高齢者が増えるにつれ増え続ける認知症患者。そのうちの7割を占めるアルツハイマー病の治療薬が米国で承認された。開発したのは日本のエーザイと米バイオジェン。このニュースにエーザイの株価はストップ高となったが、単純に喜べる話ではなさそうだ。文=ジャーナリスト/大竹史朗(『経済界』2021年9月号より加筆・転載)
エーザイ社長も驚いた紆余曲折の末の大逆転劇
6月7日、米製薬大手のバイオジェンが日本のエーザイと共同開発したアルツハイマー病治療薬「アデュカヌマブ」が米国で承認を得た。アルツハイマー病を引き起こす原因物質と目されている脳内の「アミロイドベータ」(Aβ)タンパク質に直接作用し、認知症の進行抑制をめざす疾患修飾薬としては、世界初の治療薬だ。この快挙を受けて、バイオジェン、エーザイの株価は急騰した。
しかし、「アデュヘルム」という製品名が付けられた同薬の効果には、専門家から次々と疑問の声があがっている。実際、開発は難航し、有効性を検証する2つの臨床試験では一貫した説得力のあるデータが得られておらず、一時は米国食品医薬品局(FDA)への申請そのものが危ぶまれていた。
実は、今回のFDAの承認は「迅速承認」と呼ばれる特別なスキームで下したもの。発売後も臨床試験の継続を求め、結果次第では承認を取り消すという、いわば仮免許のようなものだ。
日本でも昨年12月に承認申請していることから、厚生労働省は年内にもFDAと似た手続きでアデュカヌマブを承認することが予想される。ただ、Aβが認知症患者の脳内に蓄積していることをどうやって確認するのか、といった実際的な問題に対する懐疑的な意見に加え、両社がアデュヘルムに年間5万6千ドル、600万円超という強気の価格を設定したことにも批判が強まっている。
「驚きのあまり死ぬかと思った」
横文字だらけの独特の修辞で記者や証券関係者の質問を煙に巻くことが多いエーザイの内藤晴夫CEOだが、この日の決算説明会で口をついた言葉は恐らく本音だっただろう。
話は2019年10月末に遡る。バイオジェンとエーザイは、アデュカヌマブを20年初頭にも米国申請すると発表したが、内藤CEOの率直なコメントにも表れているように、申請できたこと自体が驚きだった。
14年3月にそれぞれパイプラインとして持つアルツハイマー病治療薬候補を持ち寄り、共同開発を進めるという提携関係を結んだ両社だが、アデュカヌマブをFDA申請に漕ぎつけるまで紆余曲折を重ねた。19年3月、同薬は一度、第Ⅲ相臨床試験を中止に追い込まれている。2つのほぼ同じ患者群を対象に同時並行で進めていた試験で、一貫した有効性データが得られなかったためだ。
失敗続きだったアルツハイマー治療薬の開発
アルツハイマー病治療薬の開発の歴史は、失敗の連続である。
アデュカヌマブは、Aβに対する「抗体医薬」と呼ばれるバイオ医薬品だが、かつて米ファイザーやスイスのロシュといった大手製薬企業が、同薬と同じコンセプトで治療薬開発に挑んだものの、どれも第Ⅲ相段階で撤退を強いられた。
これらの挫折で明らかになったのが、Aβが既にたくさん蓄積し症状が進行している患者に投与しても、もはや認知症に対する効果は期待できない、ということだった。抗Aβ抗体が効力を発揮するとすれば、Aβが溜まってプラークを形成する前に投与するしかない。どちらかと言えば、予防のためのワクチンに近い考え方だ。
この経験に基づき、バイオジェンとエーザイは軽症のアルツハイマー病患者と「軽度認知障害(MCI)」と呼ばれる発症前の患者予備軍に対象を絞って開発を進めてきた。しかし、それでも臨床試験で有効性を示すことはできなかったということだ。
FDAの承認は正式ではなく仮免許にすぎない
19年3月にアデュカヌマブの開発中止を発表していた両社が、半年たって一転、米国申請に踏み切ると発表したのは、データの解析方法を変更したからだ。
試験に参加した患者全体では、統計学的に有意な有効性データは得られなかったが、一部の患者層に限って解析すれば、「効果あり」と判定可能だというのである。具体的には、同薬の高用量投与群の結果だけを切り出せば、2本の試験で有効性について矛盾した結果にはならない、というものだ。
しかし、後付けにしか聞こえないこの説明がアルツハイマー病の専門家に受け入れられるかどうかについては当初、多くの臨床医や証券アナリストが懐疑的な見解を示していた。
そして、この見方は当たっていた。FDAは新薬の承認可否を判断する前に、必ずそれぞれの疾患分野の外部エキスパートで構成される諮問委員会に多数決による勧告を求める。FDAが最終判断を下すに当たり、この委員会勧告は参考意見にすぎないルールではあるが、昨年11月に示された諮問委員会のそれは、圧倒的多数でアデュカヌマブの有効性を否定するものだった。
この時点で、バイオジェンとエーザイに勝ち目は薄いという下馬評ができあがった。科学的に考えれば、アデュカヌマブが今年6月に製品化のお墨付きを得られるはずはなかったのだ。
そして、冷静に考えればこの大逆転劇が、必ずしも同薬の市場での成功を決定づけたとは言えないことは、FDAの承認にも表れている。
そもそも今回のFDAの承認は、正式な承認ではない。「Accelerated Approval(迅速承認)」と呼ばれるスキームに基づく、いわば仮免許だ。本来は抗がん剤など、ほかに治療手段がない患者のいのちをつなぐ目的で、データが不十分でも取りあえず承認を与え、条件として臨床試験の継続を求めているにすぎない。市販後であっても、試験成績が振るわなければ、承認自体が取り消される可能性もあるという前提に立っている。
ともあれ、アルツハイマー病患者やその家族の期待を一身に背負い、アデュカヌマブは製品化の第一歩を踏んだ。だが、夢の新薬は承認取消のリスクにとどまらず、もっと現実的な困難に直面する可能性が高い。
アルツハイマー治療薬の費用対効果は?
まず、アデュカヌマブを投与する患者を、実際の臨床現場でどうやって選別するのかが不透明だ。
認知症の原因のすべてがアルツハイマー病ではなく、約6~7割。脳内Aβがどれくらい溜まっているかは、PET検査を通じて画像で鑑別する必要があるが、そもそも脳アミロイドPET検査が普及しておらず、結果を正しく判定できる医師も十分ではないというのが実態だ。日本では保険適用されていないため、現状のままであれば、アデュカヌマブの投与を希望する患者が数十万円の検査費用を負担しなければならない。
加えて米国では、アデュヘルムによる治療が経済的かどうかの疑義も生じている。臨床試験の有効性データが十分ではないことは前述したとおり。だが、それにもかかわらず、バイオジェンとエーザイが付けた4週間に1回投与当たり4312ドル(約47万円)、年間5万ドル超という価格が、果たして費用対効果として正当なのか、という指摘である。
世界最大の医薬品市場である米国は、製薬企業が自由に薬価を設定できる数少ない国のひとつだ。患者が新薬を使えるかどうかは、原則としてその人が加入している民間保険プラン次第である。
こうした特殊な市場で近年、発言権を増している臨床的・経済的評価機構(ICER)が、アデュカヌマブをめぐって提起している問題点は多岐にわたる。そもそも、FDAが同薬を承認したこと自体に批判的だ。現時点で得られている臨床データからは統計学的に示すことができる効果は不十分であることから、医療経済学的には最大で年間約2万3千ドル、両社が設定した価格の半値以下が妥当と主張している。
だが、米国同様に条件付きながら来年には同薬を使えるようになっている見通しの日本を含め、多くの先進国では新薬の費用は公的保険で賄われる。アデュカヌマブは、決して夢の新薬ではない。費用対効果が不十分、という評価から欧州などでは承認はするものの公的保険ではカバーしない、という判断が下される可能性もある。
うがった見方をすれば、バイオジェンとエーザイが付けた強気の価格は実は長期的にそれほど多くのアルツハイマー病患者には使ってもらえないかもしれない、という前提に立っているのではないか。