140年以上の歴史を持つ日本が誇る最高学府・東京大学。昨年4月に、東京大学第31代総長に就任した藤井輝夫氏は、産業界との関係構築にも積極的に取り組んできた。藤井総長に、人の育て方と東京大学の目指す姿について聞いた。
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常に学ぶ人材が企業も国も強くする
学び直しの重要性
―― 社会人の学び直しの重要性が高まっています。
藤井 企業にとって人材の能力を高めることは資本を高めることでもあり、ますます重要になるのではないでしょうか。これまで企業の人材に対する支出は、人件費ばかりが議論されてきましたが、より多面的に人的資本について議論されるようになったのは良い傾向だと思います。
また、多様な人材が新たなスキルを身につけ社会の中を移動することは、日本全体の強さにもつながるはずです。これまでは教育を受けて就職し、定年を迎えたら引退してひと段落という単線的な流れでしたが、今後は社会人が仕事をしている間にも教育の場と行き来しながら学び直しをし、引退後もサポーターのような立場で人材の教育に関わっていく。それは企業人の教育もありますし、初等、中等教育でもありうる。もちろん大学でもあることです。そのような社会の姿を実現するために、学びにアクセスしやすい環境や、学び方そのものを学ぶ仕組みも充実させていく必要があると考えています。
個人的な話をさせていただくと、私は1964年の生まれで大学入学後は船舶工学の研究をしてきました。われわれの世代は半導体に関連した分野が花形という感じで、関連する企業が非常に優秀な人材を大量に雇っていました。しかしその後の半導体業界の推移を見れば、必ずしもそうした人材を活用し切れているとは言えない部分もあります。そうした非常に優秀な基礎力を持つ方々が、ある段階で新たなスキルを身につけ、次の活躍の場に移ることができれば、それは社会にとっても本人にとっても良いことだと思います。
これはいわゆるリスキリングの話でもあり、われわれ東京大学としても社会に貢献できる点だと考えている部分です。
例えば、東京大学エクステンションという子会社では、一定の職務経験を持つ人を対象にした研修事業を行っています。中でも、データ活用の基礎から高度な技術に至るまで学べるデータサイエンススクールは、毎年受講者が倍増しており、社会人の学びの機会を設けることが重要であることを強く実感しています。
それからもう1つ、今年の4月から「スマートシティスクール」という新しい社会人教育プログラムを始めます。これは、都市・地域のDXを進め、地域が抱える課題解決や新たな価値創造につなげていくスマートシティ構想を実現するために求められる、ものの考え方や仕事の進め方を身につけることに焦点を絞った実践型のプログラムです。学位プログラムや教養を身につける一般的な講座とは異なる内容で、東京大学の教員を中心にスマートシティ関連分野の第一線で活躍する専門家や実務家からなる講師陣による講義や討論が行われます。
―― 人が育つとは何でしょうか。
藤井 一言で表現するのはなかなか難しいですが、あえて言うならば自分が身につけた能力を生かして活動範囲を広げていくこと、と言えるかもしれません。先ほどの話で言えば、新たにスキルを身につけ活躍する場所が得られれば、それだけ接する世界が広がることになります。このプロセス自体が、人としての成長なのかなと思います。
学生の話で言えば、最初は大学の中だけで学修することが学びの中心になっています。それが徐々に大学の外へと活動の場が広がり、世界が広がる過程で、大学で得た知識を生かして未知なる課題に対峙する経験を繰り返す。これが成長の過程ではないかと考えています。
大学での学びの在り方として、「学びを社会と結び直す」と言ってきていますが、学生が社会の中のさまざまな現場に直接接する機会をより多く設けることに取り組んでいます。同時に、そうした機会を前向きに捉えて積極的に取り組んでもらえるようなインセンティブの設計や仕組み作りを行うことも、大事にしています。例えば学部学生に国際的な活動に参加してもらい、一定の条件を満たしたら、大学が国際総合力認定を行う「Go Global Gateway」という制度を2018年から始めています。
大学というのはどんな高みにも挑戦できる場所ですから、それをどう学生に主体的に活用してもらうか、それが重要だと思います。
大学とは人材育成の場
―― 大学は幅広い人材育成の場でもあります。
藤井 その通りです。われわれは社会の即戦力となるための教育を重視しているわけではありません。喫緊の課題に取り組むことももちろん大事ですが、多様な学問に基づく知を基盤にしながら、長いスパンで地球規模の課題にも対応できる人を育てようとしています。こういった人材は、すぐにビジネスに適応できるようなスキルが必ずしもあるわけではないかもしれません。しかし世の中の変化が激しい時代にあって、未来を見据えた時、必ず世界や人類に貢献できる資質だと考えています。
私が東京大学において人材育成で大事にしたいことが2つあります。1つは、東京大学憲章にも「世界の公共性に奉仕する」とあるように、グローバルな市民として知っておくべき地球規模の課題を正しく理解し、解決に取り組もうとする人材を輩出すること。もう1つが先ほどから申し上げているように、「学びを社会と結び直す」ことです。
そうした観点から、多様な制度を整えてきました。例えば、入学直後の学部学生が1年間の特別休学期間を取得し、学外でボランティアや就業体験、国際交流などの長期的な社会体験を行う「初年次長期自主活動プログラム」があります。また、「フィールドスタディ型政策協働プログラム」というものもあり、学生が全国各地の地域自治体に1カ月程度滞在し、いろんな課題を掘り起こします。その後、それを持ち帰り学内で先生や仲間と相談しながら解決策を考える。そしてまた自治体に戻って解決策を提案、実行するという内容です。現在までに13県20地域で実施し、文系理系を問わずさまざまな専門分野の学生が活躍しています。
このように、学生が大学で学ぶだけでなく、海外や地域の自治体、学外の学術機関などに飛び出し、学んだことを現場で生かす機会を今後も充実させていきます。
地球規模の課題については特に、GX(グリーントランスフォーメーション)を先導する高度人材育成に注力しています。SPRING GXというプロジェクトで、博士課程の学生約600人に経済的な支援をしながら、それぞれの専門分野の立場からGXという地球規模課題に取り組んでもらっています。このプロジェクトのポイントは本学の全研究科に所属するすべての分野の学生が手を上げられることで、実際にほぼすべての研究科から参加者がいます。多様な専門性を持った人たちが、それぞれの立場からGXについて考えるというのは、総合大学ならではの取り組みです。このように東京大学は、人類全体の重要な課題の解決に資する人材の輩出を目指しています。
―― 藤井総長の特色として産業界とのつながりもあるかと思います。
藤井 これまでもさまざまな挑戦を行ってきました。大学と企業の協力というと「産学連携」が一般的かもしれません。しかし産学連携は、個別の共同研究による特定の分野での個々の課題解決にとどまっていました。もちろんそれも大変意義のあることではありますが、そうした枠組みを超えて、大学と企業のトップ間で連携を合意する「産学協創」という形での取り組みを進めています。産学協創の良いところは、個別の研究テーマを超えて、社会の在り方、産業の方向性など大きな未来ビジョンを共有し、その下で共同研究のみならず、人材交流や本学発スタートアップとの協業など、さまざまなプログラムを実践できることです。
例えばダイキン工業とは、10年間で100億円規模の産学協創を進めています。その一環として「グローバルインターンシップ」という取り組みがあります。ダイキン工業の世界各地の拠点に東京大学の学生を滞在させていただきながら、海外で活躍する日本企業のビジネスの現場やグローバルなキャリア形成について学んでいます。
この他、昨年11月にはクボタとも10年間、これも100億円規模の産学協創協定を締結しました。脱炭素や自然共生に配慮した循環型社会の実現を目指して、食料、水、環境の分野で共同研究や人材交流を進めていきます。また、ソフトバンクとは世界最高レベルの人と知が集まる研究拠点として「Beyond AI研究推進機構」を開設するなど10年間で200億円規模という、国内最大級のプロジェクトが進行中です。
スタートアップについて
―― スタートアップも活発です。
藤井 これまで東大関連ベンチャーとして、430社以上を輩出し、そのうちIPOした企業も23社になり、国内の大学では突出した規模です。毎年30社から40社のペースで新しいスタートアップが誕生していますが、その背景として、スタートアップに投資を行うファンドや技術ライセンスの管理を行う子会社など、サポート体制を早くから整えていたことが良い影響を与えているのだと思います。加えて、05年からアントレプレナー道場という起業やスタートアップについて学ぶプログラムを設け、起業家教育に地道に取り組んできました。その受講者数も、近年右肩上がりで増加してきています。
自分の手で社会に貢献したいと考える学生が増えている印象があり、そうした思いを後押しする仕組みの整備には今後も力を入れていきたいと考えています。理想としては、よりグローバルに羽ばたけるようなスタートアップを増やしていきたいと思います。
開かれた大学で社会の未来を考える
産業界との関係
―― これから産業界とはどんな関係を構築していきますか。
藤井 産業界のみなさんとは、産業の在り方そのものが大きく変わりつつある状況を受けて、今後進むべき方向を一緒に考えていきたいと思っています。日本の場合は人口減や超高齢社会など喫緊の課題があり、どれも簡単に解決できるものではありません。しかし、大学という場所は多様な知を創出する場所です。われわれは産業界のみなさんと共に、あるべき未来、社会の姿を一緒に考え、課題解決に向けたアクションにつなげていきたいと考えています。
大学に蓄積された知恵や人材は、産業界はもちろん、日本社会全体、そして国際関係の中でも、もっといろいろな役割を果たせると信じています。大学が社会でしっかりと役割を果たす姿とは、大学の中に閉じこもって研究だけを極めるというものではなく、積極的に外に出ていって、具体的な貢献をしていくことだと考えています。
―― 開かれた存在であり続けるということでしょうか。
藤井 そうあらねばならないと思います。私は昨年4月に東京大学の総長に就任し、基本方針を議論してきました。それが「UTokyo COMPASS 多様性の海へ:対話が創造する未来」です。私の研究の舞台が海であることから、海をモチーフにした名称にしました。大きな前提として、これまで人類が追い求めてきた物質的・経済的な発展だけを今後も追い求めていくような、自分だけが良くなれば良いという考え方だけでは、人類全体のさらなる繁栄は難しいという認識に基づいています。その上で、大学はどのような役割を果たしていくべきかを基本方針で打ち出しました。
方針全体をつなぐ最も大切なキーワードが「対話」です。対話においては、お互いを認め合い、相互にリスペクトすることが非常に重要で、そうした信頼関係を広げていくことが大学に求められていることです。また、対話を通じて共感に基づく理解を広げていくことは、分断や差別などさまざまな困難を抱えている世界において非常に大事なことだと考えています。
対話とは未知なるものを知ろうとする営みであり、知るために問いを立てることから始まります。その問いを他者と共有し、ともに考えるプロセスを通じて相互理解や信頼が醸成される。そうして新しい知を一緒に生み出していく、あるいは大学が作り出してきた知を共有していく。その知が世界中の困難を乗り越えていく手掛かりになるはずです。こうした対話と信頼の相互連環こそが、新たな未来を拓くと信じています。
対話を実践する上で大事なことは、多様なものを受け入れ包み込むこと。多様な視点から議論をすることで、よりよく皆が納得する解決策を見いだせますし、それは学問においてはその到達点を高めることにもなります。同質的な集団では、導ける答えも限られてしまうはずです。
そうした考えから、大学を世界の誰もが来たくなる場にすべきだと考えています。学生や研究者はもちろん、職員、卒業生や社会人といった、さまざまな人が世界中から大学に集い、活発に活動する、そのような場にしたいと思っています。
このように「対話から創造へ」「多様性と包摂性」「世界の誰もが来たくなる大学」、この3つの考え方を共有し、大学を作り上げていく。これが東京大学の新しい基本方針です。「多様性の海へ」というサブタイトルにある通り、昔の高い壁に囲まれて近寄りがたいイメージのある大学ではなく、壁を低くして、学外のみなさんと対話をしながら、大学の活動が学外へと染み出していくイメージを私たちは描いています。
日本社会はこの先数十年を見渡すと、一人一人がこれまで以上に能力を高めて社会を支えていくことが求められます。東京大学は、そうした社会の中で多様な人が育つ場、新しい能力を身につけられる場として、役割を果たしていくべきと思っています。総長の任期残り5年の中で、着実に形にして進めていきます。