1925年に上野十蔵氏によって設立された中外製薬は、独自の創薬力を強みに成長を続けてきた。特に2017年以降、業績の伸びは著しく、21年まで5期連続で最高益を達成。時価総額は22年5月時点で約6兆円に達している。21年3月、CEOに就任した奥田修氏は、国産初の抗体医薬品アクテムラの開発責任者を務めた人物だ。奥田社長が日本の製薬産業の課題と中外製薬が目指す姿について語った。聞き手=和田一樹 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2022年8月号より)
医薬品は進歩してきたがまだまだ使命は多い
―― コロナ禍は医薬品の重要性を再認識させました。
奥田 改めて患者さんがいつでも医薬品にアクセスできることの重要性が再認識されたと感じています。また、製薬企業は医薬品の供給に関わる立場ですので、事業の責任をこれまで以上に強く感じています。
世界中で開発された新薬が実際に日本の患者さんにタイムリーに届いているかというと、必ずしもそうとは言えない事情があります。「過去5年間に欧米で承認された新薬のうち、72%が日本で発売されていない」こうした実態が、報道されるようになりました。
原因についてはさまざまな推論、仮説がありますが、まず考えられるのは、欧米で新薬を開発している企業が日本にオフィスを持っていないということです。
日本の医薬品市場は、30年ほど前には世界全体の市場のうち約20%を占めていましたが、現在は7%程度まで縮小しています。また、今後25年に向けてさらに縮小する見込みも示されています。
こうしたことから、新薬を開発する企業が日本市場に魅力を感じていないということはあるかもしれません。あるいは、日本の臨床試験の水準や薬事規制など、環境面のハードルが高いことも日本にオフィスを持たない要因と推測できます。
―― 国内製薬産業の課題は何でしょうか。
奥田 日本はもともとアメリカ、スイスに次ぐ創薬力を持つ国です。しかし、この状態が今後も続くかというと、大きく3つの懸念があります。
まず、基礎研究力の低下です。製薬産業は自社だけで薬を作ることはかなり難しいという事情があります。なぜかというと、医薬品を作るには、ベースとなる化合物を人体のどこのどんな分子に作用させるのかを理解する必要があり、病気に関する知見が不可欠だからです。
病気について最も研究しているのは大学や研究機関の研究者の方々です。日本はノーベル生理学・医学賞の受賞者を多く輩出してきましたが、それは20年前、30年前の研究成果があってこそ。保健分野における国の研究開発費は米英に比べ圧倒的に少なく、近年は大学の研究開発費も減少傾向にあるため、ボディブローのように日本の創薬力低下に影響することを憂慮しています。
次に、創薬のエコシステムについても課題は大きいと感じています。大学や研究機関で何か発見や発明があったとしても、それをベンチャーやスタートアップの形でビジネスにしていくシステムが十分とは言えません。背景にはリスクを取って投資するベンチャーキャピタルの数が少なく、投資金額も小さいことがあります。さらに、いざ立ち上げても経営できる人材が不足しています。
加えて、国内の医薬品生産能力の不足も懸念されます。今回の新型コロナについても、ワクチンや治療薬を開発した海外の製薬企業と連携して日本国内でも生産し、日本の患者さんに届けるという選択肢もあったはずです。しかし、実際は、生産力が限定的だったことで実現が不可能でした。
これらの課題については政府が対策を講じていくと思いますので、徐々に改善していくことを期待しています。解決することができれば、製薬産業は日本の基幹産業としてさらに成長することができるはずです。
―― 外部環境以外の課題は何でしょうか。
奥田 製薬企業が創薬する医薬品のモダリティ(種類)拡大も重要です。先ほど申し上げたように日本の創薬力には地力の強さがあります。しかし、その内実を見ると、「低分子医薬品」と呼ばれるものが多いという特徴があります。
医薬品は、その特徴からいくつかの種類に分類することができます。まず、従来主流だったのが、化学合成により製造され、分子量が小さい低分子医薬品です。1980年代になると遺伝子組み換え技術が登場したことで、タンパク質由来で分子量の大きいバイオ医薬品というものが作られるようになりました。さらに2000年代からは、バイオ医薬品の中でも抗体医薬品と呼ばれるものが登場しました。疾患に関与する体内分子にピンポイントで働きかけられるため、効果と安全性の両面で期待され、市場も拡大しています。
このように世界の医薬品は、低分子医薬品からバイオ医薬品、抗体医薬品に拡大してきた歴史があります。日本の製薬メーカーは低分子医薬品に強く、多様化にはやや遅れた印象が否めません。イノベーションが起きやすいような外部環境を整えつつ、製薬メーカーも世界の潮流に合わせた創薬力の強化が求められていると感じます。
―― 世界的な薬価を引き下げるトレンドは、製薬メーカーの経営に大きく影響しそうです。
奥田 薬価については何とも申し上げにくい部分ではありますが、「患者さんが新薬にアクセスしやすい環境を維持していくために」という観点でお話しします。
1つの新薬開発に必要な資金は3千億円、成功確率は3万分の1といわれています。このように、イノベーションが不可欠な新薬の開発には多額の投資が必要です。医療費削減、薬価の抑制が続いてしまうと、将来的なイノベーションを阻害することにつながりかねません。となれば、次の世代が新薬の恩恵を被れなくなってしまう懸念があります。
また、特に日本に限って言えば、上市された薬の売り上げが当初の想定を大きく上回った場合、特許で保護されている期間でも価格が下がる「市場拡大再算定」という制度があります。薬が売れているということは、患者さんに使われているということです。需要が大きい医薬品、言い換えれば効果・安全性から見て価値が高かったと評価できる医薬品ほど価格を下げる仕組みは、少なくともイノベーションを推奨する制度とは言えないのではないかと考えています。
創薬はイノベーションヘルスケア産業トップへ
―― 「ヘルスケア産業のトップイノベーター」を2030年の目標に掲げ、成長戦略を展開しています。
奥田 先行きが見通せない時代ですから、30年にどんな企業になっていたいかを考え、そこからバックキャストで長期的な戦略を構築したのが「TOP I 2030」です。ここまで申し上げたように、新薬の開発にはイノベーションが不可欠です。中外製薬はこれまでもイノベーションにこだわり続けてきた製薬企業であると自負していますが、ヘルスケア産業におけるトップイノベーターを目指しています。
なぜ製薬業界ではなくヘルスケア産業としたかというと、医療、ヘルスケア領域で価値を提供する企業が圧倒的に増えているからです。患者さんが健康な状態から不調になり、病気の診断を受け、治療を受ける。そこで治らなければ病気と付き合っていくことになる。こうしたペイシェント・ジャーニーで考えると、従来の医薬品メーカーは患者さんが病気になってから治療することに注力していました。
ところが現在、予防や早期治療において多様なプレーヤーがさまざまなソリューションを打ち出しています。医薬品に限っても、低分子医薬品やバイオ医薬品に加え、細胞治療や遺伝子治療など幅が広がっており、それだけプレーヤーが増えています。スマートフォンのアプリケーションで禁煙や高血圧の改善に効果があるサービスも出てきています。ヘルスケア領域では、アマゾンやアルファベットのようなテック系の企業も次々と参入しています。
競争相手は多岐にわたりますが、引き続き革新的医薬品を核としたイノベーションによる社会課題の解決を通じ、社会の発展と自社の成長を追求していくために、ヘルスケア産業のトップイノベーターと表現しました。
―― 実現の道筋はいかがですか。
奥田 「TOP I 2030」では、全体の方針として、「世界最高水準の創薬実現」、「先進的事業モデルの構築」という2つの柱を打ち出しています。
やはり中外製薬が強みとしてきた創薬技術基盤はさらに強化していかないといけません。デジタル技術の活用や積極的な外部連携とともに、全社資源を創薬および早期開発に集中的に投資していきます。その結果として、グローバル品を毎年上市できる会社を目指します。
また、先進的事業モデルについては、すべての業務プロセスでデジタル技術を活用し、生産性の向上と一人一人の患者さんのための価値の最大化を目指します。
こうした2つの方針を実現するために、社内のバリューチェーンを、基本的な競争力を生み出す「創薬」、患者さんへの価値を証明する仕組みである「開発」、創薬したものを製品化する「製薬」、価値を患者さんに届ける「Value Delivery」、そして人や組織、デジタル技術などの「成長基盤」という5つの構成要素に分解し、それぞれの領域で改革を行っていきます。
また今年の春には経営体制が大きく変わりました。3月末をもって、当時の小坂達朗会長と上野幹夫副会長が特別顧問となられました。小坂前会長は02年に始まったロシュとのアライアンスを成功に導いた人物であり、上野前副会長は創業家の一員で、中外製薬のサステナビリティ強化を主導されました。
4月からは、私も含めた8人の統括役員がけん引する経営体制です。中外製薬にとってリーダーシップの転換期だととらえています。時代の変化に応じた最適なリーダーシップにより、さらなるイノベーションを目指していきます。
業績面では、21年12月期の連結決算において、コア営業利益が4341億円となり、5年連続で過去最高益を更新することができました。自社の創薬力がしっかりとついてきて、その成果がグローバルの製品で花開いています。特に、リウマチ治療薬でCOVID-19による重症肺炎の治療にも使われるアクテムラ、非小細胞肺がん等の治療に用いられるアレセンサ、血友病A治療薬のへムライブラなどが成長をけん引しました。
また、好調な業績の基礎には、アライアンスを締結しているロシュからの導入品が安定的な収益源として存在することがあります。現在、創業以来初の売上収益1兆円超え、6期連続の最高益を実現するために邁進しているところです。
自分自身の価値を社会の価値に転換する場
―― もう一度、就職活動をするとしたら中外製薬を選びますか。
奥田 それは「はい」としか答えられない質問ですね(笑)。
ただ、そういう形式的なことは別にしても、中外製薬は自分自身の価値が、社会の価値につながっていく魅力的な場所です。今年の入社式で「働くというのは、皆さんの価値を社会の価値へと転換する作業であり、これまで培ってきた知識やスキルを生かして仕事をすることが、まわりまわって社会価値の創造につながっています」という言葉を伝えました。
私自身も中外製薬に入社を決めた理由の一つは、より多くの患者さんを救えるだろうと考えたからです。入社後は国産初の抗体医薬品であるアクテムラの研究開発に、人生の10年以上を捧げてきました。
薬を研究開発して社会に届けるというのは、本当にやりがいのある仕事です。もちろん苦労も多いです。失敗しそうになって、もうだめかもしれないと何度も諦めそうになりました。それでも何とか薬になるまでこぎつけることができました。
ときどき患者さんから感謝のお手紙を頂くことがあります。これは何ものにも代えがたい喜びです。私の人生を、患者さんのために、そして社会のために使っている実感があります。こんな経験はなかなかできないと思います。
ですから私は、もう一度生まれ変わっても中外製薬に入社します。また社長になれるかは、分かりませんけどね。