この世を明らかに見る鍵こそその辺りにありそうですが、私がマインドフルネスを語る文脈にどこか違和感を感じるのは、そもそも「より幸福な人生を送るため」という発想自体が、私たちの本来の在り方、そして仏教が前提としている設定とズレているように思われるためです。

 「幸福」は、つかめるものではない。「さとり」もまた、然り。心の分別作用から離れ、一切の執着から放たれた状態こそがさとりであって、掴む主体と対象があるところに、さとりはない。一郷先生に習えば、幸も不幸も、さとりの有無も、言語上の区別にすぎず、空という点で両者は不二です。

 仏教はそもそも、「人生の一切は苦である」という認識から始まっています。この時の苦とは、最近では「unsatisfactoriness(不満足さ)」という英単語に訳されることが多いように、「思い通りにならないことによる苦しみ」を表します。

 そうした苦の伴う人生を歩む私たちに、仏教はソリューションを提示します。それは、「思い通りにしたい」という執着を解くということ。至ってシンプルながら、基本的に仏道修行のそのほとんどは、執着から離れるよう設計がされているのです。

瞑想は執着を解く練習

 こうした土壌にある仏教から、例えば瞑想だけを取り出して、何かの目的を果たすツールとして用いる場合、そもそもその目的とは何なのか。

 執着には、「attachment(アタッチメント)」というくっつく語感のある英単語が当てられます。

 最近、企業で社員のモチベーションを高めるための施策を「インセンティブ」と呼びますが、この根底には、アタッチメントを強める根深い発想がありそうです。執着を放つマインドフルネス瞑想を導入する一方で、アタッチメントを強める施策を取れば、両者の狭間で社員の心が引き裂かれていくのは容易に想像ができます。

 瞑想の実践に伴って、そこに、思考による理解に留まらない、縁起や空をみる目が伴うようになるのは容易いことではありません。それを承知の上で、マインドフルネスを促すためのさまざまなツールを導入するならば、そこに龍樹のみた「空」をみる目こそ、共に養う必要があります。

 そこでは、人間の存在はindividual(バラバラ)ではなくinter-being(他者との相互依存的な関係の上に立ち現れる)であり、つかみにいく執着(アタッチメント)から離れていくこと(ディタッチメント)を志向します。

 私のような人間は、目の前の些細なことに容易に動じてしまいますが、それでも、これまで仏道に親しんできたおかげか、たとえ動じても、比較的引きずらずに生きられるようになりました。瞑想は、その練習です。そのベクトルはどこを取っても、執着から離れる方を向いていることを見落とさずにいたいと思います。

イラスト=田村記久恵
イラスト=田村記久恵

愛着による組織形成から自発的に生まれる関係性へ

 ブッダは35歳で悟りを開いた後、人々に仏道を説くことに邁進しました。その後半生に重きをおく大乗仏教には、「菩薩」の発想があります。人は、執着から離れゆくその先で、世のためと自ずとはたらく、取り組むべき仕事に邁進するようになるというのです。そしてその現れ方は、無数の種類に現われる菩薩のあり様に等しいと。

 これからのリーダーには、執着や愛着を強化する施策を要する組織形成ではなく、放って自ずと展開していく関係性が生まれる機会の創造が求められます。

 近年、組織では「忠誠心」に代えて「エンゲージメント」という言葉が使われるようになり、ここでは「対等な関係にある両者が、互いの成長に貢献し合う」ことが理想とされます。一方的な忠誠から、関係を表す単語に変わりつつあるのには時代の変化を感じますが、使い方によっては、容易に執着へと向かう概念であることを認識して、慎重でありたいところです。

 なお、執着から離れることは孤独になることではありません。「良き仲間(サンガ)を持つことは修行のすべて」とブッダが語ったとされるほど、仏教において仲間の存在は大切です。

 もし、マインドフルネスの導入を皮切りに、社会が再び仏教の智慧に関心を寄せることがあるならば、社会や組織の在り方自体がサンガ的になっていくかもしれません。

 空=無ではない。龍樹によれば、有るも無いもあくまで人間が作り出す幻影にすぎない。幸せを求めるのではなく、苦を見つめ執着を離れる発想へ。きっとそのとき、龍樹を祖師とする大乗仏教の「縁起/空」が手がかりになるはずです。