トヨタ自動車は、水素を燃料とした「水素エンジン」の技術開発に取り組んでいると発表した。世界的に強まる「脱炭素」の流れの中で電気自動車(EV)シフトが確実視される中、100年以上も自動車の動力源を担ったエンジンの技術が失われることを回避する狙いがある。文=ジャーナリスト/立町次男(『経済界』2021年8月号より加筆・転載)
24時間レースを完走したトヨタの水素エンジン車
5月21~23日、富士スピードウェイ(静岡県小山町)で開催された自動車レース「スーパー耐久」シリーズ。トヨタは24時間の耐久レースに、水素エンジンを搭載した「カローラスポーツ」で参戦した。水素のみを燃料にした車のレース参戦は世界初とみられる。
水素エンジンは、ガソリンやディーゼルのエンジンと基本的に同じ構造。潤滑油の燃焼で微量の二酸化炭素を排出するが、ほぼクリーンな排ガスと言えそうだ。
トヨタが販売している燃料電池車(FCV)「ミライ」も水素を燃料とするが、これは水素を空気中の酸素と化学反応させて電気を発生させモーターを駆動させる仕組み。水素エンジンは、水素を燃焼させることで動力を発生させる。水素エンジンは一般のエンジンに使われている大量生産の部品を多く使えるため、FCVのパワートレーン(駆動系)よりも安価に製造できる可能性がある。また、FCV向けの水素は純度が99・97%以上と高いが、水素エンジン向けは低純度でも使えるという。
レーサーとしての愛称「モリゾウ」としてレースに参加したトヨタの豊田章男社長は記者会見で、「脱炭素社会に向けた選択肢を広げる第一歩を示せた」と強調した。
「プリウス」で新たな市場を切り開いたハイブリッド車(HV)をはじめ、FCVやEVなど〝全方位〟のエコカー戦略を展開してきたトヨタ。一方で、菅義偉首相は昨年10月、所信表明演説で、「二酸化炭素などの温室効果ガスの排出を2050年までに実質ゼロにする」というカーボンニュートラル方針を表明した。
これに強い危機感を示してきたのが、日本自動車工業会会長を務める豊田社長だった。「順番を間違えてはいけない」。自工会会長としての4月22日の記者会見ではこう力説した。
念頭にあるのは、カーボンニュートラルの達成に向け、政府が30年代にガソリン車の販売を禁じるのではないかという報道だ。豊田社長は「そういうことを言われてしまうと、車を構成する約3万点の部品のうち、約1万点を占めるエンジン部品に関わる人々の仕事がなくなってしまう」と強調したのだ。
次世代のエコカーとして、最も多くの人が思い浮かべるのはEVだが、豊田社長は「EVありき」の風潮に強く反発している。「ゴールはあくまで、カーボンニュートラル。エンジン車だけに軸足を置いた環境規制ではなく、選択肢を広げていくことの方が先だ」と訴えた。
EVシフトに対する豊田社長の危機感
得意のHVの技術を応用して、EV開発でも優位性があると主張しているトヨタだが、EVシフトには危機感を持っている。
一つは、豊田社長が指摘した通り、愛知県内を中心に部品メーカーがピラミッド型の「ケイレツ(系列)」を形成しており、これがトヨタの競争力の源泉になっていることがある。EVが主流になれば、エンジンや変速機(トランスミッション)など、これまで重要な部品を供給してきたケイレツが解体され、トヨタのものづくりの強さが減衰してしまう恐れがある。
そして、EVの基幹部品は電池で、トヨタといえどもこの分野で独自性を発揮できるとは限らない。既にEVシフトを好機ととらえ、自動車強国を目指す中国は、政府主導で電池産業の振興を進めてきた。
世界中の自動車大手にEV向け電池を供給する寧徳時代新能源科技(CATL)は11年に設立されたばかりの企業だが、規模のメリットを最大限に活用して価格競争力を高め、電池の分野で世界首位だ。日本の自動車業界もEV化に邁進すれば、中国に心臓部を握られるという懸念は強い。
とは言っても、脱炭素の動きが進むのは必至の情勢だ。そこでトヨタは、水素エンジンをアピールし、車の二酸化炭素排出量を削減する選択肢がEVだけではないことを示したかったというわけだ。
水素エンジンが優位な点はどこか
トヨタは自社メディア「トヨタイムズ」で、「開発途中の水素エンジンをいきなり過酷なレースの場に持ち込むだけでも驚きだが、初戦に選んだのが24時間耐久レース。意気込みの強さは半端ではない」と強調した。
レースでは、二酸化炭素をほぼ排出しない水素エンジンの〝爆音〟が会場に鳴り響いた。後部座席に燃料を充填する炭素繊維製タンクを4本積み込んで走行。もっとも、燃費性能はまだ低く、レース中は水素供給設備を搭載したトラックに横付けし、充填作業を頻繁に行う必要があった。
1回7分程度で、24時間の走行中に35回もピットイン。多くのガソリン車は20回程度だったという。速さよりも確実に完走できるように万全を期した面はあったとしても、水素エンジンの課題と言えそうだ。
ならば、水素エンジンがガソリンやディーゼルに勝る点は何か。自動車ジャーナリストを対象にトヨタが実施した発表会で、Gazoo Racingカンパニープレジデントの佐藤恒治氏は、「水素は燃焼速度がガソリンの8倍と速いので、応答がすごくいい。低速のトルクの立ち上がりも早い」と強調した。「環境技術でありながら、音や振動など、クルマ好きが愛してやまない〝クルマ感〟が出せる」とも語った。
脱炭素の流れの中でも、1908年に米国で「T型フォード」が発売されて以来、100年以上も培われてきたエンジンの技術を活用したいトヨタの〝切り札〟が水素エンジンだということが分かる。
水素は燃えやすいため、エンジンの中で効率良く燃やすことが難しい。だが、佐藤氏はエンジン車の将来性について、「ベンチスペックで言えば、ガソリンのレベルと同等の出力が出せるレベルにはあるので、基本的には、ガソリンと遜色のない性能が出せると思っています」と述べている。
水素エンジン普及に向けたトヨタの戦略
水素エンジン普及に向けては技術的な問題よりも、脱炭素を実現するエコカー=EVという図式を転換できるかが重要になりそうだ。EVが圧倒的な主要エコカーとなれば、世界中に充電ステーションが建ち並び、水素ステーションの入る余地はなくなる。水素が全く使われない社会で水素エンジン車を売っても、一部の愛好家だけのものになり、水素や水素ステーション、水素エンジン車の量が増えず、コストが高止まりするからだ。
日本政府との連携も重要になる。カーボンニュートラル実現のために将来のエンジン車販売禁止を視野に入れる政府も、エコカーの本命として念頭にあるのはEVとみられる。だが、100万人の雇用が失われるという自工会会長の言葉は、失業率の抑制を重視する政府にとって看過できないはずだ。何より、資源のない日本にとって、地球上に最も存在量が多いとされる水素を活用できるという可能性は魅力的だ。
一方で、EVによる自動車強国を目指す中国はもちろん、欧米もEVを中心にしたエコカー普及策を進める可能性が高い。その中で水素エンジン車やHVに固執すれば、トヨタの優位性が低下する事態にもなりかねない。
現に、4月に就任したホンダの三部敏宏社長は、2040年に世界で販売するすべての新車をEVとFCVにすると発表。創業者の本田宗一郎氏が率いていた1970年代、大気汚染防止のために排ガスを厳しく規制した米マスキー法をCVCCエンジンでクリアし、世界中の自動車関係者を驚愕させたホンダが、エンジン技術を事実上封印する宣言をするほど、脱炭素とEVシフトの動きは強い。
トヨタはどのようにこの流れに対抗していくのか。国内メーカーと次々と資本提携を結び、「仲間づくり」を進めてきた豊田社長だけに、他社との連携で水素エンジン普及拡大を目指す手法を取る可能性がある。
特に、水素との親和性があるとされるロータリーエンジンを擁し、エンジン技術に強いこだわりを持つマツダはその有力候補だ。また、水素エンジン車の工場設立や拡大が、雇用創出に効果があると各国政府にアピールしていく可能性もある。水素エンジン車普及に向けた今後のトヨタの戦略から目が離せない。