孫正義氏は1981年に日本ソフトバンク(現 ソフトバンクグループ株式会社)を創設し、Sprint Corporation、ヤフー株式会社、Alibaba Group Holding Limitedの取締役、およびArm Limited、ソフトバンク株式会社の会長を現任。(https://group.softbank/corp/about/officer/son/ より)。そんな孫氏の経歴をまとめた。
孫正義氏略歴
日付 | 内容 |
1981年9月 | (株)日本ソフトバンク(現 ソフトバンクグループ(株))設立、代表取締役社長 |
1996年1月 | ヤフー(株) 代表取締役社長 |
2005年10月 | Alibaba.com Corporation(現 Alibaba Group Holding Limited), Director(現任) |
2006年4月 | ボーダフォン(株)(現 ソフトバンク(株)) 取締役会議長、代表執行役社長 兼 CEO |
2013年7月 | Sprint Corporation, Chairman of the Board |
2015年6月 | ヤフー(株) 取締役(現任) |
2016年9月 | ARM Holdings plc(現 SVF HOLDCO (UK) LIMITED), Chairman and Executive Director |
2017年6月 | ソフトバンクグループ(株) 代表取締役会長 兼 社長(現任) |
2018年3月 | Arm Limited, Chairman and Director(現任) |
2018年4月 | ソフトバンク(株) 取締役会長(現任) |
2018年5月 | Sprint Corporation, Director of the Board(現任) |
孫正義氏の歩み
幼少期
孫正義氏は1957年8月11日、佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に生まれる。
父親はパチンコ業で成功した在日韓国人実業家。4人兄弟の二男。
孫氏が生まれた当時の孫家は貧しく、住んでいた地域は無番地と呼ばれる居住地として法律上グレーなエリアだった。
事業で成功した孫家はパチンコ店を数十店舗所有し、高級車を保有するほど裕福になったが、 孫氏は幼い頃から「在日朝鮮人」というだけで、ひどい差別を受けていた。
「孫」と「安本」
16歳でアメリカに渡るまで、孫氏は「安本」という日本の名字を使い、「安本正義」と名乗っていた。
帰国後に創業する際、親戚一同が使っている通名「安本」と、パスポートや外国登録証の本名である先祖代々の「孫」という2つの名字のどちらを使っていくか選ぶ必要があった。
日本社会では日本名を名乗った方が生きやすい。 しかし、孫氏はあえて「孫」の名字を選んだ。 日本では今日でも「在日」という、ハンディキャップがまだ残っている。「在日」であるが故に、差別を受ける子どもがたくさんいて、苦しんでいる。孫氏自身も小中学生の頃に本気で自殺を考えるほどの経験をした。
親戚一同の反対を押し切って「孫」を名乗ったのは、在日で先祖代々の名を名乗ってハンディキャップがあったとしても、生きていけるということを見せたかったからだと言う。
「それで希望を得る若者が1人でも100人でも出れば、差別反対とプラカードを出して言うよりも100万倍の効果がある。孫と堂々と名乗って、堂々と逆風の中で仕事して、事業して、それなりになればそれはもう100万語しゃべるより、力説するより、そういう青少年に希望を与えられるんじゃないかと思って俺はあえて名乗った。」
アメリカへ
久留米の高校に入学後、家庭教師に薦められた司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読み、脱藩に憧れて、渡米を決意。
また同時期に、日本マクドナルドと日本トイザらスの創業者である、藤田田氏の著作を読み、彼と面会しようと試みる。何度も諦めずにやってくる孫氏に根負けし、面会が実現する。藤田氏は孫氏にIT関連を学ぶようにアドバイスし、孫氏はこれを元に後の偉業に繋がるIT関連について、アメリカで学ぶこととなった。
孫氏は日本の高校を中退し、アメリカの語学学校を経てセラモンテ高校に編入するが、飛び級をして卒業試験に合格したため、3週間で高校を出る。その後、カリフォルニア大学バークレー校に入学。
食事をするとき、お風呂に入るとき、運転しているときでさえ、時間を惜しんで勉強に励んだ。
卒業後の進路については実業家の父親の影響もあり、起業をすることを決めていた。孫氏は起業資金を作るため、1日に5分だけ勉強以外の時間を作ることにした。1日5分の時間ではアルバイトをするわけにはいかない。
そこで、孫氏は1日5分だけ勉強を離れ、特許を取るためのアイディアを考えることにした。日々の発明を書き溜めたノートはアイディアバンクと呼ばれ、アイディアは250以上にも上るという。これは起業に繋がっただけでなく、自身の自信にも大きく繋がった。
1枚の写真との出会い
カリフォルニア大学の学生時代、『ポピュラーエレクトロニクス』という電子機器関連の雑誌を読んでいた孫氏。
紹介されていた幾何学模様のような写真を不思議に思い、ページを進めると、マイクロチップの写真が現れた。その小さなチップがコンピュータだということに驚く。まだマイクロコンピュータが開発されたばかりの頃だった。
その時、孫氏は手足の指が痺れてジーンとしたという。涙があふれて止まらなくなった。
そのページを切り取り、どんなときも肌身離さず持っていたという。
起業
電子辞書の1台目を最初に発明したのは孫氏だ。
マイクロチチップの写真に感動して、マイクロコンピュータを使ったら何ができるか考えた孫氏は、250以上あったアイディアの中から電子辞書を選んだ。 ディスプレイとキーボードをつけて辞書の翻訳機能をつけた。学生でありながら、自身が通う大学の教授らを雇い、試作機を作って特許を取った。
夏休みを利用して日本に帰国し、弁理士を通して紹介してもらったシャープの専務にプレゼンをする。無事に契約を決め、教授たちに報酬を払った。
余ったお金は1億7千万円ほど。 その資金で、1979年にアメリカに「ユニソン・ワールド」という会社を設立。 その後日米間を往来するようになった孫氏は、日本のゲーム機をアメリカに空輸し、収入折半を条件にレストランに置いてもらうビジネスを行う。日本から350台ものインベーダー機をアメリカに送り、1億5千万円ほど稼いだ。
1980年カリフォルニア大学を卒業した孫氏は、ユニソン・ワールドを副社長に売却し、日本に帰国 。
1981年に、コンピューターソフトの「株式会社日本ソフトバンク」を設立。(後の「ソフトバンクグループ株式会社」)
自分の脳細胞の価値や範囲には限界があると孫氏は言う。
世の中の多くの知恵のある人々、開発できる人々の力を集めて、開発したプログラミングやデータなどを何千万人の人々に共有してもらう。そういったプラットフォームを作りたいという思いで創業したのだ。
闘病と笑顔
創業して2年目の時、余命5年だと宣告された。肝硬変の直前の慢性肝炎だった。
3年半は入退院を繰り返した。絶望の中、病院を抜け出して毎週会社の経営会議や役員会議に参加した。創業してまだ2年、彼が関わらないといけないテーマがたくさんあった。
自身の幸せは何か。考えると、思い浮かぶのは家族の笑顔。それだけで幸せ。そのために残りの人生を捧げたいと思ったと言う。
それと同時に、一緒に創業した家族同様の社員、初めて自分を信じてお客さんになってくれた人たち、創業メンバーの後ろにいるたくさんの社員、その人たちの笑顔も見たい。それだけでなく、地球の裏側にいる、会ったこともなくソフトバンクの名も知らない女の子の笑顔をイメージし、地位や金、名誉ではなく、生きて人々の笑顔のために人生を捧げたいと思ったと言う。
復活と挑戦
1986年、闘病中に社長職を退き会長となっていた孫氏は社長職に復帰。
1996年、資本を100億円投入し、アメリカのヤフーの筆頭株主になり、Yahoo! JAPANをジョイントベンチャーで作る。
ソフトバンクグループは2000年の頃、株価が絶頂期だった。
孫氏の個人資産は、あのビル・ゲイツを超えたこともある。(3日間だけだったため、記録にはなっていない。)
しかしその後、数ヵ月で株価が落ちた。時価総額が20兆円だったのが、2000億円まで下がった。99%下がったことになる。
そんな中、孫はどうせ戦うならと、日本で1番大きい会社と戦うことにした。 高くて遅い日本のインターネットのインフラに革命を起こすべく、NTTに挑戦。 NTTの料金の4分の1の価格で、通信速度は100倍のサービスに挑戦したのだ。
その後2004年には日本テレコム株式会社を買収、株式会社ダイエーから福岡ダイエーホークスと福岡ドームを買収した。また、続けてボーダフォン株式会社を買収した。
当時、時価総額6千億円ほどだったソフトバンクグループが、ボーダフォンの買収を1兆8千億円で行ったことについて、訳を知っているごくわずかな人以外の関係者は激怒した。
その訳とは、孫氏の秘策だ。
スティーブ・ジョブスに会いに行く
孫氏が1兆8千億円でボーダフォンの買収に至ったのは、とある約束があったからなのだ。
まだiPhoneが発表される前にスティーブ・ジョブスに会いに行っていた。
パートナーとして自分を選び、これから世に出るその発明品の日本での独占権を欲しいと頼み込んだ。すると、ジョブスは携帯の電波の許認可をとったら契約を結ぶと孫氏に言ったのだ。
帰国後すぐさまボーダフォンを買収すると、孫氏はスティーブのところへ戻り、約束通り契約を結ぶことに成功した。
ジョブスはiPodを電話にしただけではなく、様々な機能を一つの製品に入れ、それをiPhoneと呼んだ。
「レオナルド・ダヴィンチはテクノロジーとアートをクロスオーバーさせた。当時最強のテクノロジーだった医学、物理、化学を操る頭脳をもち、モナリザのようなアートまで書いた。アートとテクノロジーをクロスオーバーさせた最強の1人目がダヴィンチだとすると、2人目はスティーブ・ジョブズだと思います。単なる電化製品は世の中にたくさんありますが、アートと呼んでいい初めての製品がiPhoneだったと、私は思いますね。まさに人々のライフスタイルを変えた、尊敬に値する男だと思います。」と孫氏は就活生に向けたスピーチで語った。
このiPhoneの販売独占権がソフトバンクの再成長に結びついた。
夢と志は違う
夢という言葉と志という言葉の定義の違いについて、孫氏は就活生に向けたスピーチの中で語った。
何かを買いたい、どこかへ行きたいなど、個人の欲望や願望を満たすのが夢。
多くの人々の夢、多くの人々の願望、多くの人々が困っていることを助けてあげたいなどといったことを指すときは志。
「私は自分の人生で何をなしたいかという場合、“志高く生きていきたい”と思うわけです。つまり、自分の、個人の、1人のエゴを満たすような、そういう願望を満たすようなことではない。100万、1000万、億の人々に、喜んでもらいたい。そういう風な人生を過ごすことができたらいいなと思います。座右の銘を時々聞かれます。1つだけ挙げるとすれば“志高く”と答えます」
格差社会反対と言われているの中で、底辺を引っ張りあげるのも大事だが、成功事例の足を引っ張る必要はない。成功事例はみんなの希望の光で、成功事例がなくなるともうみんな気落ちする。
日本のプロ野球選手がメジャーに挑戦してアメリカで活躍すると、自分も野球を頑張ろうと思うように、成功事例をジャパニーズドリーム、ジャパニーズヒーローだと褒めたたえるような社会にすることが一番大切だと孫氏は言う。
「僕はもちろん政治家でもないし、そういうポジションでもないけど、せめて1つの事例をつくってみたい。1つの事例をつくることが、その小石が波紋を呼んで、刺激を受ける会社が1社でも10社でもあれば、それが1つの社会貢献だと僕は思っている」
志高く社会に貢献する。これが孫正義氏の生き方なのであろう。